6月4日  6月11日  6月18日  6月25日 

説教題:「義人は信仰により生きる」

聖 書:ハバクク書2章1〜5節


 今朝与えられた聖書の箇所は、ハバクク書1章1節に「預言者ハバククが見た託宣」と記されているように、ハバククという預言者が、神様から与えられた託宣つまり宣告されたことを預言することです。

 ハバククという預言者の名前は、3章1節で「シギヨノテの調べによる、預言者ハバククの祈。」と二箇所にあるだけでどのような預言者であったかということがあまり分かっていないのです。

 そして1章から3章だけなので、ここから人物像を推測事しか出来ないとして、多くの神学者たちが旧約聖書の中に入れられているかということを研究してきたのです。

 1章2節〜4節において、ハバククが「神様私がこの世は暴虐に満ち溢れているいるので、何とかしてほしいと訴えているにも関わらず、どうして聞いてくださらないのですか、どうして助けて下さらないのですか。それだから神様のみ教えに逆らい、神の前に正しいことは行われず、神の前に正しい人は神の前に悪を行う人に翻弄されているのです。」と神様に訴えているのです。

 そのハバククに神様が答えたのは、6節を解釈すると「見よ、カルデヤ人を起こす。それは冷酷で素早くて強い国民で、地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する」と言われたのです。

 ガルデヤ人とはバビロニア人のことなので、この言葉によって南ユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされることを預言されていることがわかるのです。

 バビロニアは法律、文学、宗教、芸術、数学、天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地であり広大な土地を有していたので、南ユダ王国は彼らにとっては小さな存在でありいつでも領土を奪うことが出来ると思っていた事でしょう。

 しかし、大国に翻弄されている預言者ハバククにとっては、自分たちは神様によって選ばれ、神様が約束してくださったカナンの地がバビロニア帝国によって翻弄されることは納得することが出来ないと、1章13節を解釈すると「神様、あなたは清い目で悪を見ているはずなのに、私たちが苦しんでいることを知っておられるのに、そのままにしておかれずはずがないのに、私たちに敵する人たちが分かっておられるのに、何故黙っておられるのですか」とハバククは言っているのです。

 神様は、ハバククに対して説明はしないで、2章2節で「この幻を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。」と言われたのです。

 2節を解釈すると、神様がハバククに粘土板に神からの預言を書き記し、辛抱強く待ちいつでもそれを見ることが出来るようにしておけと言われたのです。

 粘土板に書き記された言葉は「神を信じているのに関わらず、神の前に正しくない者は、衰える」「神の前に正しい者は、神の僕として生きる」「酒は人生を狂わせるもの」「自分が一番と思っている者は、心が安定しない」と記されたのです。

 粘土板に記された言葉を総括すると、人を抑圧する人は最終的には自分に返ってくるということなのです。

 死海文書というものが1947年にベドウィンの羊飼いによりクムランにある洞窟で発見されましたが、その中にハバクク書の注釈の中で、当時はローマ帝国によりユダヤ民族が支配されていたことは、バビロニア帝国と共通していると書いてあるそうです。

 この粘土板に記された言葉は、歴史的に繰り返されており、それは現在起っていることに対しても言われている神様からの託宣なのです。

 NHKで日曜日の大河ドラマで「どうする家康」を放映していますが、先週の日曜日「長篠設樂原(したらがはら)の戦いで、武田軍が織田軍の3,000丁の火縄銃によって、武田軍の騎馬隊が全滅する様子が放映されていましたが、日本においても数百年前は群雄割拠、強いものが弱いものを滅ぼし領土を広げていったことを思うと、この聖書の預言が神様の前に義人とされることがないかぎり、この世は乱れることになると言っているのです。

 これは人と人との戦い全てについてであり、夫婦喧嘩、親子喧嘩、兄弟喧嘩等もそうなのです。

 エゼキエル書33章18節で「義人がその義を離れて、罪を犯すならば、彼はこれがために死ぬ」という言葉があります。

 義人とは、主イエス・キリストを信じ、神様の御言葉を守り、与えられた一生涯を全うすることが出来る信仰者のことなのです。

 パウロ先生が、ローマ人への手紙3章4節において「義人はいない、ひとりもいない」と詩篇14篇3節「彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。善を行う者はない、ひとりもない。」と引用されていますが、この詩篇の言葉はダビデが、神を信じている者で愚かなものは、心の中で神はいないといい、御言葉から離れ、その行いは神に背く事ばかりをおこない、神の前に義人とされている者に対しても悪口を言っている愚かな者のことを言っているのです。

 詩篇69篇28節で「彼らを命の書から消し去って、義人のうちに記録されることのないようにしてください。」とダビデが神様に願っている箇所があります。

 つまり、主イエス・キリストを信じ、口で告白し、バプテスマを受ける事によって御国において永遠の命の書に名前が記されるが、神様に従う道を踏み外している者の名前を命の書から消し去って下さいと祈っているのです。

 悪魔は、義人を義人ではない者にしようとさまざまな手をつかって義人を誘惑する手段として、イザヤ書5章23節「まいないによって悪しき者を義とし、義人からその義を奪う」と記されているのです。

 そうです、悪魔はお金で義人を誘惑しますが、それは「まいない」によってなのです。

 出エジプト記23章8節で「あなたは賄賂を取ってはならない。賄賂は人の目をくらまし、正しい者の事件をも曲げさせるからである。」申命記16章19節「賄賂は賢い者の目をくらまし」と記されているように、悪魔はお金で義人を誘惑しますが、それは「まいない」つまり賄賂によって義人を命の書から名前を削除させるのです。

 エゼキエル書18章24節に「義人がもしその義を離れて悪を行い、悪人のなすもろもろの憎むべき事を行うならば、生きるであろうか。彼が行ったもろもろの正しい事は覚えられない。彼はその犯したとがと、その犯した罪とのために死ぬ。」と記されているのです。

 つまり、主イエス・キリストを信じ、神様により義人とされた人が信仰の道を歩み、神様が喜ばれる正しいことを行ったとしても、神様から離れて悪の道に歩むならば、正しいことをしたことは帳消しにされ、命の書から削除されると言っているのです。

 このことは、エゼキエル書18章24節、26節、38章12節13節18節で、同様に義人が悪を行った場合は義人では無くなると記されているのです。

 そして、イエス様が再びこの世に来られる再臨の時には、主イエス・キリストを信じた全ての人の中からマタイによる福音書13章49節50節に「世の終りにも、そのとおりになるであろう。すなわち、御使たちがきて、義人のうちから悪人をえり分け、そして炉の火に投げこむであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。」また、マタイによる福音書25章32節33節に「すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。」と、義人でなく悪人になった人をえり選り分け「のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。」と実に恐ろしいことが記されているのです。

 確かに、信仰者が義人であることを生涯において貫こうとすることは、本当に難しいことだからこそ、この御言葉があるのです。

 義人が義人であるためには、あなたが幼な子の信仰を貫くことが最も大切な神様からのメッセージなのです。

リバイバルは、人事ではなく、一人一人の信仰者が、神様の前にリバイブすることにより、日本にリバイバルが起るのです。    

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