11月3日  11月10日  11月17日  11月24日

説教題:「目を覚まして慎んでいよう」

聖 書:テサロニケ人への第一の手紙5章1〜11節

 今朝は、パウロ先生とシルワノさんそしてテモテさんがテサロニケにいるキリスト者達に書き送っている手紙から御言葉を聞いて参ります。

 実は、パウロ先生が3名連記で手紙を書き送っているのは、テサロニケの人々に対してだけであり、第二の手紙も「パウロとシルワノとテモテから、わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ」と記されているのです。

 ここで「教会へ」と記されている言葉ですが、ギリシァ語ではエクレシアという言葉が使われてはいまずが、パウロ先生時代エクレシアは「主イエス・キリストを信じている人々の集まり」のことであり、現在あるようなキリスト教会という組織だったものではなく、イエス・キリストを信じている人々が礼拝を守っているということだったのです。

 当時は、主イエス・キリストを信じた信仰者は、ユダヤ教の会堂、つまりシナゴーグにおいて礼拝を守っていた人々のことで、マタイによる福音書18章20節で「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」と言われている箇所において、集まるという言葉がシナゴーグなので、シナゴーグの中におい十人(ミンヤーン)集まらなくても、イエス様がその中に存在していると解釈出来るのです。

 また、使徒行伝16章13節に「ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。」と記されている箇所は、マケドニヤにはユダヤ人の数が少なく、シナゴーグを作ることが出来る、10人に満たなかったので、祈りの場所を川のほとりにしていたと考えられるのです。

その背景があることを条件にすると「主が幻を見せ、マケドニヤに行くことを決めマケドニヤには、シナゴーグが無かったので安息日に何処に祈り場があるかと、探し川のほとりで数人の婦人たちが祈っていたので話しをした」となります。

 初代教会時代、キリスト教徒たちは、ユダヤ教からは異端とされ、ローマ帝国からは迫害を受けていたことから、ローマ帝国に認められていたユダヤ教のシナゴーグでの礼拝が一番安心できる場所ではありましたが、紀元90年にはそのシナゴーグからもおいだされてしまったので、主イエス・キリスト信じた人たちは礼拝を捧げるということだけで大変な努力が必要だったのです。

 そこで、キリスト教徒たちは、ローマ帝国のキリスト教徒迫害から身を隠すように地下に礼拝堂を作り、地上の人には分からないように密かに礼拝を献げていたのです。

 紀元4世紀にローマ帝国が、キリスト教を公式に認めたことにより、地下の礼拝堂から地上に礼拝堂をたてるようになり、現在では全世界でキリスト教の会堂は47,000程あると言われているのです。

エルサレムから遠く離れた場所においては、イエスという名前すら知りませんでしたが、パウロ先生が語る神の国の福音のおかげで、イエス・キリストを神の御子と信じ受けれた人々の中にテサロニケの人々も含まれていたのです。

テサロニケ人への第一の手紙1章4節で「あなたがたは神に選ばれた」からであり5節に「力と聖霊と強い確信とによったからである」と聖霊の後押しがなければイエスを信じることが出来なかったと言っているのです。

信仰者として大切な事は1章10節に「死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。」と、信仰者は再びイエス様が地上に降りてこられる再臨の時に救い出してくださる事を言い広めていると言っているのです。

パウロ先生自身も、再臨待望者であり、テサロニケの信仰者たちも再臨を待ち望んでいたことから、この手紙を通して語っているのです。

パウロ先生は、再臨は5章2節で「主の日は盗人が夜くるように来る」と言っているのです。

イエス様がこの地上に再び来れると再臨ということが記されている箇所は、マタイによる福音書24章30節31節「そのとき、人の子のしるしが天に現れるであろう。またそのとき、地のすべての民族は嘆き、そして力と大いなる栄光とをもって、人の子が天の雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。また、彼は大いなるラッパの音と共に御使たちをつかわして、天のはてからはてに至るまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。」と記されているのです。

37節には「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。」と再臨は天使たちも神様の御子であるイエス様も知っておらず、全能の神様だけが知っていると言われているのです。

興味深いのは37節で「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。」と記されている事です、ノアは神様が創造したものを滅ぼすために、大洪水を起こされるので、箱船に乗るように人々に勧めたが、人々はノアの言葉を聞かず、箱船の扉が閉じられた後に洪水が起り、それから箱船に乗ろうとしても乗れなかった人々が洪水に飲み込まれてしまったのです。

イエス様の再臨も、マタ24章39節で「洪水が襲ってきて、いっさいのものをさらって行くまで、彼らは気がつかなかった。人の子の現れるもの、そのようであろう」と言われているように、パウロ先生を通して何千年も語られていますが、再臨があったときに初めて気がつくけれども、その時にはすでに天の扉は閉められているのです。

   ルカによる福音書16章には、興味深いはなしがありますが、19節に「ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。」と記され20節21節に「ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。」と金持ちと貧しい者の話しです。

 当然、金持ちも貧しいものも、主の前では平等で、それぞれの生涯を終り、肉体は土に帰ったのです。

 金持ちは、死後の世界を指す黄泉にいたのです。

黄泉とはヘブライ語ではシェオル、ギリシァ語ではハデスと言われている所であり死後の魂が再臨まで居る場所のことですが、目を上げると、死ぬ前に自分の家の玄関先で、自分の家から残った食べ物を食べていたラザロがアブラハムと一緒にいることを見て、アブラハムに叫んだのです。

30節に「父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう」と願いましたが、31節で「もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう」とアブラハムが答えているのです。

つまり、今生きている者で、聖書の御言葉を聞き入れない者は、イエスが死人の中から蘇った話しを聞いても、信じることはないだろうと言っているのです。

この話しは、現在生きていて主イエス・キリストを信じていない人全てに駆られていることであり、人々の心が如何に無関心であるかを語っている重要なことなのです。

一テサ5章3節では、妊婦に産みの苦しみが臨むように、再臨は突如として訪れるが、4節において、主イエス・キリストを信じている再臨待望者にとっては突然の事では無く、予測していたことなので、再臨を受けいれる事が出来ると言われているのです。

5章6節において、だからこそ、神様の翼の下から自ら出てしまっている者のようにではなく、神様の翼の陰に居続けるようにしなさいと言われているのです。

9節には、全能の神様は創造した人間を罰するためではなく、御子であるイエス・キリストを通して救いを得ることが出来るように定めているのであると言われているのです。

だからこそ、8節で、主イエス・キリストを信じている者は、神様の庇護のもと心平安に過ごす事が出来、常に主イエス様の再臨がいつ来てもいいように、信仰の道を踏み外さず目を覚まして慎んで歩んで行きましょう。

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