11月3日  11月10日  11月17日  11月24日 

説教題:「主の助け」

聖 書:詩篇107篇1〜15節

 今朝は、詩篇107篇から御言葉を聞いて参ります。

 その背景には南ユダ王国の人々がバビロニア帝国により、国を滅ぼされ10節に「暗黒と深いやみの中にいる者、苦しみと、くろがねに縛られた者」と最悪の状況に置かれていたが、14節「暗黒と深いやみから彼らを導き出して、そのかせをこわされた。」と、主なる神様が南ユダ王国の人々を救い出したことから、説教題を「主の助け」としたのです。

   そして、この107篇の1節に「主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と記されており、原文で読んでみると「感謝せよ、主に、なぜなら、まことに主の慈しみは永遠に良い」となります。

 「感謝せよ」とはヘブル語でホドゥ−と言って、信仰者は常に「主に感謝」することを意識していなければならないことを教えておられるのです。

 詩篇には、106、107、118:1.2、118、136:1.3に「感謝せよ、主に、なぜなら、まことに主の慈しみは永遠に良い」が冒頭に記されているのです。

そしてイザヤ書12章4節に「主に感謝せよ。そのみ名を呼べ。そのみわざをもろもろの民の中につたえよ。そのみ名のあがむべきことを語りつげよ。」と具体的に「主に感謝」することは、常に神様を呼び求め、そして自分の周りにいる人々に、主がなされているさまざまなことを教えることが必要だと言われているのです。

 エレミヤ書33章11節には「万軍の主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみは、いつまでも絶えることがない」と記されており、主に感謝することを「万軍に主に感謝」と、主なる神様は万軍の主であると言われているのです。

万軍の主とは、天地万物をお造りなられた神様のことで、その神様はコロサイ人への手紙1章15節に「御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。」と、人間の目で見ることが出来ませんが、ローマ人への手紙1章19節20節に「神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。」とパウロ先生は、見えない神様ではあるが、現在ある全てのものは、神様により造られいることから、それらを見て神様を否定することは決して出来ないことだと断言しているのです。

主イエス・キリストを信じたものは、詩篇107篇2節で「贖われた者たちは、主に言うように、苦しめる者の手から、主が彼らを贖った」と記されているのです。

南ユダ王国の人々は、主により助けられ、再びイスラエルの地に帰ることが出来、エルサレムにおいて第二神殿を造ることが出来ましたが、それら全ては主がバビロニア帝国をペルシャ帝国に滅ぼし、クロス王により南ユダ王国の人々が解放されたわけではありますが、束縛されていた所から贖い出されたつまり買い戻されたからなのです。

 私たち異邦人も主イエス・キリストを信じることにより、買い戻されたわけですが、誰から買い戻されたかというと、悪魔から買い戻されたということなのです。

 詩篇107篇4節には「彼らは荒野の中で、荒れ地の道で迷った、住むことが出来る町が見つからなかった」と記されている事は、バビロニア帝国において捕囚の民となった南ユダ王国人々にとって、そこは安住の場所ではなかったのです。

 エゼキエル書37章14節に「わたしがわが霊を、あなたがたのうちに置いて、あなたがたを生かし、あなたがたをその地に安住させる時、あなたがたは、主なるわたしがこれを言い、これをおこなったことを悟ると、主は言われる」と記されている箇所があります。

 安住の地とは、ルツ記2章12節に「主があなたのしたことに報いられるように。どうぞ、イスラエルの神、主、すなわちあなたがその翼の下に身を寄せようとしてきた主からじゅうぶんの報いを得られるように」とするされているように、主の御翼に覆われることなのです。

 マタイによる福音書23章37節に「ああ、エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、おまえにつかわされた人たちを石で打ち殺す者よ。ちょうど、めんどりが翼の下にそのひなを集めるように、わたしはおまえの子らを幾たび集めようとしたことであろう。それだのに、おまえたちは応じようとしなかった。」とイエス様が嘆いておられる様子が記されているのです。

 この世に生を受けた全ての人に対して、主なる神様は「いつまでも悪魔の奴隷に甘んじているのではなく、私のもとに帰って来なさいと言われていますが、多くの人々はその招きに応じようとしない」と、イエス様が嘆いておられるのです。

   確かに、人は頑なな心を持っており、やすやすと主の招きに応じようとしないものですが、107篇5節に「彼らの魂が弱り果て乾いている」とあるように、人はおかれた苦難苦しみに、霊的に弱り果てしまうのです。

 その弱り果てた者が107篇6節で「彼らの苦難の中で、主に向かって叫んだ。主は彼らの苦境から救い出した」と記されているのです。

 大切な事は、詩篇88篇9節で「わたしの目は悲しみによって衰えました。主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び、あなたにむかってわが両手を伸べました。」と記されているように、神様に全てを委ねるという意思をもって両手を挙げ主に向かって叫ぶことで、主の助けがあるのです。

 107篇9節に「主は、彼らの乾いた魂を満足させた。そして飢えた魂を良い者で満たした。」と記されているのです。

 そうです、不安な心は悪魔から来るもので、その不安な心を主なる神様が平安な心で満たして下さるのです。

 しかし、主なる神様が決して油断してはならないと言われており、少しでも油断すると107篇10節において「闇と死の蔭に座っていた者たち。鉄と貧しさに縛られた者たち」と記されている人は、11節で「彼らは神の言葉に逆らった。そして糸高き者の道元を侮った」と記されているのです。

 主のみ翼の下に守られている者でも、そのみ翼の下から出る事により、再び死の蔭に座るもの、つまり悪魔の奴隷に戻ってしまうという人のことを言っているのです。

 悪魔の奴隷に戻ってしまった人は12節で「主は彼らの心を苦役で屈服させた。彼らはよろめいたが、助けるものはいない。」と記されているのです。

 そのような状況になって再び13節で「彼らは苦難の中で、主に向かって叫んだ。主は彼らの苦境から救った」と記されているのです。

 主なる神様は忍耐強いお方であり、愛のお方でもあるので、他の被造物と異なり、神様の似姿に似せて創造された人間を本当に愛しておられるのです。

 ですから、何度神様の下を離れても、再び神様に心の底から主のみ助けを願い叫ぶことにより、神様が助けて下さると言われているのです。

 だからこそ15節に「彼の慈しみを主に感謝するように。そして主が主により造られた人々の不思議な業を感謝せよ」と記されているのです。

 私たち一人一人は、主なる神様によってこの世に生を受けたもので、与えられた生涯を送りやがては土に帰る存在なのです。

 キリスト教は難しい事を言っているのではなく、主イエス・キリストを信じる事で、ヨハネによる福音書11章25節でイエス様が「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。」と、肉体が死んでも永遠の命が与えられると言われている優しい教えなのです。

 主の助けに感謝しましょう。

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