4月7日  4月14日  4月21日  4月28日 

説教題:「イエスは羊の門」

聖 書:ヨハネによる福音書10章7〜18節


   おはようございます。

 イエス様は、金曜日の日没前に墓に葬られてから日曜日の朝早く墓の中から出てこられ、使徒行伝1章3節に「イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。」と記されており、三日目に復活された事が強調されていることが分かります。

 私は、どうして三日目なのかとその理由を調べて見ると、聖書には三日という数字が数多く記されていますが、その中で生きるという事に関係している御言葉があるのです。

 先ず創世記1章13節に「夕となり、また朝となった。第三日である。」との記述がありますが、創世記1章11節12節で「『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった。地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。」と記されているように、神様は植物に命を与えたのが天地創造の三日目だったのです。

 ホセア書6章2節には「主は、ふつかの後、わたしたちを生かし、三日目にわたしたちを立たせられる。わたしたちはみ前で生きる。」とはっきりと預言されています。

 ヨナ書1章17節では「主は大いなる魚を備えて、ヨナをのませられた。ヨナは三日三夜その魚の腹の中にいた。」と記され、マタイによる福音書12章40節では「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるであろう。」とイエス様が言っておられるのです。

 また、イエス様がマタイによる福音書16章21節で「イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。」弟子たちに死んでも三日目によみがえるということを話しておられたのです。

 イエス様が蘇られたのは、コリント人への第一の手紙15章4節に「わたしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった。すなわちキリストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。」とパウロ先生は、旧約聖書において預言されていたことが成就したと言っているのです。

 死者が生き返るという出来事は人間にとって理解することが絶対に出来ない事から、コリント人への第一の手紙15章6節〜8節で「五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。そののち、ヤコブに現れ、次に、すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生れたようなわたしにも、現れたのである。」と記されているように、イエス様は人々の前に姿を現され、死んでも生きるということを示されたのです。

 イエス様がこの世に人間として生きた時間は33年間と短かったですが、ルカによる福音書3章23節に「イエスが宣教をはじめられたのは、年およそ三十歳の時」と記されている事から、三十歳迄はお父さんのヨセフの大工仕事の跡を継いで家系を支えていたと思うのです。

 ですから、十字架に掛かる迄神の国の福音を語る3年間は怒濤のような日々であったことがマタイによる福音書8章20節で「きつねには穴があり、空の鳥には巣がある。しかし、人の子にはまくらする所がない」とイエス様が言っておられるのです。

 イエス様は、現在日本の労働基準に定められた労働時間の規定に合わないような活動をしていたことが分かるので、牧師もイエス様に倣って365日体制で活動するものと思っているのです。

 イエス様は、キリスト教会は羊を囲っている囲いに例えており、聖書全体で588回も羊の事が記され、ユダヤの人々にとっても羊は大変身近な存在なのです。

 所で、羊の性格は、臆病で、視野が270°から320°のあり、危険を感じるとパニックを起こす動物で、草地においては無心で草を食べ、数百頭の羊が居たとしても、頭を上げている羊がいないことが分かります。

 余談ですが、エペソ人への手紙4章11節に「ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。」と記されている牧師という言葉は「羊飼い」というギリシャ語であり、フランシスコ訳聖書では「牧者」と訳しており、牧師という名称がいつから付けられたか定かではありませんが、文語訳聖書では「牧師」となっているのです。

 イエス様は、今朝のヨハネ福音書7節で「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。」と言われているように、羊の囲いの入口にある門は私であると言われいるのです。

 コロサイ人への手紙1章24節でパウロ先生が「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」、コロサイ人への手紙2章19節委では「キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。」語っているように、教会は主イエス・キリストの体であり、教会員一人一人はそれぞれかしらなるイエス様に仕える者であり、エペソ人への手紙5章30節に「わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。」と記されているように、教会の成長を願うものだと言われているのです。

 ヨハネによる福音書10章8節で「わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。」と言われています。

 この御言葉を解釈すると「主イエス・キリストが神の国の福音を語る前に、この世において救いがあると言って人々に語っている人は、強盗つまり偽預言者であり、人々は偽預言者に聞き従うことはなかった」となります。

 マタイによる福音書27章17節でポンテオピラトが「おまえたちは、だれをゆるしてほしいのか。バラバか、それとも、キリストといわれるイエスか」と言っている箇所がありますが、バラバは強盗であったと言われていますが、ローマ帝国に対して暴動の指導者として捕縛されている人物であり、ピラトとしてはバラバを処刑にするはずだったので、反政府運動に加担するように勧める人の言葉に救いはないということをイエス様が言っておられる思うのです。

 また、イエス様が御国へ帰られてからも、使徒行伝5章36節で「先ごろ、チゥダが起って、自分を何か偉い者のように言いふらしたため、彼に従った男の数が、四百人ほどもあったが、結局、彼は殺されてしまい、従った者もみな四散して、全く跡方もなくなっている。」と記されているように、チゥダというユダヤ人革命家が現れ、反政府運動を企て400人もの人々を煽動し革命を起こしたが、ローマ帝国に直ぐに鎮圧されチウダは処刑され革命は失敗に終ったと記されたことで、ヨハネによる福音書10章10節で「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。」と言われているのです。

 11節から、イエス様ご自身が、羊を守る良い羊飼いであり、羊のためには命を捨てると、実際に羊の為に十字架で命を捨てられたのです。

 キリスト教会のかしらはイエス様であり、かしらに仕えているのが牧師なのです。

 イエス様は、牧師は良い羊飼いでなければならないと言われているように、羊の面倒を良く見るように教会員を牧会しなければならないと言われ、決して羊を置いて逃げ出してはならないと言っているのです。

 16節に「一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。」と記されているのです。

 全世界に多くのキリスト教会がありますが、一つ一つの教会は、イエス様の体なる教会の入口から入った羊である教会員によって構成されているのです。

 私たちは、主イエス・キリストを信じる事により、テトスへの手紙3章7節で「わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。」御国の席がありますが、この世に生きている間は、地上の席つまり教会に籍があるのです。

 エペソ人への手紙2章21節22節に「キリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。」との御言葉をしっかりと受け止めて行くことが大切なことなのです。      

 

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