自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「冷水峠の筑豊本線と旧 長崎街道を訪ねて W」
355.
冷水峠越え探訪記
・筑豊本線/筑前内野-筑前山家
〈0001:bP61053:重連貨物、トンネル近し〉
〈撮影メモ:昭和43年9月22日撮影
トンネルの近くまで棚田が耕されていた。背後の山には雑木林に混じって竹林が見える。
〈0002:bP61055:棚田の谷間を登る:昭和43年9月22日撮影〉
【35o縦置きセンタリングあり】
〈000x:縦おq〉
〈000x:〉
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紀行文〉
この飯塚宿から冷水峠を越えて国境の原田宿までの長崎街道は筑豊本線に並行しているので追いかけてみることにしよう。
飯塚宿を西へ向かった街道は天道、桂川へと山麓に分け入り、長尾から内宿、そして峠を越えて山家宿(ちくぜんやまえやど)、その西に山家宿番所跡があり、そして熊本や鹿児島に向かう薩摩街道への追分(分岐)があって、次の筑前国最後の宿場である原田宿(はるだやど)を抜けると、佐賀、長崎方面へ向かっていた。
さて、飯塚の次の内野宿は田んぼが中心に広がる標高が 80mほどの山麓に開けた谷あいにあり、家並みが600mも続く大きな宿場町であった。そこを抜けて現在の国道から北西へ分かれた旧道は大根地神社登山口の鳥居を通って古い石畳が2qも残る急坂の山道に入った。その途中の小川の流れる脇に「首なし地蔵尊をまつった地蔵堂が建てられていた。ここは旅人の休息地として、ここを流れる小川の冷たい水で旅人は喉を潤し、疲れを癒してから、文政6年(1823年)に架けられたと云う石橋を渡って、再び最後の急坂へと掛かって行く。これが冷水峠(ひやみずとうげ)の名の由来だと伝えられていた。間もなく標高約320mの峠の頂上に到着する。ここは日本海へ注ぐ遠賀川水系と有明湾に注ぐ筑後川の支流の山家川との分水嶺であった。この峠は1637)(寛永14年)に起こった島原の乱の際には軍用道路として大いに役割を果たしたと云う。その峠頂上には大根地神社鳥居があって、ここから北西にそびえる大根地山の山頂直下の神社への参道が分かれている。この旧道に対して標高差が約20mほど低い位置に1920年に自動車道路が開通したが、急勾配とカーブの多い難路であったため冬季の交通困難を解消するため、1985年に全長 2,891mの冷水トンネルがバイパスとして開通している。
頂上からの旧街道は西へ下って行くのだが踏み跡はあやしい。やがて眼下に山家川が刻んだ大鍋・小鍋と呼ばれる渓谷を見下ろしながら下る鍋峠を下って4qも国道200号を歩いて標高 50mの山家宿へ入った。この先には薩摩街道追分けがあって筑前国境の番所が設けられていた。
さて、飯塚から原田までの鹿児島本線連絡の新線の建設は既に石炭積み出しのために桂川まで開通していた長尾線を延長する形の長原線を建設する計画し、全長 3,286mの当時九州最長の冷水トンネルを掘削して1929年(昭和4年)に原田までの20.8qを開通させた。その冷水トンネルの前後の約10qにはは曲率半径200〜300mの急カーブや最大25‰の急勾配が連続していた。そして長大な列車には補助の蒸気機関車を連結していた。
この一直線の冷水トンネルは内部に最大25‰の急勾配があり、サミットは冷水トンネル内の筑前内野側にあった。
それ故に、トンネルに突入した原田からの蒸気機関車牽引の列車はトンネル内のサミットまでまだ登らなければならなかった。それで、飯塚方面行き列車がトンネル内の上り勾配で吐き出した煙が列車の前方へ行かないように、筑前山家側に直径約3mの俳風機を設けたのが
1949年のことであった。この列車がトンネルに入り終わったら入り口にカーテンを下げて排煙効率を高める作業が行われていた。それに、冷水トンネルでは温度差の少ないことを理由に、開発途上であったロングレールを全国に先駆けて試験的に敷設した。それは昭和33年、25mレールを現地で40本溶接して1000mの一本のレールに仕上げて敷設したのであった。
さて、飯塚から原田行の列車に乗ってみよう。飯塚を出た列車は三郡山の北麓を源に盗難に流れ下る遠賀川の支流の大分川(だいぶがわ)を5.9qほどさか登って桂川に到着する。
ここまでは明治34年に開業した近くの麻生工業豆田鉱から産出する石炭を輸送するための支線(後の長尾線)として建設されたもので、当時は終点は長尾駅と呼ばれていた。そして昭和2年になると、この谷奥に嘉穂炭鉱(上穂波坑(日鉄鉱業 大分鉱の前身)が開かれて専用線が通じるようになった。現在は博多に通じている笹栗線の桂川への延伸の際には廃線となった大分鉱専用線跡が活用されたと云う。
続いて、桂川を出ると左に大きくカーブシテ方向を変えて次の上穂波へ向かった。実はこの駅のある町が、昔から「長尾」と呼ばれた地域の中心部らったのであった。やがて、左右から山並みが迫り、穂波川の谷を国道200号線と並走しながら上り勾配で南へ走って行く。そして谷が広がり住宅地に入ると筑前内野に着いた。長崎街道の石畳道の残る歴史の町らしくログハウス風の駅舎が出迎えてくれるはずである。筑前内野を発車すると再び山間部へと入り、国道200号の下をくぐって全長3,286mの冷水トンネルに突入する。直ぐにサミットを越えて一直線の下りのトンネルを抜けて、しばらく国道200号と並走しながら下って行く。そして右へ左へとS字カーブしながら下り勾配で山間部を進み、大築堤を下って平野部に降りて、稲田が見られるようになると住宅地が現れ、筑前山家(ちくぜんやまえ)駅の広い構内に到着した。そして、筑前山家をでると田園と住宅の混在した風景の中を南西へ走り、
筑後川の支流である宝満川を渡、続いて西鉄天神大牟田線をオーバーパスした。その後は丘陵地の森の中の切通しを進むと左へカーブしながら左手に住宅地が見えてきて、右から来た鹿児島本線に寄り添うと終点の原田に到着した。この構内の北端には転車台が設けられていた。
私が国道を通過するバスを乗りつぎながら峠を往復して撮影ポイント探しをしたのは最初の訪問の時だけで、それ以後はクルマで通過する機会を捉えてお目当てのポイントで待ち伏せするのが常であった。ある時には夜中に飯塚から逆向き後補機を従えて登って来る貨物列車を内野小学校の
裏庭から録音した時には、D60の歯切れの良いブラストと3音階の甲高い汽笛が懐か
しい思い出である。
つぎに、二回目の変革を遂げた筑豊本線の現況をエピローグとして述べておこう。
やがて、筑豊本線には二度目の変革の波がが押し寄せて来た。今まで若松〜原田間で運用されて来た筑豊本線が、若松線(若松〜折尾間)、福北ゆたか線(折尾〜桂川間)、原田線(桂川〜原田間)の三つの愛称をもった運用区間に分断されることになったのである。
その始まりは、1968年(昭和43年)のことで、福岡都市圏から盗難の山麓に伸びる篠栗線の笹栗から筑豊本線の桂川への延伸開業であった。この線区は1904年(明治37年)に九州鉄道が石炭輸送を目的に笹栗への視線を開通させたのがはじまりで、当時から将来は筑豊の飯塚まで延伸して福岡と筑豊の連絡線とすることを目指していた。その後の1922年(大正11年)公布の「国が建設すべき鉄道予定線を定めた改正鉄道付設法」にも予定線として指定されていた。しかし、その途中には福岡と筑豊の境である三郡山地を越えて飯塚と福岡を結ぶ笹栗街道の通じていた八木山峠(はきやまとうげ、標高 227m)を通るルートのけわしさがここを未成線のままにさせていたのであった。やがて、鉄道建設公団の手で九州最長の全長 4550mの長大トンエルで貫くことができたのである。
そして、2001年(平成13年)に電化され、同時に電化された筑豊本線桂川〜折尾間などとともに鹿児島本線との短絡線・筑豊本線・笹栗セン・鹿児島本線を経由する黒崎-折尾-直方−飯塚−桂川−笹栗-吉塚-博多 間を運用する『福北ゆたか線』(愛称)が誕生したのであった。
一方、その両端に非電化のまま置き去りにされた折尾-若松の若松線、桂川〜原田の原田線も相変わらずしぶとく生き残ってがんばっているのはたのもしい。
「冷水峠の筑豊本線と旧 長崎街道を訪ねて 」シリーズのリンク
352. ぷろろーぐ ・筑豊本線/折尾-筑前垣生−筑前植木
353. 筑豊と筑豊興業鉄道・筑豊本線/若松〜直方〜飯塚
354 長崎街道と長原線の冷水峠越え ・筑豊本線/飯塚〜原田