自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

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・ロイヤル ハドソンの牽く“サザン・スチーム・スペシャル”・サザン鉄道
031.  チャタヌガ・チューチューからの CPR 2839号 ・テネシー州

〈0001:〉
オネイダのロイヤル・ハド

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〈紀行文〉
 南
 アメリカの南部諸州を地盤にして鉄道サービス網を運営しているサザン鉄道は保存SL運転による地域市民への企業PRを兼ねた社会教育活動に熱心な鉄道会社の一つである。1979年になって、ペンシルバニア州の個人の所有する元カナデアン・パシフィック(CP)鉄道の流線型特急旅客用SLの“ロイヤル・ハドソン”♯2839を借り受けて、本線上を走るツアーのホスト役に登場させたから、その人気は鰻登りであった。1979年4月の中旬は南部のジョージア州,アラバマ州を走っていた “ROYAL HUDSON”がテネシー州にやって来て、「ピードモント・スチーム・えくスかーシょん」を行うことが報じられた。
オハイオ州に駐在していた私はに誘われるように、遠路南部へクルマを走らせたのだった。
このSLの旅はテネシー州の南端にあるチャタヌガ(Chattanooga)から北端の山の中の小さな町 オナイダ(Oeida)まで南北に約130マイル、高低差800フィートを往復する旅程であった。その発着点に当たるのが1940年代のヒットナンバー『Chattanooga Choo Choo/チャタヌガ・チュー・チュー』をそのまま名前にしている「チャタヌガ チューチュー鉄道博物館」と言う楽しいスペースであった。ここは1970年代初頭に旅客列車が来なくなったサザン鉄道の1909年建築の駅舎を中心に30エーカーの鉄道施設を保存して、1940年代の様式を保ったホテルや、鉄道と南北戦争の博物館、ショッピングモールなどのリゾートとして賑やかである。ここには市街電車(ストリートカー)も走っており、屡々ここに発着する蒸気運転のツーリスト列車が見られるのも楽しみのひとつである。本来なら、ダウンタウンにあって1957年までマイアミ、ワシントン、なっしゅびる、ブリストル、あとらんた、しんしなていなどへの旅客列車の発着を受け持っていた歴史的なユニオン・ステーションが1973年に都市再開発で失われてしまった今日、ここの駅舎は唯一残っている、かっての鉄道交通の中心地であったチャタヌガヲ示す唯一の貴重な記念物なのである。
 そしてコノツアーの走るルートは、オハイオ河水運の拠点港であるシンシナティからメキキコ湾岸のニュー オルリンスに向かって建設を始めたCNO&TP(シンシナティ・ニュー オルリンズ・アンドテキサス・パシフィック)鉄道が1870年代に建設したトンネルと高い鉄橋の多い山岳路線のシンシナテイ〜チャタヌーガ間336マイルの一部である。
実は、この鉄道の前進であるシンシナティ市が建設した発の公共鉄道でアルシンンシナティ・サザン・レイルウェイが1880年3月5日に、シンシナティからチャタヌガ行きの初めての旅客列車を小形の薪焚きの2−6−0の蒸気機関車が牽引しており、その列車には「チャタヌガ・チューチュー」とうニックネームで呼ばれたと云う。この“チュー・チュー”とは幼児語で「汽車ポッポ」とでも云ういみであろうか。
これが歴史的な出来事であったと云うのは、この頃から中西部から南部や西南部への旅のルートはテネシーのチャタヌガを経てアトランタへ出るのがスーパーウエイとなったからである。そしてこの祈念すべき列車は終着駅の古いプラットホームに誇らしげに展示されているのは最も保存にふさわしい場所であると云えるだろう。
そして、このルートはサザン鉄道によって格上げとトンネルの除去などの改善が施され中西部と南部を南北に結ぶ大動脈路線となっている。
 それに加えて1941年にグレン・ミラーが率いるビッグ・バンドが “Chattanooga Choo Choo”(チャタヌガ・チュー・チュー)と題する曲を発表した。冒頭に「A列車で行こう」の序奏をほとんどそのまま引用したあと、楽しい汽車の旅を連想させる前奏が続く。この楽曲は発表後たちまち大ヒットとなり、映これを主題歌とした映画ももアカデミー賞にノミネートされ、そのレコードは120万枚も販売されたと云う。その後も1970年代にもヒットし、サザン鉄道ではニューヨーク発チャタヌガ行きの特別列車を運転して物語を盛り上げたりしているのであった。現在でも、ジャズ、ビッグ・バンドのスタンダードナンバーの一つとして、しばしば演奏される。
 さて、この沿線に眼を転ずると、ここはテネシー河総合開発計画で有名なTVAの地域で、テネシー河は数多くのダムによって細長い赤く濁った湖を作っており、新緑のまっ盛りの中に、白いドックウッド(はなみずき)の花が咲き乱れるテネシーの山奥に入って行くのであった。
今年の始めには、“ロイヤル・ハドソン”の話題は全く知らなかったのですが、聞く所によると、このツアーのホストSLは、現在サザン鉄道が稼働できるSLの中でも、また現在アメリカで稼働できる最大機である2−10−4の車軸配置を持った元T&P(テキサス・パシフィック)鉄道の♯610だったのですが、足回りのホイルバランスの修理のために“ロイヤル・ハドソン”が代役を務める事になったとのことでした。何れにしても、このトラブルはファンにとって、思いがけないプレゼントを与えて呉れたのだったことに違いない。
 金曜日の夜,レンタカーを駆ってフロリダ街道と言われる75号ハイウェーを南下し、朝6時半にオナイダに到着すると云う強行軍でした。小さな山奥の鉱山街で、付近には石炭鉱山が散在し、高さ1500フィートの高原です.このオネイダの南には、ミシシピー河以東で最も高い鉄道橋があることがパンフレットに紹介されていましたので、これを中心に撮影することにしました。有難いことに28日,29日の二往復があることなので事前調査に精を出すことにしました。何しろ田舎町のことですから地図は売っておらず、専ら足で稼ぐしかありません。国道(県道と言った方がよい)を南に行くと、ニューリバーの橋があり、その下流に見上げるばかりのカーブしたアンダートラスの鉄道橋が見え、しめたと喜びました。念を入れる意味で、築堤を登って行くと驚いたことにレールがありません。国道の上をまたぐ陸橋には線路があり、入れ替えようのディーゼル機関車が2輛側線に入っているのですが ?  線路は鉄橋とは別の方向に下ってゆきます。線路は本線らしくしっかりしたものでした。そこで、早速オナイダに戻り駅の方に伺うことにして筆談をした所、10年前に新鉄橋を含めた眼新ルートが開通したとのことで、古鉄橋の前までは炭鉱へ向かう支線となっているとのことでした。しかし、新しい橋は山の中で近づくには10マイルは歩かなければとのことなので、止ムを得ず、遠くから眺めることにしました。そして、古い鉄橋に戻り、おそるおそる古い鉄橋に残る枕木を歩くこと200mで遠くの方に高い橋が望遠され、4重連の石炭列車が下って行くのを撮影しました。無風の快晴に恵まれましたので、橋は揺れませんでしたが、足場が悪く三脚をあきらめて、手持ちで撮ることにし,1時間橋の上でSL列車の通過を待ちました。遙か下の国道には鉄道ファンが数人古い鉄橋を見上げて、SLを待っていますが私に気がつき尋ねて来ました。アメリカ人に地理を教えるのは、初めで最後のことでしょう。
このニューリバー・ブリッジで待っている間に、3本の列車が通過して行き、アメリカ国内でも指折りの多忙な路線であることを証明しています。
終点のオナイダに戻ってみると、既にデルタ線を使って転向を済ませた列車からは大勢の旅人達が降りて大賑わいであった。街へ昼食に、ギフトを探しに、散歩に出かける人々、それに機関車の回りには、写真を撮る人々やギターを持ってかき鳴らす人等々、春のお祭りと云う感じであった。
いつもは石炭ホッパー車とデーゼル機関車で混雑しているオネイダの貨物ヤードもこのイベントのために広く空けてあって、そこに給炭と給水のためのSL留置線を用意していたのであった。多くのボランティアの若者たちがサザンのペテラン職員に混って忙しそうに働き出したロイヤル・ハドソンの回りには大勢の人々が取り巻いて、カメラをー構えるやら、飽きずに眺めているのであった。オナイダ駅には
既に給水塔も給炭ホームも撤去されてしまっているから、作業は大変であり、消化栓からの給水は街の水圧が下がらぬように行うのに苦慮していたようだった。
帰りは下り勾配なので、取りあえず発着点の「チャタヌガ・チュー・チュー」を訪ねることにした
園内で動態保存されて動き回っている路面電車がロイヤル・ハドソンと並んで撮影出来る箇所も用意されているとのことであった。アメリカの音楽には殆ど造形のない私にも、流れて来る「チャタヌガ・チュー・チュー」の汽車ポッポの歌とリズムは昔懐かしさを思い座させて呉れるものがあった。
 二日目には、鉄橋手前の堅そうな岩盤をカットした大きな切通しを見つけて、帰りのロイヤル・ハドソンを撮影して、テネシーに別れを告げた。
この煙室前面に埋め込まれた前照灯を特徴とするカナデアン・スタイルの流線型はそれから2年間くらい走ったとのことである。
最後にチャタヌガの地誌に触れておこう。ゆったりと流れるテネシー川と豊かな緑に囲まれて人口16万の地方都市で、ピードモント台地の西はずれにあります。「ャタヌーガ」と云う不思議な響きのする地名はげんじゅう先住民のチェロキー族の言葉で「岩が迫っている場所」との意味だとのことで、1815年には新大陸に渡ってきた入植者達によって、チャタヌーガは小さな交易所になりました。19世紀前半には入植者が増加したために、アパラチア山脈周辺に住んでいたチェロキー族を含む先住民の強制移住が決定し、その強制移住させられた際の中継地点になりました。      この強制移住の際に通った道は後に「涙のトレイル(Trail of Tears)」と名付けられています。アメリカ南部の産業を支える鉄道ルートの拠点だったこともあり、南北戦争の際には北軍が南部の補給路を断たせる為に、チャタヌーガは格好の攻撃対象になりました。1960年代には今の緑溢れるチャタヌーガからは想像も出来ないくらい重工業が発達し、全米一の空気汚染が深刻化している町として問題となりました。そこで住民自らが努力して、町を美しくする運動が起こりました。住民自らが望んで税率を上げ、ボランティアなどを中心として環境美化に努めました。結果、今では豊かな自然を生かした観光地としてチャタヌーガはよみがえりました。最大の見どころは、なんと言っても雄大な景色が楽しめる「ルックアウト・マウンテン」と「チャタヌガ チュウチュー」でしょう。

撮影:1979年
発表:「レイル」誌・1979年10月号

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・「ロイヤル ハドソンの牽く“サザン・スチーム・スペシャル”」シリーズのリンク
071. “Crecent:三日月”ルートを走るCPR 2839号・南部
072. タバコ都市を発射する“Dogwood Steam Special”・ノースカロライナ州
073. “Peamont Steam Special”のCPR 2839号・テネシー州


部の 諸州を地盤にして鉄道サービス網を運営しているサザン鉄道は保存SL運転による地域市民への企業PRを兼ねた社会教育活動に熱心な鉄道会社の一つである。1979年になって、ペンシルバニア州の個人の所有する元カナデアン・パシフィック(CP)鉄道の流線型特急旅客用SLの“ロイヤル・ハドソン”♯2839を借り受けて、本線上を走るツアーのホスト役に登場させたから、その人気は鰻登りであった。
  4 月の中旬は南部のジョージア州,アラバマ州を走って
いた,ROYAL HUDSONがテネシー州にやって来て、「ピードモント・スチーム・えくスかーシょん」を行うことが報じられた。
オハイオ州に駐在していた私はに誘われるように、遠路南部へクルマを走らせたのだった。
このSLの旅はテネシー州の南端にあるチャタヌガ(Chattanooga)から北端の山の中の小さな町 オナイダ(Oeida)まで南北に約130マイル、高低差800フィートを往復する旅程であった。その発着点に当たるのが1940年代のヒットナンバー“チャタヌガ チューチュー(Chattanooga Choo Choo)”をそのまま名前にしている「チャタヌガ チューチュー鉄道博物館」と言う楽しいスペースであった。ここは1970年代初頭に旅客列車が来なくなったサザン鉄道の1909年建築の駅舎を中心に30エーカーの鉄道施設を保存して、1940年代の様式を保ったホテルや、鉄道と南北戦争の博物館、ショッピングモールなどのリゾートとして賑やかである。ここには市街電車(ストリートカー)も走っており、屡々ここに発着する蒸気運転のツーリスト列車が見られるのも楽しみのひとつである。そして、ダウンタウンにあって1957年までマイアミ、ワシントン、なっしゅびる、ブリストル、あとらんた、しんしなていなどへの旅客列車の発着していた歴史的なユニオン・ステーションが1973年に失われてしまった今日、かっては鉄道交通の中心地であったチャタヌガヲ示す唯一の貴重な駅なのである。
 そしてコノツアーの走るルートは、オハイオ河水運の基地 シンシナティからメキキコ湾岸のニュー オルリンスに向かって建設を始めたCNO&TP(シンシナティ・ニュー オルリンズ・アンドテキサス・パシフィック)鉄道が1870年代に建設したトンネルと高い鉄橋の多い山岳路線のシンシナテイ〜チャタヌーガ間336マイルの一部である。
実は、この鉄道の前進であるシンシナティ市が建設した発の公共鉄道でアルシンンシナティ・サザン・レイルウェイが1880年3月5日に、シンシナティからチャタヌガ行きの初めての旅客列車を小形の薪焚きの2−6−0の蒸気機関車が牽引しており、その列車には「チャタヌガ・チューチュー」とうニックネームが冠せられたと云われる。これが歴史的出来事なのは、これにより この頃から、中西部から南部、西南部への旅はテネシーのチャタヌガを経てアトランタへ出るのがスーパーウエイとなったからである。そしてこの祈念すべき列車は終着駅の古いプラットホームに誇らしげに展示されているのは最も保存にふさわしい場所であると云えるだろう。
そして、このルートはサザン鉄道によって格上げとトンネルの除去などの改善が施され中西部と南部を南北に結ぶ大動脈路線となっている。
 それに加えて、グレンミラー楽団によってレコーデングされた“Chattanooga Choo Choo”が1940年代のヒットナンバーとなり、映画やアクロバットダンスが作られたのだった。その後も1970年代にもヒットし、又1990年代にも再びビデオヤステレオ・レコーデングが行われたし、サザン鉄道はニューヨーク発チャタヌガ行きの特別列車を運転して物語を盛り上げたりしているのであった。この唄は別に特定の列車を示している訳ではないのに、それぞれが勝手に取りあげて物語を作って盛り上げているのであった。
 て、この沿線に眼を転ずると、ここはテネシー河総合開発計画で有名なTVAの地域で、テネシー河は数多くのダムによって細長い赤く濁った湖を作っており、新緑のまっ盛りの中に、白いドックウッド(はなみずき)の花が咲き乱れるテネシーの山奥に入って行くのであった。
今年の始めには、“ロイヤル・ハドソン”の話題は全く知らなかったのですが、聞く所によると、このツアーのホストSLは、現在サザン鉄道が稼働できるSLの中でも、また現在アメリカで稼働できる最大機である2−10−4の車軸配置を持った元T&P(テキサス・パシフィック)鉄道の♯610だったのですが、足回りのホイルバランスの修理のために“ロイヤル・ハドソン”が代役を務める事になったとのことでした。何れにしても、このトラブルはファンにとって、思いがけないプレゼントを与えて呉れたのだったことに違いない。
 金曜日の夜,レンタカーを駆ってフロリダ街道と言われる75号ハイウェーを南下し、朝6時半にオナイダに到着すると云う強行軍でした。小さな山奥の鉱山街で、付近には石炭鉱山が散在し、高さ1500フィートの高原です.このオネイダの南には、ミシシピー河以東で最も高い鉄道橋があることがパンフレットに紹介されていましたので、これを中心に撮影することにしました。有難いことに28日,29日の二往復があることなので事前調査に精を出すことにしました。何しろ田舎町のことですから地図は売っておらず、専ら足で稼ぐしかありません。国道(県道と言った方がよい)を南に行くと、ニューリバーの橋があり、その下流に見上げるばかりのカーブしたアンダートラスの鉄道橋が見え、しめたと喜びました。念を入れる意味で、築堤を登って行くと驚いたことにレールがありません。国道の上をまたぐ陸橋には線路があり、入れ替えようのディーゼル機関車が2輛側線に入っているのですが ?  線路は鉄橋とは別の方向に下ってゆきます。線路は本線らしくしっかりしたものでした。そこで、早速オナイダに戻り駅の方に伺うことにして筆談をした所、10年前に新鉄橋を含めた眼新ルートが開通したとのことで、古鉄橋の前までは炭鉱へ向かう支線となっているとのことでした。しかし、新しい橋は山の中で近づくには10マイルは歩かなければとのことなので、止ムを得ず、遠くから眺めることにしました。そして、古い鉄橋に戻り、おそるおそる古い鉄橋に残る枕木を歩くこと200mで遠くの方に高い橋が望遠され、4重連の石炭列車が下って行くのを撮影しました。無風の快晴に恵まれましたので、橋は揺れませんでしたが、足場が悪く三脚をあきらめて、手持ちで撮ることにし,1時間橋の上でSL列車の通過を待ちました。遙か下の国道には鉄道ファンが数人古い鉄橋を見上げて、SLを待っていますが私に気がつき尋ねて来ました。アメリカ人に地理を教えるのは、初めで最後のことでしょう。
このニューリバー・ブリッジで待っている間に、3本の列車が通過して行き、アメリカ国内でも指折りの多忙な路線であることを証明しています。
終点のオナイダに戻ってみると、既にデルタ線を使って転向を済ませた列車からは大勢の旅人達が降りて大賑わいであった。街へ昼食に、ギフトを探しに、散歩に出かける人々、それに機関車の回りには、写真を撮る人々やギターを持ってかき鳴らす人等々、春のお祭りと云う感じであった。
いつもは炭車とデーゼル機関車で混雑しているオネイダの貨物ヤードもこのイベントのために広く空けてあって、そこに給炭と給水のためのSL留置線を用意していたのであった。多くのボランティアの若者たちがサザンのペテラン職員に混って忙しそうに働き出したロイヤル・ハドソンの回りには大勢の人々が取り巻いて、カメラをー構えるやら、飽きずに眺めているのであった。オナイダ駅には
既に給水塔も給炭ホームも撤去されてしまっているから、作業は大変であり、消化栓からの給水は街の水圧が下がらぬように行うのに苦慮していたようだった。
帰りは下り勾配なので、取りあえず発着点のノチャタヌガ チューチュウーを訪ねることにした
園内で動態保存されて動き回っている路面電車がロイヤル・ハドソンと並んで撮影出来る箇所も用意されているとのことであった。アメリカの音楽には殆ど造形のない私にも、流れて来る「チャタヌガ チューチュー」の汽車ポッポの歌とリズムは昔懐かしさを思い座させて呉れるものがあった。
 二日目には、鉄橋手前の堅そうな岩盤をカットした大きな切通しを見つけて、帰りのロイヤル・ハドソンを撮影して、テネシーに別れを告げた。
この煙室前面に埋め込まれた前照灯を特徴とするカナデアン・スタイルの流線型はそれから2年間くらい走ったとのことである。
最後にチャタヌガの地誌に触れておこう。ゆったりと流れるテネシー川と豊かな緑に囲まれて人口16万の地方都市で、ピードモント台地の西はずれにあります。「ャタヌーガ」と云う不思議な響きのする地名はげんじゅう先住民のチェロキー族の言葉で「岩が迫っている場所」との意味だとのことで、1815年には新大陸に渡ってきた入植者達によって、チャタヌーガは小さな交易所になりました。19世紀前半には入植者が増加したために、アパラチア山脈周辺に住んでいたチェロキー族を含む先住民の強制移住が決定し、その強制移住させられた際の中継地点になりました。      この強制移住の際に通った道は後に「涙のトレイル(Trail of Tears)」と名付けられています。アメリカ南部の産業を支える鉄道ルートの拠点だったこともあり、南北戦争の際には北軍が南部の補給路を断たせる為に、チャタヌーガは格好の攻撃対象になりました。1960年代には今の緑溢れるチャタヌーガからは想像も出来ないくらい重工業が発達し、全米一の空気汚染が深刻化している町として問題となりました。そこで住民自らが努力して、町を美しくする運動が起こりました。住民自らが望んで税率を上げ、ボランティアなどを中心として環境美化に努めました。結果、今では豊かな自然を生かした観光地としてチャタヌーガはよみがえっている。

〈参考web〉
「Chattanooga Choo Choo/チャタヌガ・チュー・チュー/スタンダードジャズ」
http://miruko.com/standars/c/chattanooga_choo_choo.html