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説教題:「みことばにより生きる」

聖 書:申命記8章1〜10節

 今朝与えられた聖書の箇所は申命記です。

 申命記はヘブル語でダバールと言いそれは「言葉」という意味ですが、申命記という言葉は中国からきているのです。

中国語で「申」とは「繰り返し」、「命」とは「命じる」、ヘブル語のダバールを「繰り返し命じる」とした表題を、日本語の聖書に取り入れ居てるのです。

ダバールとは、神様からの言葉が、信仰者に繰り返し語られている神様からの命令ということになるのです。

現在でも、ユダヤ教徒はテシュレイの月(9月か10月)つまりユダヤ教の新年にモーセ五書を読み終え、再び最初から読み始めますが、読み終えたことを称える日でシムハットトーラーと言い、主の御言葉を称える大切な日としているのです。

 今朝の御言葉である申命記1章1節の後半に「モーセがイスラエルのすべての人に告げた言葉である」と記されているように、モーセが120万人以上のイスラエル人をエジプトから連れ出し、神様が約束してくださった、カナンの地を目の前にしながら神様からのメッセージを語ったと記されているのです。

 3節に「第四十年の十一月となり、その月の一日に」と記されていますが、エジプトから脱出してから四十年の月日が経過してやっとカナンの地を目の前にした時には、ヨシュア記5章6節に「イスラエルの人々は四十年の間、荒野を歩いていて、そのエジプトから出てきた民、すなわち、いくさびとたちは、みな死に絶えた。これは彼らが主の声に聞き従わなかったので、主は彼らの先祖たちに誓って、われわれに与えると仰せられた地、乳と蜜の流れる地を、彼らに見させないと誓われたからである。」と、エジプトを脱出したときの戦士たちはカナンの地を見ることなく死んでしまったのでした。

 カナンは、イスラエルの人々に神様が約束してくださった「乳と蜜の流れる地」ではありましたが、フランシスコ訳聖書では「いくさびたち」を「戦士である男たち」と分かり安く訳しており、戦士たちが主の言葉に従わなかったことでカナンの地に入る事ができなかったと記されているのです。

   異邦人である私たちは、主イエスを神様の御子として信じることで、神様に義とされ御国において永遠の命を与えて下さるとの約束を信じ一生涯の旅を続けていますが、福音の戦士である私たちが、主の御声に聞き従わなかったら、約束の御国への凱旋も許されないという主の御言葉をしっかりと心に留めておかなければならないのです。

 フランシスコ訳聖書の8章で「主の計らい」という小見出がありますが、その1節に「わたしが、今日、命じるすべての命令を、あなたたちは守り行いなさい。そうすれば、あなたたちは生き永らえ、その数は増え、主があなたたちの先祖に誓われた土地に入って、それを所有することができる。」と記されているのです。

 2節で「あなたの神、主が導かれたこの四十年間の荒れ野の全行程を思い起こしなさい。それは、あなたを苦しめて試み、主の命令を守るかどうかあなたの本心を知るためであった。」と記されています。

 四十年間荒れ野での旅路は言葉で言い尽くせないほど過酷なものであったかということは神様がご存じであり、それは神様がイスラエルの民がその苦難の中においても、神様からの命令、つまり御言葉を守るかどうか信仰者の本心をしるためだったとしるされているのです。

 どんな苦しみかというと、衣食住についてだったのです。

 人は、この世で生きるために、食べ生きるために水を飲み、生きるために暑さ寒さを避け、生きるため生活すべき所を必要としているのです。

 荒野には、それらを満たすものがなかったので、神様が天からマナを降らせ、出エジプト記16章13節「夕べになると、うずらが飛んできて宿営をおおった。」と、動物性タンパク質である肉を食べることが出来身体を維持することが出来たのです。

 余談ですが、ウズラはキジ科に分類される渡り鳥で、体重は130cほどなので、精肉歩留まりを考えると、食べる事ができるのは90c位なので、成人男性の一日のタンパク摂取量が65cなので、ウズラが宿営をおおったということは、主の恵みが降り注がれたことがわかるのです。

ウズラが宿営をおおうことが40年もの間続いたことは、神様の恵み以外なにものでもないことがわかるのです。

 マラキ書3章10節で口語訳聖書「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。」と「あふるる恵み」と訳しているところ、フランシスコ訳聖書では「『十分の一税をすべて宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物となるようにせよ』と万軍の主は仰せになる。わたしが、お前たちのために天の水門を開いて、お前たちの上に祝福を溢れるばかりに注ぎ出すかどうか、わたしを試してみよ。」と、「祝福を溢れるばかりに注ぎ出す」と訳しているのです。

 イスラエルの民が、40年間荒野を旅しても、4節で「着物はすり切れず、足ははれなかった」と記されているのです。

 この御言葉も、信仰者がその生涯を歩いている時に、溢れるばかりの主の祝福を受ける事が出来る者とそうではない者の存在があることを忘れてはならないのです。

 そのためには、6節で「あなたの神、主の命令を守り、その道を歩み、主を畏れなさい。」とフランシスコ訳聖書で訳していますが、口語訳聖書では「神を恐れる」という漢字を使っているのです。

 わたしは、常々この世で一番恐れなければならないのは、アドナイつまり神様であると言っていますが、この恐れは畏敬のおそれであり、恐怖のおそれではないのです。

 神様は、私という一人の人間を、母の胎に宿らせ、十月十日の後母のお腹から出て、神様によって息を吹き込まれることで生きた者になり、一生涯の終わりに神様によって息を引き取られる時、この世においての苦労や苦しみから解放されるのです。

自分の一生涯が神様の御手の中にあることから、ただただ神様に対し畏敬の念をもって信仰者として生きていくことなのです。

 7節から10節までフランシスコ訳聖書から引用しますが7節8節で「あなたの神、主は、あなたを善い土地に導き入れようとしておられる。そこは、平野にも山地にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、麦、大麦、ぶどう、いちじく、柘榴が実る土地、オリーブ油と蜜のある土地。」そして9節で「あなたは何不自由なくパンを食べ、何一つ足りないものはない土地。その地の石は鉄であり、その山々から銅が掘られる。」と記されているのです。

 10節で「あなたが食べて満ち足りたとき、主があなたに善い土地を与えてくださったことを、あなたの神、主に感謝しなさい」と記されているのです。

 イエス様は、マタイによる福音書4章4節で、この申命記8章3節を引用されて「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」と言われているのです。

 人は恵まれている時にはその恵みに気がつかず主のみことばを忘れるもので、苦難や苦しみあった時にみことばにすがろうとするのは人間のつねです。

 神様はそのことをご存じなので、みことばを忘れないように苦難や苦しみにあわせると言われている事から、苦難苦しみにあうことがないためには、みことばに従って歩む事が大切であることなのです。

 レビ記26章15節16節でフランシスコ訳聖書で「また、もしお前たちがわたしの掟を拒み、お前たち自身がわたしの定めを忌み嫌い、わたしのすべての命令を行わず、わたしの契約を破るなら、わたしはお前たちに次のことを行うであろう。すなわち、お前たちの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって目を見えなくさせ、体を衰弱させるであろう。お前たちが種を蒔いても無駄となるであろう。お前たちの敵がそれを食べ尽くすからである。」と記されているのです。

モーセは、アドナイを信じているイスラエルの人々に対して、主のみことばに従って歩むようにと言っている事は、私たち異邦人である信仰者一人一人に語られている事を忘れてはならないのです。   

   

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