8月6日  8月13日  8月20日  8月27日 

説教題:「神を恐れよ」

聖 書:レビ記25章8〜17節



   今朝の聖書箇所は、レビ記からヨベルの年について御言葉を聞いて参ります。

 先週の説教題は「恐れてはならない」でしたが、今週は「神を恐れよ」であり、この世に生きている間、信仰者としてこの世の恐れるのは神様だけだと言っているのです。

 イスラエルの民は、エジプトにおいて四百年という長い間奴隷の身として拘束されてきましたが、イスラエルの民のうめきを神様がお聞きになり、モーセという人物を指導者として選び、イスラエルの民をエジプトから脱出させるご計画をたて、エジプトのパロを困惑させ後脱出させたのです。

12万人以上の人々の先頭にたち、カナンの地を目指して荒野を四十年もの間歩き続け、多くの困難を乗り越えながら、約束の地カナンを目指しましたが、旅の途中シナイ山において、神様がモーセにイスラエルの民に25章2節でヘブル語を直訳すると「お前達に与えた地において、安息日は休め」と、カナンの地に入ってからは、安息日は休むようにと言っているのです。

 安息日とは、ヘブル語でシャバットと言いますが、その語源は創世記2章2節において「神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。」と、神様が六日間で天地を創造され後に、ヘブル語聖書では「シャバットされた」と記されており、それを日本語で安息日としているのです。

 シャバットとは、金曜日の日没から土曜日の日没までですが、その間は、神様が休まれたので、信仰者も休みなさいということを言っているのです。

出エジプト記16章23節「あすは主の聖安息日で休みである。きょう、焼こうとするものを焼き、煮ようとするものを煮なさい。残ったものはみな朝までたくわえて保存しなさい」と、シャバットには働いてはならないと言っているので、出エジプト記16章30節で「こうして民は七日目に休んだ。」つまり、シャバットしたと記されているのです。

出エジプト記20章11節において「主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。それで主は安息日を祝福して聖とされた。」との御言葉の通り、神様が安息日を祝福して下さっていることが基本にあることを忘れてはならないのです。

 レビ記においては、23章3節で「六日の間は仕事をしなければならない。第七日は全き休みの安息日であり、聖会である。どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのすべてのすまいにおいて守るべき主の安息日である。」と、神様が祝福している安息日なので、休みなさいと命じていることがわかります。

 安息日を聖なるものとし、その日を祝福して下さっているという言葉により、現在でもイスラエルにおいて、イスラエル以外に住んでいるユダヤ人たちは安息日を大切な日として捉えているのです。

 ちなみに、イスラエルを訪れたいと思った時には、少なくても金曜日の午前中に入らないと、午後から空港は閉まってしまうので入る事が出来なくなってしまいます。

 25章3節〜6節で「六年の間あなたは畑に種をまき、また六年の間ぶどう畑の枝を刈り込み、その実を集めることができる。しかし、七年目には、地に全き休みの安息を与えなければならない。これは、主に向かって守る安息である。あなたは畑に種をまいてはならない。また、ぶどう畑の枝を刈り込んではならない。あなたの穀物の自然に生えたものは刈り取ってはならない。また、あなたのぶどうの枝の手入れをしないで結んだ実は摘んではならない。これは地のために全き休みの年だからである。」と記されているのです。

 主が創造された生きているもの全ては、休ませる必要があり、休ませることにより元の状態に戻ることが出来るように創造されているからなのです。

 私がゆうちょ銀行に行く時に、小さな畑の横を通りますが、その畑は老夫婦が作物を作っており、一度も土地を休ませず、連作を続け立派な作物が出来ていることを不思議に思っていましたが、たまたま畑で作業していた方がおられたので「どうして、土地を休ませることなく、一年中作物を作られているのに、常に立派な作物が出来るのはどうしてですか?」伺ったことがあります。

 その方は、「あそこに堆肥場があり、堆肥場で発酵堆肥を作り、それを蒔いているからではないでしょうか」と言われたので、土地を休ませなくても人間の知恵で出来る事もあることを痛感しました。

 しかし全ての動物は眠るように創造されており、人間も寝なければ死んでしまいますが、それは神様が創造した人間が眠る事により体力を回復するように造って下さっているからなのです。

また、25章8節に「安息の年を七たび、すなわち、七年を七回数えなければならない。安息の年七たびの年数は四十九年である。」と記されているのです。

9節をみると、七年を七回数えてから、50年目を迎えるが10節に「五十年目を聖別」しなければならないと記され、それを11節「ヨベルの年」といい「七月の十日にあなたはラッパの音を響き渡らせなければならない。すなわち、贖罪の日にあなたがたは全国にラッパを響き渡らせなければならない。」と記されているのです。

ヨベル(羊の角で作ったラッパの事)の年とは、ユダヤ暦が関係しており、2023年はユダヤ暦で5784年なので、2022年第七の月が118回目のヨベルの年になり、一年間なので2023年の第七の月までとなります。

現在のイスラエルに於いては、聖書に記されているようなことは行われていないと言われていますが、その理由がイスラエルの民が律法を守らなかった為だとか、それは神話的な理想であり実際には不可能だったためと言われているのです。

「贖罪の日」とは、聖書の暦で、第七月つまりテシュレイの月の10日が贖罪の日、ヨムキプールに「ラッパ」とは羊の角で作った「角笛」つまりショファールを吹き鳴らし、ヨベルの年が来た事を全国に知らせるようにと言われているのです。

第七の月の1日2日は、イスラエルのお正月なので、イスラエル全土でショファールの音が鳴り響きますよ。

ヨベルの年にしてはならないことが、8節から10節では、全てのイスラエル人は、自分の所有地と家族の元に帰ることとあり、これは奴隷状態から解放される事が意味されている事ではないでしょうか。

言葉は悪いですが、労働をすることは奴隷状態と考える事が出来るかもしれません。

誰しも、労働から解放されることは必要なことであり、解放されるときにリフレッシュが出来るものです。

11節12節において、畑の収穫物を自分の食料にすることは出来ないとありますが、安息日は神様のものなので、自分勝手にしてはならないということだと思うのです。

13節から17節においては、土地はもともと持っていた人に戻さなければならないと言っている事で、それを買い戻すときには、ヨベルの年から逆算して、何回収穫した年数の収穫高により土地を買い戻すことが出来るということです。

 18〜22節は、安息の年とヨベルの年の既定を正しく守る者にたいして、神様からの祝福が約束されるということなのです。

 このヨベルの年が言わんとしていることは、人も土地も神様が創造し、それを預かっているのだから、良き管理者として管理することが大切であることを言っておられるのではないでしょうか。

 旧約聖書の中でも、この規定が実際に実行されたという記述がありませんが、神様が創造された者も休むことが必要なことを教えておられるのではないでしょうか。      

 

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