自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ保存 & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |  
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………
・「冷水峠の筑豊本線と旧 長崎街道を訪ねて V」
354.  長崎街道と長原線の冷水峠越え  ・筑豊本線/飯塚〜原田

〈0001:bP61111:重連の蒸気機関車:昭和43年9月22日撮影〉



〈0002:bP61113:重連旅客列車〉

〈撮影メモ:昭和43年9月22日撮影〉
これは原田発若松行、728レであろう。
列車はC55の牽引だが、冷水峠を越えるためにD60の前補機が付いていた。
この補機は折り返しDD51牽引の急行”天草”の逆向き後補機となると聞いていた。
この重連は“4-3-10”で消えてしまった。

〈0003:bQ11221:上り荷物列車〉


〈撮影メモ:昭和45年1月撮影〉
正月連休のためだろうか、荷物者は1両だけであった。手前の道路は国道200号線です背後の山には竹林が生い茂っているのが見て執れた。

〈0004:bQ11214:棚田.−







〈000x:縦おq〉




〈000x:〉




…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 この筑豊の石炭産業の活況と、益々増大する需要に対して、若松港からの石炭積み出し能力に限界が見えて来たことから、これへの対応策として、有明海の大牟田港や東シナ海に面した佐世保港からの積み出しを可能にするために、飯塚から三郡山地の南端を冷水峠に頂戴トンネルを通して筑紫の平野に出て鹿児島本線の原田駅に連絡する長原線が既設の長尾線を延伸する形で計画され、1929年(昭和4年)に開通した。
実は、1909年(明治42年)の線路名称制定の時から若松駅-上山田駅間が筑豊本線となっていたが、この新線延伸により若松-飯塚−原田間 66.1qが筑豊本線となった。
このようにして、石炭産業は1960年代(昭和35年)頃まで繁栄し続けたがやがてエネルギー革命によりかげりが見え始めて、私が初めて訪れた頃には炭坑群の淘汰が進み、古典SL コッペルとアルコの居た貝島などの少数の炭坑が細々と出炭を続けていたが、新たな産業として石灰石を原料とするセメント産業が田川や福智などに勃興してきて、黒ダイヤと呼ばれた石炭に代わり白ダイヤと呼ばれた石灰石やセメントの輸送に活路を見いだしていた頃でもあった。
 さて、ここで筑豊本線最大の難所である“冷水峠(ひやみずとうげ)越え”への探訪の準備を始めよう。この峠の東麓に当たる飯塚は福岡県の中央部に位置する筑豊地方の中心都市で、福岡市の東約35km、北九州市中心部の南西約40kmの場所にあった。この飯塚市の中央を遠賀川が流れ、その市街地の西北部から西部、西南部にかけて福岡県を 東西に二分する三郡山地の三郡山(標高 935.9m)から大根地山(標高 652m)へと標高 400 〜900m級の山系が連なっていた。この地は縄文・弥生時代の昔から開けていた穀倉地帯であって、大陸の前漢との交流もあったほどの先進地であったと云う。平安時代には、ここから西に向かって三郡山地を米ノ山峠(こめのやまとうげ、標高 349m)を越えて九州の行政機関の中心であった大宰府(だざいふ)へ通じていた「米山越道」が通っていた。この道は都と大宰府を結ん官道の「西海路」を構成する重要な道筋であった。時代が下って戦国末期になると飯塚を通る街道が設けられるようになる。それは、1570年(永禄13年)にポルトガル船の入湾によって長崎港が開かれると、前から交易港だった平戸に通じる唐津街道に代って長崎への街道が必要となりつつあった。当時の筑前国を領していた福岡藩主 黒田長政の父である黒田官兵衛(如水)は、その城下の福岡や博多の町を他藩の人々が頻繁に通行するのを避けるため、小倉と長崎を直線的に結ぶために大根地山の南東にある鞍部を越える道筋を探し出して、その地を領していた内野太郎左衛門に命じて1612年(慶長17年)に冷水(ひやみず)街道を開かせたのであった。それに前後して、1605年(慶長10年)には長崎が幕府直轄領となり、長崎奉行が江戸から派遣されるようになった。続いて1622年(元和2年)には貿易港を平戸と長崎に限定する鎖国令が定められた。そして全国の街道整備の一環として九州で唯一の脇街道としての長崎街道(全長 (57里/約228km)が冷水街道を受け継いで整備されたのであった。この道は最短距離を直線的に結んでいたことから多くの峠の難所が存在した。なかでも才代の難所は「九州の箱根」と呼ばれた冷水峠で、ここは三郡山地を越える標高 320mの峠であった。
かつてこの道を通ったのは、
長崎輪のオランダ商館長)や中国人などの江戸参府、それに参勤交代の九州の大名たち、長崎奉行や西国筋郡代の交代、そして外国文化に憧れた多くの日本人が、またシーボルトやケンペルといった外国人も多く往来した。ともかく、海外の物資、文化、学問、技術などの海外情報などが移入された重要なルートであった。
時代が下って1885年(明治18年)の国道制定の際には国道4号「東京より長崎港に達する路線」に定められて馬車路に改良された。さらに1920年(大正10ねん)には自動車道路にかいりょうされ、現在の国道200号として大活躍していた。



「冷水峠の筑豊本線と旧 長崎街道を訪ねて 」シリーズのリンク:
352. ぷろろーぐ ・筑豊本線/折尾-筑前垣生−筑前植木
353. 筑豊と筑豊興業鉄道・筑豊本線/若松〜直方〜飯塚
355 冷水峠越え探訪記・筑豊本線/筑前内野-筑前山家