自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて
350.  プロローグ・日本海縦貫線の矢立峠越え
-後補機の付け替えのある碇ヶ関駅構内-

〈0001:bR1263:天然秋田杉の積み出し駅での連結に向かう補機〉




〈撮影メモ〉
弘前から国道7号線を北上して、矢立峠の北麓の碇ヶ関(いかりがせき)駅前に付いてみると、狭い駅の構内の片隅に巨大な秋田杉の丸太がつんであった。その先を連結作業に向かうD51が眼前を通り過ぎるところであった。この丸太は成長がるやかなため年輪の幅が狭いため強度に優れていると云われる「天然秋田杉」だとのことであった。
〈0002:bP31245:後補機連結作業中のd51 1126〉


〈0003:bP31246:下り貨物列車到着



〈0004:bP31251:上り旅客列車発車〉


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〈紀行文〉
このシリーズでは、昭和43年秋に東北本線の“奥中山D51三重連”が切れてしまった後に、東北に唯一残っていたD51後補機を付けた3台運転が走っていた奥羽本線の“碇ガ関(いかりがせき)−陣場 間”の矢立峠を訪ねた記録の集大成です。
先ず、プロローグとして奥羽せんの生い立ちから始めよう。この東北地方に鉄道が通じる契機を作ったのは、明治5年(1872年)と云う早い時期に北辺の開拓に力を注いでいた北海道と首都の東京戸を結ぶ鉄道線の敷設ルートの調査がじっしさてて、そのルートが現在の東北本線のほぼ同じであったことから始まった。やがて日本鉄道による
大宮-青森 間の建設が始まった。そして1885年(明治18年)に、この奥州線が宇都宮まで開通したときであった。山形県から「日本鉄道の奥州線を福島地方で分岐して山形県下の米沢を経て酒田に至る約148qの路線を実現したいとの熱心な運動が起こった。この支線的な話が突如として、奥州線そのものを福島から山形、秋田を経て青森に至ると云う“ルート変更”へと変化して「奥州線の争奪戦」に突入した。このような動議は続いて仙台の手前から、または盛岡の辺りから分岐する案としてて、地元や、時には軍部から強く繰り返して提起された。特に、盛岡- 青森間の測量を前にして、明治20年(1887年)に陸軍から次の申入れがあった。それは『海岸線は戦時敵軍により破壊され、利用される恐れがある。それ故に、「盛岡から大館・弘前経由で青森に至らしめるようにしてほしい。この経路の延長はほとんど同じであり、その沿線の人口や産業などが多い羽後・津軽を経由するので、経済的には原案よりも優れている。』と云う主張であった。その時の鉄道建設を担当していた関節鉄道の技術陣は矢立峠越えルートは幹線鉄道を通すには適さないとして断固反対であった。それを受けて、北海道連絡を主眼にしていた政府では既定方針を貫いて1891年(明治24年)に上野-青森間の全線開業にこぎ着けた。このように時折持ち出されたルート変更の動きは、云うなれば現在の奥羽本線のルーツと云えるだろうか。
そして青森に鉄道が来るや、青森県知事は、この鉄道を津軽の中心で、当時県内随一の市街地であった弘前まで延長することを日本鉄道に請願した。これを請けた同社では建設費は社債を募って調達する前提で建設を出願したが、その免許は容易に得ることができなかった。それに前後して、欧州線の通っていた宮事件下の白石から奥羽山脈を越えて山形県下の新庄を経て青森に到達を目指した秋田鉄道なども出願されていたが実現に至らなかった。一方で、鉄道当局でも明治23年3月頃から、福島-米沢−新庄−秋田−青森間の奥羽線が技術的にも営業的にも建設可能であるとの調査結果を獲ていたようであった。
そして早くも鉄道の青森への開通1年後の明治25年には、「国が建設すべき鉄道路線を規定する目的の『鉄道敷設法』た公布されたのだった。驚いたことには、この鉄道建設予定線の中に次のルートが挙げられていたのである。
『一 福島県下福島近傍ヨリ山形県下の米沢・山形、秋田県下の秋田、青森県下の弘前などを経て青森ニ至ル鐵道』
その後すぐに、この路線は第一期予定線に格上げされて、その北部に当たる青森−湯沢間の奥羽北線は官設鉄道として明治26年(1893年)7月に着工されると云うスピードぶりであった。
そして青森を出た路線は間もなく標高 102mの大釈迦峠(だいしゃかとうげ)の前後を25‰の急勾配と、サミットの大釈迦隧道(長さ 271m)で乗り越えて、早くも翌年の12月には津軽平野の中心地である弘前まで開通した。続いて、いよいよ秋田県との県境にある矢立峠越えをめざして弘前−大館間(44.7q)の建設に取り掛かった。津軽平野の弘前を南進すると、やがて次第に第に岩城側の支流の平ら川の谷間へ入って行った。大鰐を過ぎて長峰の先での勾配は13.5から15‰となり、唐牛とんねるを抜抜き、第3平川橋梁を掛けて碇ヶ関へ向かった。これからの勾配を克服するために補機を付けるための補機駐泊所が大鰐駅に設けられた。そして碇ヶ関からは長短7本のトンネルを貫き、最大勾配25‰の急勾配の線路で矢立峠を越えて、さらに15‰の坂を下って大館に達するには約5年間にわたる難工事を成し遂げて明治32年(1899年)11月に開通させた。この時の機関車庫は弘前と大館に設けられている。
この奥羽北線が選んだるーとは昔から津軽と秋田方面を結ぶ道筋として開かれた「碇ヶ関街道」とか、「秋田道」と呼ばれていた羽州街道に沿っていた。この道筋は日本海岸に沿って連なる白神山地と東北地方の主稜である奥羽山脈に挟まれた谷間を登って鞍部に開かれた矢立峠で陸奥(青森県)と羽後(秋田県)の国境を越えて通じていたから、鉄道は北麓の碇ヶ関と南麓の陣場の間の10.7qの矢立峠越えは再急勾配25‰を含む径300mの急カーブの続く厳しい線形であった。
ところが、日本海岸に沿って北上し秋田に達した羽越線が大正13年(1924年)7月に開通して、奥羽線北半分・羽越線・信越線・北陸線を通じて京阪神地方と北海道を結ぶ最短ルートとなり、早くから多数の貨物列車が設定されるようになって来ていた。さらに昭和6年(1931年)9月に上越線が全通すると、京浜地方と北海道との輸送の一部も分担するようになった。それで1965年からは貨物時刻表にも、前々から部内で使われていた「日本海縦貫線」の路線表記がなされるようになった。それらに並行して、レールも最終的に50kgレールにまで強化されている。また、その後の太平洋戦時中の昭和17年(1942年)になると碇ヶ関駅から大館方へ4.9qの地点に列車交換可能な矢立信号場(後の津軽湯の沢駅)が新設されて輸送力増量が行われている。そして戦後になってからであろうか、直通貨物列車の牽引定数を960噸に引き上げる要請が出された。このためには、25‰の最大勾配の存在する陣場-碇ガ関間には後補機を1両追加することになった、そして大半の貨物列車は前補機に後補機、もしくは後補機に後々補機による三台運転が常態となった。私が訪れた昭和40年代にはD51による3台運転が行われていた。
ここでは青森行きの下り列車に付く後補機は逆向きであった上に、地形が複雑で長大な貨物列車の全編成をフイルムにおさめるのに悪戦苦闘していたのが想い出される。
この列車運行上の難題を解消したのは昭和45年に開通した新しい長大トンネルを含む陣場−津軽湯の沢間の10.2qの短縮ルートえの切り替えであった。これは将来の輸送力増強とスピードアップを見越した電化複線をを前提として、最急勾配を10‰に抑えた新線を実現するために陣場駅の先2kmほど下内川(しもうちかわ)の谷底付近の標高190mの位置で全長3180mの新矢立トンネルを直線で峠の下を貫通してかんせいさせたのであった。
 このシリーズでは、この補機の追加区間である「碇ヶ関−陣場 間」の10.7qの沿線の地形や歴史を含めた地誌を踏まえた鉄道建設とその鉄道風景を4回に分けて展示した。
先ず冒頭のプロローグでの寫眞には、矢立峠の北山麓に当たる補機付け替えを担当している碇ヶ関駅の風情をご覧にいれます。
 ここで再び羽州街道に話を戻そう。この矢立峠を挟む宿場町は北から弘前宿(弘前市)→大鰐宿(南津軽郡大鰐町)→碇ヶ関宿(平川市)→〈矢立峠〉→白沢宿(大館市)→釈迦内宿(大館市)→大館宿(大館市)となっていた。
この弘前から三つ目の碇ヶ関宿の少し先では津軽街道(現・国道282号)が羽州街道から左へ分かれて坂梨峠(標高 455m)を越えて銅山で栄えた鹿角を経て、さらに奥州山脈を越えて奥州街道の宿場である盛岡城下へ通じていたから、碇ヶ関宿は交通の要所であった。それで、津軽藩政時代の天正14年(1586年)の昔から「碇ヶ関」と呼ばれた関所が設置され、軍事上、また経済的な厳格な取締りの役目を担っていたという。この地は豊かな温泉に恵まれていたから、参勤交代の際の藩主の御仮屋(宿泊地)に なっており、峠を控えた温泉の湧く宿場町とみて大変賑わったと云う。ここの地名にある“碇(いかり)”とか、ここより一つ北の大鰐宿にある“鰐(わに)”(これは鮫(さめ)のことを指している)などの文字を含む地名の由来は、この川筋が太古の時代には日本海の
津軽の海が入り江となって内陸にはいりこんでいたことを示していると推察されているようだ。
この地は標高が約140〜150mほどであって、温泉を兼ねた元 宿場町から西へ国道7号線を挟んた高台に1895年(明治28年)10月に奥羽北線が開通すると同時に 碇ケ関停車場が開業した。
この碇ヶ関駅には単式ホーム一面1線と島式コーム1面2せんのに麺さん線のホームが設けられて、に二番センは待避セントして使われた。相互のホームの連絡には跨線橋が設けられていた。右側の駅舎側のホームが上り線であった。そのホームの弘前方の外れに補機の待機線が設けられており、その先端からは碇ヶ関駅へ登って来る上り列車の姿が遠くから眺められた。ある時には、この駅で貨物劣者が待避中に、上りと下り列車が交換すると言う素晴らしい光景が見られることもあった。この狭い構内に大型蒸気機関車が7輛もが息づいていると言う豪華な一瞬であった。この駅の周辺で終日を過ごしていても全く飽きることがないほどの撮り鉄のパラダイスであった。
この駅の峠方へ4.9qの所に設けられていた矢立信号場が戦後の昭和24年(1949年)には津軽湯の沢駅に昇格した。崖の下を通る国道7号線に面して駅舎が設けられ、そこから地下道と階段で地上のほーむへと通じていた。厳密に云えば、矢立峠越の最もけわしい区間は「津軽湯の沢−陣場 間」の5.8qと云うことになるのだが、補機の追加区間は「碇ヶ関−陣場 間」の10.7qであることには変わりはない。

撮影:昭和43年(1968年)5月4日。

〈「奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて」シリーズのリンク〉
349. 矢立峠越えの拠点、陣場駅構内の夕暮れのひととき
213. 矢立峠を登る蒸気機関車たち・碇ヶ関〜陣場
190. 積雪の見える矢立峠越・碇ヶ関〜陣場