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・「東部のナローゲージ王国、イースト・ブロードトップ炭坑鉄道」・ペンシルバニア州
082. 盛夏のEBTナローゲージ・トレィン・ペンシルバニア州

〈0001:〉
とうもろこし畑のEBT列

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〈紀行文
 この狭い谷を少し下ると河が蛇行して僅かな平地が開けると穂並みの続くとうもろこしる畑が谷間を埋めていた。山裾の狭い田舎道から昔の製鉄の証人である大量のスラグで築かれた虎云う築堤をゆっくりとの後ってロックヒル ファーネスの基地に戻るツーリストれっしゃの色とりどりのカラーが森を背景に流れて行く。
盛夏のペンシルバニアである。
 さて、この離れ小島のような3フィート・ナローゲージ鉄道のEBTにも峠を越えた南への出口を模索した涙ぐましい活動を続けて来た歴史がある。それにはアメリカの鉄道史に「バンダービルドの愚行」として残るアパラチヤン山脈を貫いた大トンネルの話題も大いに関係があるので触れておきたい。次々と地名や鉄道名が出てくるが聞き流しておいて下さい。
 EBTはマウントユニオンが外界との唯一の接続点であったが、南部ぺンシルパニア方面からの誘惑も何回かあり、シェイドギャップ支線をニールトン迄伸長したのである。
第一回目は同じ3フイーと鉄道であるPeachBottom鉄道で、フィラデルフィア〜ョークを通り、南ぺンシルバニア経由でORBISONIAを結ぼうとする案で東部は建設中,西部は調査の段階に入っていた。しかしREADING鉄道が支援を中止したので計画は御破算となった。
その数ヶ月後、南の山裾に計画中のカンバーランド・バレー鉄道がE B Tと接続する契約ができて、EBTの支線は更に一層延伸したのであったが、残念ながら
山を征服することが出来ず計画は廃止された。第三番目の話は最も大きく魅力的なものであった。フィラデルフィア周辺の都市間を連結していたREADING鉄道は 自らの路線の延長として、幹線鉄道に恵まれない南ぺンシルバニアの各都市をつなぐ計画をたてていた。その手始めに、EBTの良質の石炭を南へ直接運び出すルートとしてのDuncannon, Landisburg & Broadtop 鉄道の敷設計画をチャーターしていた。その後、1857年にこのチャーターは改訂されて、Allegheny Portage 鉄道とPittsburgh & Connellsville 鉄道と連結する計画が容認された。そのためにはアレゲニー山脈を9つのトンネルで貫き、ピッバーグに至る計画なのであった。そして工事は2マイルほど完成した。1862年にはSPRR(南ペンシルバニア鉄道)となり、322 kmの建設計画が建てられたが、資金難から工事には至らず、1887年に2マイルノ完成した路盤は売却されてしまった。そしてこの使われなかったチャーターの改訂が東部の二大鉄道であるNYC(ニューヨーク・せんとらる鉄道)とPRR(ペンシルバニア鉄道」との1880年代の企業戦争の火ぶたとなるのである。当時、ニューョーク州のN YCとぺンシルバニア州のP R Rとは激烈な競争を西部への輸送ルートで演じていた仲であったからである。
 その頃、NYCを支配していた鉄道王のWilliam H. VanderbiltはPRRが自分の支配する領域に侵入シて、新しく建設されたNew York, West Shore & Buffalo 鉄道の支配権を獲得したことを知った。このラインはNYCのニューヨークからバッファローに至るルートと並行していたから潜在的に課題をおこすものとして対策を練っていた。そのときに、SPRRの南回りのハーリスブルグからピッツバーグへの幹線ルート建設の不調を知り、PRR対抗策として乗り出すことにした。SPRRのルートはP R R より勾配も低く,距離も50マイル短く競争力は充分であったので、 PRRの強硬な反対にも拘らず建設を超スピードで進めようとしていた。
彼はピッバーグのカーネギー財閥や投資家などにへPRRの独占を破るためにアレゲニー山地を貫くピッツバーグとハーリスブルグ間のメインラインの建設の資金を出すシンジケートの京成に成功した。そのルートの調査には陸軍の測量やエンジニアリング部隊の応援も得て、1881年に始まり、建設も続いて1880年代に始まった。そして、西部方面は彼の支配下にあるエリー鉄道を使うことにし、東部方面はリーデング鉄道が大西洋岸の欠く鉄道と連結して大陸横断経路を形成することを狙っていた。
そして、サスケハンナ河の橋梁工事、アパラチヤン山脈を越えるための、六つのトンネル、急はカーブと急勾配が続く路盤などの建設工事が1885年まで続いた。
 EBTはSPRRとの接続に全力を上げてヤードの建設を始めたのであった。ルートの9o%は路盤が完成、鉄橋も鋼材を架けるばかりにすすんでいた。
そのような時に、モルガン財閥の調停でこの案は中止となった。それはPRRとNYCの常識を破る競争のため、鉄道株は暴落し経済界に大きな問題を生じさせてぃたからである。P R Rは建設凡中のSPRRを買収し、N Y C は P R Rの所有するニューョーク州の競争線を買収しようとするものであった。この SPRRの路線は半世紀後にアメリカ最初の高速道路であるぺンシルバニア・ターンパイク(有料高速道路)のルートとして活用され、「rバンダービルトの愚行」と笑われたトンネルもやっと日の目を見ることになったのである。しかし E B Tのヤードは高速道路建設機械のガレージとして大ぃに役立ったが、EBTは支線に掛けた資金を取戻すことは困難であった。
そこへ第四の話が持ちこまれた.それは東の谷にあった27マイルの 3 フイートゲージのTUSCARORAバレー鉄道が, E B Tの支線を経由して南へメリランド州のハンコックに至る計画が出て来たが、1889年の 9 月に起きたこの地方の大洪水で,この機会も
成功しなかった。
 多くの 3 フィートゲージの小鉄道が標凖軌になって吸収されたり、廃業して消えつっあった中にあって、EBTは豊かな優秀な品質の石炭に支えられ,100年余のナローゲージ王国を守れたのも、南への接続が成功しなかったことにも関係があるような気がする。

撮影:1979
発表:「レイル」誌・1983年9号
東北新幹線大宮開業記念SL写真展、特選

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・「東部のナローゲージ王国、イースト・ブロードトップ炭坑鉄道」シリーズのリンク
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083. EBTナローゲージ♯15のポートレート・ペンシルバニア州
043. ナローゲージ名物“Stub Switch”のある風景・ペンシルバニア州
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