自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ保存 & 日本現役
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にある送付先へドウゾ。)
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・奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて
213.
矢立峠を登る蒸気機関車たち
・碇ヶ関〜陣場
〈0001:bP50522:国道7号線の改良工事の中を矢立峠へ向かう〉
〈撮影メモ〉
「峠へ向かう重連+後子機付き三重連」は碇ヶ関駅で後補機を連結して矢立峠に向かって登って行く途中である。背景の自然破壊は昔ながらの国道七号線を近代化するための改良工事が1960年代前半から旧ピッチで進められていた姿である。一方の鉄路の方は、峠下を長大とんねるで貫いて勾配の緩和とショートカットを狙う計画が練られている最中であった。
〈0002:bP50541:碇ヶ関駅からの444レ旅客列車の奮闘〉
〈0003:bP50533:日景温泉への林道から俯瞰〉
〈撮影メモ〉
これは日景温泉への入り口に架かる第一下内川橋梁を潜って林道の坂を登ってから俯瞰さつえいしたもので、プレートガーターの上を渡る貨車に午後の陽光が当たっている。この線特有のレンガ積みの橋台中に設けられた道路を通すアーチ形の架路橋(空トンネル)が写っていなかったのは残念であった。
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〈紀行文〉
鉄道を撮り始めてから未だ二年目の昭和43年4月に最後の東北本線・奥中山三重連を訪ねた旅の帰りの途中に奥羽本線の矢立峠(やだてとうげ)三重連を初めて偵察したことがあった。事前に聞いていた通り、逆向き重連の後補機の存在にも驚かされたが、地形も複雑で、線路脇に電柱があって撮影ポイント探しに戸惑ったことが想い出される。この矢立峠越えについての知や鉄道の建設経過は既に前のサイトで述べたので、ここでは、陣場駅から矢立峠を越えて津軽湯の沢駅までの沿線を旧国道7号線(昭和36年まで現役)と現 国道7号線(訪ねた昭和43年頃も改良工事がおこなわれていた)をたどりながらの描写を試みた。
実際は、私の現 国道からの鑑札をベースにwebに発表されている廃線探訪記なども参考にしてまとめたことを予めご了解下さい。
〈1〉陣場駅から峠へ出発:
陣場駅前の西側を通る現国道は右の線路に寄り添うようにして峠に向かった。やがて、いよいよ本格的な登りに掛かろうとする所に「今度渡橋」が下内川に掛かっている。この右脇に奥羽本線の長さ 67m5連の上路プレートガーター形式の第二下内川橋梁が掛かっている。この橋台、橋脚共は明治の建造物らしさの重厚さを感じられていた。現国道の今度渡橋の先で右に分岐した旧国道は数軒が寄り添っている小集落内を一車線の舗装路で通り抜けた。この脇を走る線路の築堤にはーチ形をした暗渠(あんきょ)がもうけられており、線路は旧国道に沿って北上していた。この旧国道の砂利道は約1qほど先で再び現国道に合流していた。
この旧国道が現国道に合流する地点の少し陣場方へ戻った現国道には陣場大橋と云う青い曲が弦トラス橋が線路を跨いでいた。この橋は国道改良工事の昭和41年に開通した才に完成したようであり、この下を列車が通過していたのは僅か4年足らずだったと云う。
〈2〉25‰の線路に沿った国道の登り
陣場大橋から1kmほどの現国道は線路の右側にそって緩やかな勾配が続きていた。一方の線路はこの辺りがら25‰が1.5qも続く厳しい区間に入るようであった。
〈3〉第一下内川橋梁
そして、やがて左手に現れるのが全長 45mの「第一下内川橋梁」である。この鉄橋の橋台の中に設けられたアーチのトンネルを抜けて一軒宿の日景温泉へ通じている林道が見えた。この橋のように、橋台の中にアーチトンネルを設ける方式はこの矢立峠の沿線に多く見かけられた。この優雅な橋梁も路盤と共に現国道の改良工事に利用されてしまい、姿を消してしまったことてあろう。ここの下内川源流をたどって矢立峠を越えていたのは津軽藩が開いた碇ヶ関街道(古羽州街道)であった。
第一下内川橋梁の先は一段と山が深くなり線路は国道の左手100mほどの山中を抜けているので現国道から見えなる。そして、そう距離をおかずに、国道の橋の上から再び線路の大湯沢川橋梁が見えた。
線路はこのすぐ先で昭和10年に開削されてしまった第七矢立隧道跡の切り通しに入っていることだろう。
現国道の勾配が最もきついのがこの辺であり。それに、国道と線路との間が離れすぎており、それに険しい斜面のために接近は難しいようである。
この先は推定であるが、この先に第6矢立隧道が存在しているはずである。現国道はその上を越えて線路の西側を北上していると思われる。
〈4〉矢立温泉、第六矢立隧道(232m)
推測では、第6矢立隧道の北方の坑門の先の方の左下方に現国道から旧国道が分かれて矢立温泉に向かうのが見えるはずである。
矢立峠の前後にはいくつもの温泉地が点在しているが、この矢立温泉は現国道から非常に近い所に湧き出している一見宿であって、その湯は鉄分が強く、昔から赤湯と呼ばれて親しまれてきて繁盛している。
現国道から分かれて矢立温泉に向かう道が昭和36年まで現役だった旧国道の舗装道路である。この道は温泉から先は砂利道となり峠の直前で再び現 国道に合流するまでは林道さながらになるものの何とか通じていた。
とことで、現国道と矢立温泉へ至る旧国道との分岐点の直ぐ脇にある石垣を登ると線路脇に出た。少し歩くと第6矢立隧道の北側の坑門にたどり付いた。これは西洋の城のような、やや台形のしており、石積みの姿は貫禄充分であった。その隧道内部はカーブし ていた。また、他のレポートでは、南側の坑門は全体がコンクリートで補強工事を請けた状況であると報じていた。
この第6矢立隧道の北側坑門の少し先から峠方向を眺めると、こ矢立温泉宿の裏には敷地を跨ぐ形で沢に架けられた「赤湯沢川橋梁」が架かっていて、北側の対岸には第五矢立隧道の坑門が見えていた。この沢は未だ下内川の流域である。
〈5〉第五矢立隧道(146m)
矢立温泉の敷地からも北側の斜面に明確に見えるのが第5矢立隧道の南側坑門だ。煉瓦積の坑門入り口は封鎖されていた。
山気温泉から先の旧国路は砂利道に変り斜面を登って、この第5矢立隧道の坑門の上部を通っていた。そしてちょうど坑門の上部のあたりの旧国道の脇に東屋が設置されていた。実はこの旧国道より西へ数百mこの離れた位置を古羽州街道、これは津軽藩が初めて矢立峠に開いたみちで、当時は「碇ヶ関街道」と呼ばれていたものであって、現在は遊歩道としての整備が湯の沢からおこなわれていた。この東屋から遊歩道への連絡路への案内板が立てられていた。
〈6〉 旧国道の峠道
旧国道は第5矢立隧道の上の尾根を蛇行シナサラ北上している。やがて尾根に登って来た現 国道い合流する。その後、少し先で尾根に沿って東北へ向かう現 国道から左に分かれた旧国路はまもなくサミットを越えることになる。
〈8〉第五矢立隧道の北側坑門
現国道から再び分かれた旧国道は少し行くと再び足元に線路が見えてきた。正面に小さく見える隧道が、第四矢立隧道であり、その手前が鉄道線路のサミット(峠)となっているとおもわれる。
旧国道の峠もこの近くであるのだが目印は見当たらなかった。しかし地形的な分水界はおそらく第4矢立隧道の坑門の上に見える杉林のあたりの尾根筋を通っているのであろう。
この矢立峠には東から現国道→線路→旧国道(明治国道41号)、→矢印古羽州街道→明治新道(馬車道、羽州街道)の順で西へと並んでいた。それぞれ約200mほど離れていたようだ。この矢立峠付近に見られる天を突くような巨木は、秋田県の名物、天然秋田杉である。確かに、秋田県外ではこれほどの杉の巨木の森を見ることはできないであろう。しかし、戦前戦中の狂気じみた伐採により、深い山中を含め、その殆どが姿を消してしまったが、この矢立峠の他に、二ツ井町仁鮒一帯や上小阿仁村、秋田市仁別の一部などで、このような美林を見ることができるのであった。
この辺りから、右に見えるのは並行する沢の対岸の急斜面に、桟橋を多用した現国道が走っている。その先では立派なアーチ橋がある。これは矢立峠橋で、国道の峠もあそこら辺であろう。
い一方の旧国道の足元には第4矢立隧道の南坑門が口をあけていた。
旧国道から旧斜面を下って線路へと降りてみた。先ず戻って第5矢立隧道へ向かう。第5矢立隧道の北方の幅広い坑門が見えていて、その上を旧国道が通って来た様子がうかがえた。この隧道の南側の入り口は閉鎖されていたためであろうか、隧道内部に巨大ツララが林立していたと云う。(これは配線になってからの話です。)
〈9〉第四矢立隧道 南側坑門
今度は北へ進むと鉄道線路のサミットに到着した。さらに進むと峠の稜線と坑門が、一緒に近付いてくた。この第四矢立隧道より、青森側の下りが始まる。この石済みの坑門にも扁額は見当たらない。
ここから第4矢立隧道の通過に掛かる。遥か702のm向うに、点の様に明かりが見えていた。ここは16‰の片勾配で直線的に津軽湯の沢方へ下っている。この峠付近は杉の密林であり、湧水が多かった上に、切削中は換気が悪く、つつを伸ばして空気を送って難工事の掘削作業を進めたと云う。そして明治32年に竣工している。この第4矢立隧道の上を旧国道が通っている。
隧道を抜けて、振り返った北方の坑門には特に変わったデザインはなかった。
この先は左手の谷に沿って下って行く。実は廃線になってから治水工事のためであろうか、たにと線路旧国道などが盛り土に埋められてしまい、地形が変わってしまったとの報告が見受けられた。
きがつくと、現国路が線路よりたい高い右上に見られるようになった。
〈10〉相乗川橋梁から第3矢立隧道(長さ 51m)
やがて橋長が 46mの相乗沢川橋梁で平川野上流の支流である相乗沢を渡ることになる。線路はかかに国道と並走して行く。やがて第3矢立隧道が現れた。
この場所は、国道から一段高い位置にあった。この隧道の北方の坑門出口の辺りから、沢の対岸に既に廃業して廃墟となった相乗温泉の巨大なホテル群が現国道に面して見えたのにはいささか違和感を覚えた。
〈11〉相乗温泉(廃墟)
この矢立峠の温泉の中では最も観光化されており、国道に面しており、立地条件がすこぶる良い。とくに、東北一をかつて標榜していたという巨大なウォータースライダーは、荒れ果てている。なぜ、このような北国の山奥に巨大なホテル、レギャー施設が現れたのだろうか。この廃墟ホテルの入り口からは、第三矢立隧道の北側坑門が良く見える。
更に下って行くと、昭和10年に開削された第二矢立隧道(延長103m)の切り通しの辺りがみえる。
〈12〉第一矢立隧道(125m)
緩やかな国道の下りを快調に下ってゆく。
道の脇に立ち並ぶペンション風の建物の向こうに、再び第一矢立隧道が見えた。
僅か125mの隧道だが、反対側は見えない。
さらに国道を下ると、アーチを見つけた。国道を跨ぐ架道橋である。国道の一次改良時に新たに設置されたものなので、竣工は昭和40年ごろということだ、僅か5年ほどしか鉄道を通わせていない。
〈13〉第6平川橋梁
次は長さ 54mの第六平川橋梁である。その橋台には幅の大きなアーチのトンネルが設けられていた。これは明治国道四十一號を通じていたものであろう。この国道は明治10年に開通した馬車路の明治新道に代って、新しい規格で作られた国道であって、その後の明治32年に後から建設された奥羽北線が架道橋として築いたものに違いないだろう。
〈14〉津軽湯の沢
橋を渡った線路は陣場以来の本格的集落である湯の沢をまっすぐに進み、津軽湯の沢駅となった。
現在の駅は400mほど北側に、移動している。
これで、7本の隧道(とんねる)、その間の谷に掛けられた鉄橋、曲率半径300mの旧かーぶ、それに最大勾配25‰を含む急勾配の連続と云う過酷な5.8qの沿線を描写したことになります
この先の碇ヶ関駅までの4.9qは、並行して流下る平川を2回渡り、山すそに沿うようにカーブを繰り返すうちに碇ヶ関駅に到着する。
この区間は廃線や隧道を探索する人々の注目のまとのようであるが、その後も続けられている国道7号線の改良工事に廃線跡が活用されている箇所が多くあると聞いている。
最後に陣場駅付近の新線開通後の情景を記して見ると、昭和45年11月に切り替えられる新線は陣場駅構内の西側で、勾配を抑えるための路盤の盛り土をお行なってから、新しいホームが設けられた。この先は2qほど下内川の谷底を走り
標高190mの位置で、そのまま矢立トンネル(3180m)を峠の下を抜けて津軽湯の沢駅を経て、新たに碇ヶ関トンネルを設けて勾配を10‰に抑えた新線へと切り替わったのである。
この矢立峠越えの新線への切り替え直前の1970年8月23日と30日の両日には「旧線のお別れ記念のD51三重連(前部三重連)の特別運転」が催された。その翌年の昭和46年(1971)10月のダイヤ改正時の電化開業により蒸気機関車は消えた。
撮影:昭和43年5月
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〈参考web〉
廃線レポート 奥羽本線 矢立峠
http://yamaiga.com/rail/yatate/main.html
この資料の詳細な報告を大いに活用させていたダイらことに、厚く御礼を申し上げます。連絡が取れず特に許可を獲ることは出来ませんでしたがお許し下さい。
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〈「奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて」シリーズのリンク〉
350. プロローグ・日本海縦貫線の矢立峠越え
-後補機の付け替えのある碇ヶ関駅構内-
349. 矢立峠越えの拠点、陣場駅構内の夕暮れのひととき
190. 積雪の見える矢立峠越・碇ヶ関〜陣場