8月6日  8月13日  8月20日  8月27日 

説教題:「人々のつぶやき」

聖 書:出エジプト記16章1〜8節

 現在のイスラエルの人々にとって忘れることが出来ない出来事は、数千年前400年間エジプトの奴隷から解放された時の事です。

 エジプトのおいての奴隷生活は過酷を窮めるものだったことが、出エジプト記2章23節24節「多くの日を経て、エジプトの王は死んだ。イスラエルの人々は、その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。神は彼らのうめきを聞き、神はアブラハム、イサク、ヤコブとの契約を覚え」と記されているのです。

 イスラエルの民がエジプトの奴隷になっていた経緯を見てみると、ヤコブという人はカナンに住み、12人の息子の中でヨセフを寵愛していたことが、創世記37章3節「ヨセフは年寄り子であったから、イスラエルは他のどの子よりも彼を愛して、彼のために長そでの着物をつくった。」とヨセフを特別視していたのです。

 そのことに対して4節「兄弟たちは父がどの兄弟よりも彼を愛するのを見て、彼を憎み、穏やかに彼に語ることができなかった。」と兄弟達の反感をかい、ヨセフを殺そうとまで思わせてしまっていたのでした。

 ヨセフは、兄弟達に殺されはしませんでしたが、結局エジプト人に奴隷として売られてしまったのです。

 奴隷としてエジプトで生活していたヨセフは、創世記39章2節に「主がヨセフと共におられた」ことで、さまざまな苦難があったけれども、最終的にエジプトを飢饉から救ったことで、創世記45章8節「神はわたしをパロの父とし、その全家の主とし、またエジプト全国のつかさとされました。」エジプトの宰相と上り詰めたことが創世記に詳細に記されているのです。

 兄弟に殺されそうになり、エジプト人の奴隷として売られたことは、ヨセフにとって恨んでも恨みきれなかったと思いますが、兄弟達がヨセフの前に現れたとき、ヨセフが兄弟達に向かって創世記45章5節で「わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません。神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです。」と兄弟達を許し、父親共々をエジプトに迎え入れたのでした。

 ヨセフは、今自分がエジプトの宰相になったのは、全て神様のご計画であり、神様の導きがあったからであり、自分の生涯は主の御手の中にあるという信仰なのです。

 このヨセフの信仰をとおして、イエスを信じる私たち一人一人も、主の御手に委ねることができる信仰者になるようにと、神様が言われているのではないでしょうか。

 ヤコブとヨセフの兄弟たちはエジプトにおいて優遇され、何不自由なく生活していましたが、時が経つにつれて、出エジプト記1章6節「ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。」、そして8節「ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。」と、エジプトの王にも世代交代があり、ヨセフがエジプトを救いに導いた者であること忘れるにつれ、エジプトはイスラエルの民を隷属するようになり、14節「つらい務をもってその生活を苦しめた。すなわち、しっくいをこね、れんが作り、および田畑のあらゆる務に当らせたが、そのすべての労役はきびしかった。」と労働者にし、奴隷として働かせるようになったのです。

 日干しレンガは、エジプトにおいてなくてはならない建築材料であったため、衣食住さえ与えればよかった奴隷に与えられた仕事だったことから、エジプトは強制的にノルマを与えていたのです。

   出エジプト記5章14節に「なぜ、あなたがたは、れんが作りの仕事を、きょうも、前のように仕上げないのか」と記された箇所がありますが、ラメセス2世の「なめし革の巻物」に、一日に仕上げることを命じたことの内容が「各2000個ずづノルマを課せ、奴隷グループ40名が8万個のレンガを目標にしたが、目標に達しなかった」とあるそうです。

 この当時、熟練工のレンガ作り一人の職人は1日7〜8時間働いて三千個のレンガを作ったと言われているので、一人二千個のレンガを作ることは大変なことだったことが分かります。

 日干しレンガは、湿度が高い日本では馴染がないのですが、日本家屋の土壁部分(現在はモルタルや断熱材等になっており、土壁は大変珍しい施工です。)を、湿度が低い中近東では、現在でも日干しレンガで家の壁を作っていることが多いので、昔から今に至るまで日干しレンガは建築材料としては身近にあります。

 イスラエルの人々の過酷な労働に耐えかねて、出エジプト記2章23節「その苦役の務のゆえにうめき、また叫んだが、その苦役のゆえの叫びは神に届いた。」と、イスラエルの人々の叫びが神様に届いたと記されているのです。

 そうです、神様は全ての事をご存じですが、助けの御手は、信仰者が神様に叫び、訴えないかぎり、聞き届けてくださらないのです。

 苦しんで居る人が時折「神様は、私の全てをご存知なのだから、神様が助けの御手を差し伸べてくださるのが当然でしょう」という思いは間違っており、あくまでも主はご自分に叫んでくるものの声を聞いて下さるので、叫ばなければそれが届かないのです。

 イスラエルの人々を、エジプトを脱出させたことを悔いたエジプトの王は、イスラエルの人々を再びエジプトへ帰そうと、エジプト軍は追いかけて来たが、海の水が別れイスラエルの人々が対岸にたどり着いた途端、追ってきたエジプト軍が全て海の中に沈んでしまったことで、出エジプト記15章20節21節に「そのとき、アロンの姉、女預言者ミリアムはタンバリンを手に取り、女たちも皆タンバリンを取って、踊りながら、そのあとに従って出てきた。そこでミリアムは彼らに和して歌った、「主にむかって歌え、彼は輝かしくも勝ちを得られた、彼は馬と乗り手を海に投げ込まれた」としるされているのです。

 出エジプト記16章1節に「イスラエルの人々の全会衆はエリムを出発し、エジプトの地を出て二か月目の十五日に、エリムとシナイとの間にあるシンの荒野にきた」と記されているのです。

 幾多の困難を乗り越えて、エジプトを脱出しいよいよ神様が約束して下さったカナンを目指して旅が始まったのですが、旅を初めて一ヶ月が経った時、2節「荒野でイスラエルの人々の全会衆は、モーセとアロンにつぶやいた。」と記されているのです。

 「つぶやく」とは「不平を言う」ということなので、旅の指導者に対して不平を言ったのです。

 16章1節から12節まで、8回「つぶやき」という言葉が記されているので、イスラエルの人々のつぶやき、つまり不平不満は並大抵のことではなかったのです。

 人は、お腹がすくとイライラするもので、逃げ出すときに持って来た食料も底をつき、食べる物がなくなったイスラエルの人々の不平は、食べ物の事でした。

 3節を見ると、エジプトにとどまっていたら、労働した後肉のなべから肉を取り、一緒にたらふくパンを食べることが出来ているのに、持ってきた食料も底をつき、このままでは飢え死にしてしまうではないか。

 こんなことなら、飽きるほどパンを食べている時に、神様の手によって殺されていたほうがましだったと言っているのです。

 神様は人間が食物を食べる事により生命を維持してゆことが出来るように創造されているので食べる物がないことで不平を言うことは当然なことかもしれないのです。

 イスラエルの人々のつぶやきに対して、モーセが8節で「あなたがたのつぶやくのは、われわれにむかってでなく、主にむかってである」と記されているのです。

 人の不平不満は、自分の思いから出てくるもので、その不平不満は神様に言っていることだと言う事を私たちも肝に銘じておかなければならないのです。

 8節に「主は夕暮にはあなたがたに肉を与えて食べさせ、朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう。」と、神様がイスラエルの人々のつぶやきを聞いたからだと記されているのです。

 神様が他の被造物とことなり、人間は特別な存在として創造されているので、イスラエルの人々が荒野において40年間、身体を維持してゆく必要な栄養素である、マナ、ウズラ、水を下さったのです。

 必要を満たして下さった理由として、16章4節に「彼らがわたしの律法に従うかどうかを試みよう。」とある御言葉です。

 私たち人間は、つぶやく者であり不平を言う者なのでが、それは神様に対して言っていることだと言う事と、イエス様が私たちを愛して下さっていることから、必要を満たして下さる神様であることは事実です。

 そのつぶやきに対して、神様が聞いて下さることも確かですが、私たちが神様の御言葉に従うかどうかを試みるためであると言われていることを心得ていなければならないことなのです。

 神様が私たち一人一人を愛して下さっていることに感謝を捧げましょう。        

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