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説教題:「主にある喜び」

聖 書:ピリピ人への手紙4章1〜7節

今朝は、1章1節に「パウロとテモテから、ピリピにいる、キリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、ならびに監督たちと執事たちへ。」とパウロさんとテモテさんの二人からピリピ教会の教会員と監督と執事たちに宛てて書いていることが分かります。

 日本の教会でイエス様を信じた信仰者を「信徒」と言っていますが、韓国のキリスト教会では、教会員を聖徒と呼んでいます。

 聖書知識ですが、口語訳聖書では「信徒」と訳している箇所が三箇所「聖徒」とやくしている箇所が89箇所、新共同訳聖書、新改訳聖書には「信徒」という訳している箇所は一箇所もなくギリシァ語のアギオイという「神の用に聖別された者」の意味である「聖徒」と訳しているのです。

 聖書的解釈からすると「聖徒」と訳した方がいいと思いますが、なぜか口語訳聖書を編纂した人はアギオイという言葉を「信徒」と訳したり「聖徒」と訳したりしており、使徒行伝2章42節では「そして一同はひたすら、使徒たちの教を守り、信徒の交わりをなし、共にパンをさき、祈をしていた。」とアギオイという言葉が原文にないにもかかわらず「信徒」という言葉を挿入しているのです。

日本のキリスト教会では信仰者を「信徒」つまり「イエスを信じた者」という事になれてしまっていますが、「聖徒」つまり「神に聖別された者」と意味から、自分は神様により聖別された者なんだと自らの信仰の襟を正すことができる言葉なのです。

「監督」とは初代教会において一つの群に複数の「年寄り職」がたてられ、教会員たちの指導をしていてことから、現在の役員的存在だったと思われるのです。

「執事」とは、デアコノスというギリシァ語で「食卓の給仕人、奉仕者、奉公人」という意味から、現在教会の中で様々な奉仕者として奉仕している人のことを指しているのです。

この1節から、パウロさんとテモテさんがピリピ教会全体の人々に対して送った手紙ということがわかります。

2章1節に「あなたがたに、キリストによる勧め、愛の励まし、御霊の交わり、熱愛とあわれみとが、いくらかでもあるなら、どうか同じ思いとなり、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、一つ思いになって、わたしの喜びを満たしてほしい。」と語っているのです。

この言葉によってピリピ教会の内部の様子を伺うことが出来るのですが、ピリピ教会の中で、聖徒同士が主イエス・キリストを信じる者として、神様のみ教えに反したことをしている事に対して、信仰の真髄に戻って欲しいと願っていることが分かるのです。

教会の中のゴタゴタは何時の時代でも起ることであり、起っていることでもあるのです。

「同じ愛の心」とは、イエス様が「自分を愛するように隣人を愛せよ」という愛のことでアガペーの愛は、世界の中で自分が中心であり、自分を大事にしているように隣人を大事に思えということなのです。

人間世界の中で、全く同じ考え、同じ思いをもつものは誰一人存在しないことから、教会の中においても同じことなのです。

ただ一つ「主イエス・キリストを信じる」ことだけが同じなのです。

4章1節において、パウロ先生は「だから、わたしの愛し慕っている兄弟たちよ。わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ。このように、主にあって堅く立ちなさい。」と言っているのです。

パウロ先生は「だから」と強調する言葉を使っており、「主にあって堅く立ちなさい」と言っているのです。

堅く立てとは、主イエス・キリストを信じ、神様により「聖徒」とされたからには、信仰の基礎をしっかりと据え、信仰者としての歩みを踏み外す事なく歩み続けなさいと言っているのです。

2節には具体的に「わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。」と二人の婦人が登場しているのです。

ピリピ教会の二人の婦人は、神の国の福音の為に戦っていることは分かっているが、お互いに思い合いながら福音の為に戦ってほしいと言っており、3節で「真実な協力者」に二人を助けるようにと言っているのです。

「協力者」という言葉は「くびきにつけられている者」という意味があるので、本当の意味で共に行動しなければ前に進むことができないことから、神の国の福音を伝えるためには、主イエス・キリストに服従している者が「真の協力者」になることが言われているのです。

ピリピ人への手紙4章4節「あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。」と記されている言葉で誰もが知っている言葉です。

 フランシスコ訳聖書では「主に結ばれた者として、いつも喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」と訳していますが、「主に結ばれた者」とは「主に聖別された者」ということになるのです。

 主に聖別されたものは、5節で「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。」と「寛容」な心が必要であると言っているのです。

 「寛容」とは「寛大な、思いやりのある、穏和な、優しい」ということであり、教会員一人一人が寛容な心になることを心得ておくことを主は近くで見ておられるのです。

 だから、6節をフランシスコ訳聖書では「何事も心配せず、すべてにおいて感謝をこめて祈り、かつ、願い、あなた方が望んでいることを神に向かって打ち明けなさい。」と訳しているのです。

 7節もフランシスコ訳聖書でみると「そうすれば、人間の理解を遥かに超える神の平和が、キリスト・イエスに結ばれているあなた方の心と思いを守ってくださいます。」と訳されているのです。

 誰しも、明日自分が死ぬとは思ってはいません、しかし人間の死は神様が握っておられ、再臨と同じその時がいつ来るかは神様のみが知っているのです。

 主イエス・キリストを信じていない者も信じている者にも、肉体の死は平等に訪れてくるのです。

 神様は、神様の御思いを聖書を通して、主イエス・キリストを信じるならば、神の前に義とされ、聖徒とされしかるべき再臨の時には主により御国へ携え挙げられ永遠の命を与えられると語っておられるのです。

 短い人生において、常に主にある喜びをもって生涯を歩む事を主が望んでおられることをしっかりと肝にめいじておかなければならないのです。    

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