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・「冷水峠の筑豊本線と旧 長崎街道を訪ねて U」
353  筑豊と筑豊興業鉄道 ・筑豊本線 /折尾〜若松

〈0001:bQ11266:堀川運河に沿って・折尾-本城 間〉



〈撮影メモ:昭和45年1月撮影〉
折尾駅をでて市街をぬけて工場の散在する地域に入ると左手に運河のような水面が見えてきた。これが江戸時代にかいさくされて、莫大な量の石炭を運んだ堀川うんがであって、いまわ役目を終わってひっそりとしていた。これは遠賀川から分水して洞海湾に通じているのだが途中の鹿児島本線のしたは暗渠になっているが、折尾の市街地での水辺の遺構は「近代化土木遺産」として保全されていた。
〈0002:bP80522.若松駅到着〉



〈撮影メモ:昭和43年―11月14日撮影〉
終点の若松駅に付いてみると、かっては石炭の積み出しで多忙であったであろう機関区も、また先の方に広がる貨物ヤードもひっそりとしていた。

〈0003:bP80526:若松機関区の情景 T〉



〈撮影メモ:昭和43年11月14日撮影〉
若松駅の背後は丘陵がせまっていて、中腹まで住宅がひろがっていた。一方は洞海湾を一跨ぎする若戸大橋の吊り橋が眺められた。

〈0004:bP80524:美しいC55のスポース動輪〉




〈0005:〉
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〈紀行文〉
 そこで先ず「筑豊」と云う地域にづいての予備知識を述べておこう。この筑豊地域は今でこそ福岡県を四分する福岡・北九州・筑豊・筑後の地方の一つとなっている福岡県の内陸部を占めているのだが、そもそもの始まりは、明治時代以降、石炭資源を背景にして新しく生まれた地域区分なのであった。地形的には、遠賀川が育んできた筑豊盆地の地域に相当しており、南から田川・添田地区の田川盆地、飯塚・山田地区の飯塚盆地、直方(のうがた)・中間地区の直方平野、宮田・若宮地区の若宮盆地が続いている。この中の最も南に位置する田川盆地の地域は旧国名では豊前(ぶぜん)にぞくしており、その他の地域は筑前にぞくしていたことから、ろそれぞれの国名から一文字を採って“筑豊”がうまれたのであった。
この筑豊の母なる遠賀川の本流は福岡県と大分県の境にある英彦山地から西へ伸びる古処(こしょ)山地の主峰である馬見山(標高 977m)の中腹を源流に北流し、飯塚で西から注ぐ穂波川、それに先の英彦(ひこ)山系を源流に田川盆地を潤して直方で合流する本流に負けないくらいの彦山川、若宮盆地からの犬鳴(いぬなき)川を直方で合流させながら、延長約61qも流れ下って響灘で日本海に注いでいる北部九州最大の河川であった。この筑豊盆地の西側に
福岡県を東西に二分する三郡山地が北西から南東につらなって、福岡平野とその南の筑紫平野に接している。一方の東側は福智(ふくち)山地によって北九州地方と隔てらレており、また南は大分県境をなす英彦山地(ひこさんち)の山々が連なっていた。
そして、この遠賀川には下流の中間市の付近で分流して洞海湾河口までの約12qの堀川運河が設けられている。この遠賀川は江戸時代の初めには大雨の度に洪水を起こし、周囲の村々に大きな被害をもたらしていた。そこで、1620年に福岡藩主黒田長政は、遠賀川筋の中間から洞海湾へ注ぐ運河(堀川)を開削して、洪水の防止・灌漑(かんがい)用水の確保・新田開発・物資の輸送などを実現すべく工事に着手させた。この運河の通過する地域は「折尾」と余垂れた地名の示す如く、い丘陵の尾根が折り重なるちけいであったから、吉田車返(くるまがえし)から折尾大膳に至る岩山を切り開くのに7年も費やして1762年に通り抜けた。さらに1804年になって寿命(じめ)水門が築かれ、洞海湾まで通じる堀川運河は着工後
180年目に開通させたのである。これにより江戸末期から明治時代に掛けて筑豊地方で産する石炭が遠賀川−堀川運河を経て多数の“川ひらた"と呼ばれる小舟で若松港に運ばれ、外航船に積み替えられて積み出されていたのであった。そして、明治中期になると、地方財閥(麻生(あそう)・貝島など)を初めとする地元資本によって筑豊興業鉄道(筑豊鉄道の前身)が創立され、明治22年7月に免許を獲て、遠賀川に長さ 390mの錬鉄プラットトラス桁12連をアメリカのペンコイド鉄工所社(アメリカン・ブリッジ社ペンコイド工場の前身)から輸入して架橋し、1891年(明治24年)には若松〜直方間 24.8qを開通させ、若松と直方に機関庫を設けて開業した。これにより若松港への石炭輸送の弁を提供し始めたのである。この鉄道の早期開業の素早さには驚かされる。それは九州で初の鐡道を敷設した九州鉄道が博多から文字を目指して延伸し、1891年(明治24年)2月に遠賀川〜黒崎間を開通させ、同時に折尾駅を開業した。その頃、若松〜直方 間の建設を始めていた筑豊興業鉄道でも、九州鉄道の折尾駅の近くに折尾駅を設けて、九州鉄道線を交差して、その半年後に若松〜直方 間の24.8qを開業させると云う手際の良さであったからである。ちなみに、その4年後には九州鉄道が西へ200mの地点に筑豊興業鉄道との共同使用の折尾駅を設けて、乗客の弁を図っている。
この当時の我が国の鉄道建設は、本州の官設鉄道は従来からのイギリス指導を脱してアメリカ流へ移行しようとする時期であり、また北海道は開拓使以来のアメリカ式を踏襲しており、一方の九州鉄道は質実剛健で経済性の高いドイツ式の指導の下で進めていた。これに対して筑豊興業鉄道はアメリカ方式で建設が進められていたのだろうか、遠賀川鉄橋の架橋にもみられるからである。
続いて直方から先は石炭山地をめざして二方向に分岐来て延伸を進めた。その第1の直進方向は飯塚・山田の地域を含む飯塚盆地ほ目指した。こちらは2年後の明治26年に飯塚まで延伸して、飯塚〜若松 間の37.6qの本線(直方セン)が全通した。一方の左手に分岐して伊田から田川・添田の地区を含む田川盆地を目指し路線(伊田線)も同年には嘉麻川(遠賀川の上流での旧名)に長さ 139mもの鉄桁7連の嘉麻川鉄橋を架けて金田(かなだ)までの9.8qを開業させていた。この路線は将来は伊田まで複線化され本線並みの主役を演ずるようになるのである。また、その翌年の明治27年には筑豊興業鉄道 中間駅と
九州鉄道 黒崎駅 間に連絡線を設けて、官営八幡製鉄所への石炭列車の直通運行を始めた。この間にも数か所の駅から石炭鉱山への石炭積み出し用の貨物線を開業させている。
そして、明治28年になると飯塚から山田への延伸が進められ、九州鉄道に合併してからの明治34年には上山田まで全通させている。このルートは九州鉄道の国有化後の線名制定により筑豊本線(若松〜上山田 間)となっている。また同じ年内に開業したのが、後に“本線化け”を果たすことになる飯塚〜長尾 間の 5.9qの支線であった。それは飯塚の西にそびえる三郡山の東麓を流下る遠賀川の支流である大分川(だいぶがわ)の谷を通る笹栗街道(飯塚〜福岡)の途中に開かれた麻生(あそう)工業豆田炭坑からの石炭積み出し用の貨物線であった。炭坑から数百m離れた所に設けられた終点は長尾駅と命名された。この「長尾」は、この地域の中心地の地名であって、せは隣の谷にあって、随分と離れていたのだが、強引に名付けられてしまったようだ。やがて、地元の「桂川(けいせん)」と改称されてから幸運が巡ってくる話題は後述したい。
このようにして網のめのように炭坑とを連絡する路線が形成されて行き、これらを経て集められた石炭貨車は直方の貨物ヤードで編成された長大な運炭列車となって若松港や八幡製鉄所へと頻繁に送り出されるようになり、筑豊炭田の繁栄を支え続けた。
その後の石炭産業の発展に伴い、九州で初めての複線化が部分的に進められ、1894年(明治27年)には直方〜若松 間の複線が完成しており、続いて飯塚、伊田までもが複線化された。さらに時代がさがって、九州鉄道から国鉄の筑豊本線となってからの1923年[大正12年)には越前植木〜中間間が三線複線化を行って輸送力の強化に勤めていた。また大正4年には直方駅に一日4,000両を扱う貨車操車場が完成して威力を発揮している。

「冷水峠の筑豊本線と旧 長崎街道を訪ねて 」シリーズのリンク:
352. ぷろろーぐ ・筑豊本線/折尾-筑前垣生−筑前植木
354 長崎街道と長原線の冷水峠越え ・筑豊本線/飯塚〜原田
355 冷水峠越え探訪記・筑豊本線/筑前内野-筑前山家