自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ保存 & 日本現役
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にある送付先へドウゾ。)
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・奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて
349.
矢立峠越えの拠点、と陣場駅構内の夕暮のひととき
〈0001:bP4011-2:陣場駅構内の午後のひととき〉
〈撮影メモ〉
右手奥の方向が弘前かたで、矢立峠へ向かう方向です。
〈0002bP4114:午後の陽光が低くなって来た陣場駅構内〉
〈撮影メモ〉
今度は左手前方向が矢立峠方向です。
〈0003:bP4121:山合いの落日は早い。〉
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〈紀行文〉
ここでは、矢立峠にまつわる地理や歴史を紐どいてみたに。そして、峠の南麓に位置する陣場駅構内にある後補機専用の機関車駐泊所辺りでの午後から夕暮れに掛けての情景をご覧に入れたい。
さて、最初に主役である矢立峠の存在する位置を説明することから始めたい。東北地方の日本海岸に沿って南北に連なる出羽丘陵の北部の一角に、ユネスコの世界遺産(自然遺産:「ブナ」の原生林)となった白神山地(しらかみさんち)が青森県の南西部から秋田県北西部にかけて標高1,000m級の山地を広げている。その東側に並行するのが本州の脊梁である奥羽山脈の最北端の標高 1,500mを越える山々の集まる八甲田山地がつらなっていた。それらの山同志をつなぐ尾根には標高が266mと云う以外に低い鞍部があって、ここを矢立峠が通じていた。この鞍部からは、北へは津軽平野を潤す岩木川の大支流である平川が流下り、一方の南へは奥羽山脈の八幡平(はちまんたい)を源に北流してから秋田の県北を東から西へ流能代で日本海に注いでいる米代川の支流である下内川(しもないかわ)の源流が発していたから、この矢立峠は岩木川水系と米白川水系との分水嶺をなしていた。この海抜300mにも満たない低い峠なのに、多くの沢が複雑に入り組んでいる地形の上に、年中降雨がおおく、冬季は3mを軽く超える積雪と云う気候がもたらした気候を好むブナ林や杉林が群生していて、羽州街道随一の難所と呼ばれていた。この峠を挟む一帯は古くから林業が盛んで、特に天然秋田杉の名産地の一つとして知られており、昭和30年代頃までは、樹齢200年以上・高さ40m以上の秋田杉が数多く自生していた。今も峠路の周辺には日本三大美林・天然秋田杉(樹齢300年以上)の木立が保存されている。
そこで、この“矢立峠”の名前の起源を尋ねてみた。
それは、東北・蝦夷地(えぞち)の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残した江戸後記の文化人類学者と云われる菅江真澄(1754-1829)さんの著書である『筆のまにまに』に書かれている。
『元慶4年(880年)に、大館城主が津軽に軍を出し橘吉明を討伐し兵を引き上げる時、大杉の根本に弓一張矢一双を立てて納め置いた。その頃より、この杉を矢立杉と云う」という記述が、大館の郷の古記にある。』としている。平たく云えば『伝説によると、元慶2年(878年)に、秋田と津軽との境界を決めるために、矢を放ち杉の巨木に突き当たった。その杉を「矢立杉」と名付け、矢立峠の名称の語源となった。そのご、矢立杉は津軽藩と秋田藩との境界の標として、柵を設けて保護された。この古矢立杉は元禄年間(1688年-1704年)に空洞になり、大風に倒れてしまう。その巨株跡も次第に朽ちて、1748年(享亭3年)に杉株跡に囲いをし、1756年(宝暦6年)には株跡に若杉を植えた。この2代目の矢立杉は樹齢200年に近い太平洋戦争の末期に、伐採されてしまい現在もその株跡が残っている。切り株の跡には、3代目となる若杉が植樹されている。』と云うことになるだろうか。
この羽州街道は江戸時代に整備された脇往還の1つである。
一方、
江戸初期に設けられた五街道の一つである奥州道中(江戸−白河)の延長部分に当たる白川から仙台・盛岡お経て松前・函館に至る「仙台道」、「松前路」は、一般に奥州街道とも呼ばれた東北地方を縦貫するメインルートであった。この奥州街道と桑折宿(福島県)を起点とし、小坂峠(宮城県)を通って奥羽山脈の金山峠を越えて出羽国(山形県)の上山、山形、天童、新庄を経て院内峠から秋田藩領を縦断し、矢立峠から津軽藩入り、弘前から終点の陸奥湾を望む油川宿(青森県)で奥州街道に合流するのが羽州街道であった。しかし当時は、ここも統一した名がなく、それぞれ『「秋田道」、「碇ヶ関街道」とか呼ばれていたのだった。
この羽州街道の「矢立峠」の名を世の中に知らしめたのは江戸時代末期に起こった『津軽藩主暗殺未遂の相馬大作事件』の舞台としてであろう。この事件は江戸の昔かラ明治・昭和、そして平成に至る歌舞伎、講談、小説、映画、アニメや漫画に至るエンターテーメントの人気のテーマとなっているからである。その事件は津軽藩(青森県の西半分)と南部藩(青森県の東半分と岩手県)との怨念(おんねん)に根ざしている。そもそも弘前藩の祖である大浦氏は三戸氏と同じ南部氏の一族だったが、大浦為信は元亀2年(1571)に挙兵し、同じ南部一族を攻撃して津軽と陸奥湾岸の西半分を支配してしまった。そして豊臣秀吉の小田原征伐の時には南部氏に先駆けて参陣して、その功績で所領を安堵され、正式に大名になった。その後、両藩が幕府から命じられた「檜材(ひのきざい)」の供出に対する対応の違いから、野辺地西方にある烏帽子岳(標高 719m)周辺の帰属争いが紛糾してしまった。そこで両藩は、その仲裁を幕府に申し出たのだった。この山は地形的には盛岡藩に属していたのだったが、弘前藩は既得権益を証する書類を重ねて整えて仲裁する幕府と交渉して領地としての裁定を勝ち取った。これに対する地元民たちの憤激が「檜山騒動」として世間に知れ渡った。このような経緯から盛岡藩主・南部家は弘前藩主・津軽家に対して遺恨の念お高まらせて行った。さらに下って、文政3年(1820)に南部利敬が39歳の若さで死去されたが、これを弘前藩への積年の恨みによる悶死だとする噂が広がった。その混乱の中で、南部利用が14歳で藩主となるのだが、若さ故に未だ無位無冠であった。それに対して津軽寧親はロシアの南下に対応するための北方警備を命じられ、従四位下に叙任されたのだった。また、石高直しにより弘前藩は表高10万石となり、盛岡藩の8万石を越えた。盛岡藩としては、自分たちの家臣筋の“格下”だと一方的に思っていた弘前藩が、自分たちより上の地位に居ることが納得できなかった。このような背景から、江戸時代末期の文政4年(1821)4月23日に南部藩を脱藩した浪人の下斗米秀之進が相馬大作と名を変え、門弟3人と共に矢立峠で参勤交代で帰国を急ぐ弘前藩主を待ち伏せ攻撃を仕掛けて、南部公の積年の恨み(うらみ)を晴らしたと云う筋書きの歌舞伎や講談が演じられ大衆の喝采を博した。しかし真相は、密告によって危機を知った弘前藩主は今の五能線の走る日本海沿いの大間越街道を迂回して難を逃れたのが事実であり、しかも襲撃の場所は矢立峠より12kmも大館寄りの岩抜山付近であったと云うのだった。この暗殺に失敗した相馬大作は藩を出奔するが、後に幕府に捕らえられ、獄門の刑を受けた。それを知った出身地の南部では彼を神社に祭って忠臣とあがめたと云う。当時の江戸市民はこの事件を赤穂浪士の再来と騒ぎ立てたと云う。この風潮は平成の今も続いており、例えば、小説では直木三十五の『三人の相馬大作』(1989)、長谷川伸の『相馬大作と津軽頼母』(1988)、梶よう子の『みちのく忠臣蔵』(2009)、そして漫画では よこきけんじの『相馬大作』(1956)などが知られているからである。
また、『矢立峠』の名を世界に知らしめたのは、旅行記「日本奥地紀行」が1880年にイギリスのロンドンで刊行されたからである。これは世界的に著名な冒険旅行家である イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 1831- 1904)女史が昔の脇街道に代えて5年の歳月を掛けて明治10年(1877年)に開通させた青森と秋田を結ぶ馬車銅の矢立峠を明治11年(1878年)に訪れて、その印象記を書き留めていたのである。これは"Unbeaten Tracks in Japan"(直訳すると「日本における人跡未踏の道」)と題した旅行きであった。そこには、
『私は日本で今までみたどの峠よりもこの峠を誉め讃えたい。光り輝く青空の下であるならば、もう一度この峠を見たいとさえ思う。この峠はアルプス山中のブルーニッヒ峠の最もすばらしいところとだいぶ似ており 、ロッキー山脈の中のいくつかの峠を思わせる所がある。しかしいずれにもまさって樹木がすばらしい。孤独で、堂々としており、うす暗く厳かである。その巨大な杉は船のマストのように真っ直ぐにで、光を求めてはるか高くまで、その先端の枝を伸ばしている。薮になっているのは、湿って木陰の場所を好む羊歯類だけである。樹木はその香ばしい匂いをふんだんにあたり一面に漂わせ、多くの峡谷や凹地の深い日陰で、明るく輝く山間の急流は踊りながら流れ、そのとどろき響き渡る低音は、軽快な谷間の小川の音楽的な高音を消していた。…》
と賞賛していたのである。
それに昨今のことだが、奥羽本線の矢立峠越え旧線が消える直前の昭和45年(1970)9月21日には、NHKテレビの紀行ドキュメンタリー番組『新日本紀行』において、「三重連の峠-秋田・青森県境 矢立峠−」がテレビ放映されたことであろう。現在もビデオ版が販売されており、時には再放送さ行なわれている。この3台のSLが前に連結される前部三重連は実際の定期運航では見られなかったが、イベントとして形の整った三重連が催されたのであった。
さて、官設鉄道の奥羽北線が、この矢立峠ヲ越エたのは明治32年(1899年)6月に「碇ヶ関〜白沢 間」ガ開通シタ時デアッタ。ソノ際に白沢駅と同時に、陣場駅も峠の南山麓に設けられた。これらの駅は秋田県内で最初の鉄道駅であった。
ここは大館から矢立峠へ向かう街道に沿った最奥の急落であって、数件の民家が寄り集まって街道に沿っていただけの小集落で、宿場ではなかった。この陣場と云う地名は、戦国時代に津軽藩祖に当たる津軽為信が、大館比内への侵攻に備えて、この地に陣を貼ったことに由来しているとのことであった。
その駅は集落の南側の標高 173mの谷が広がった地点を選んで設けられた。その規模は二面のホームに三線を持った一般駅であった。その何十年後に、この羽越本線が日本海縦貫線の一環に組み込まれて、960噸牽引の直通貨物レッキャが運行されるに当たり、今までの大館〜弘前間の補機区間加えて、峠越え陣場〜碇ヶ関碇の間に補機を一台追加する仕業が必要となって、陣場駅構内に専用補機の拠点施設が設けられることになった。ここに陣場機関車駐泊所の駐機線、給水給炭設備、乗務員の宿泊所などが設けられた。しかし、機関車を転向するためのターンテーブル(転車台)は設けられたかった。従って専用補機のD51は大館方を向いた形で配属された状態で後補機として運用されていた。これは列車の求める運行速度が蒸気機関車の走行方向を前方に揃える必要性がなかったからだと云われている。それで、下り列車の後補機は逆向き推進が常の姿となっている。そして、陣場駅構内は昼夜をわかたずSLのざわめきが絶えない情景が見られた。
この日は、やっと峠での撮影を切り上げて陣場に駅に付いたのは午後も遅くなってからであった。斜光線となった陽光が降り注ぐ陣場駅構内では、立ちまわる機関車の足回りを明るく照らしてくれていた。そしてすっかり夕闇が消える頃まで構内でのスナップを続けたのだった。そんなに広くない構内なのに撮る方法によっては中々面白い情景が見られることを発見したはんにちであった。
確か、夕方5時半過ぎに上り特急「日本海」が陣場駅を通過していたような覚えがある。後補機にはDF50が付いていたと思う。
最後に大館駅から陣場駅までの沿線の様子を付け加えたので御付き合い頂ければ幸いです。大館駅を出ると米代川に別れを告げ、支流の下内川(しもないかわ)に沿うようになると両側に山が迫って来た。既に峠の登りは始まっており、水田の目立つ景色の中、国道7号線と一緒に徐々に徐々に高度を上げてゆく。
正面に立ちはだかるのは、矢立峠の西方にそびえる山山である。峠のある鞍部は、手前の山並みに隠れて見えない。やがて白沢駅を出ると岩抜山と城ヶ森の西すそとに挟まれて下内川に沿って国道7号線と奥羽本線が並行して山を越えてるところである。ここの複線化に際して、現行の
勾配が続く路線とは別に、勾配を10‰に抑えた迂回センを新設して下り線とする計画が昭和37年に完成している。
白沢駅をでて、間もなく上下線が大きく分かれた。左に分かれた線路は下内川を渡り松原トンネル(全長 2,404m)を抜けて、再び下内川を渡って従来の線路に寄り添って陣場へ向かっている。
この辺りが下り列車を捕らえるのにの格好な撮影ポイントとして有名となっているのも矢立峠への前哨戦とでも云えるからだろうか。
撮影:昭和43年(1968年)5月4にち。
〈「奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて」シリーズのリンク〉
350. プロローグ・日本海縦貫線の矢立峠越え
-後補機の付け替えのある碇ヶ関駅構内-
213. 矢立峠を登る蒸気機関車たち・碇ヶ関〜陣場
190. 積雪の見える矢立峠越・碇ヶ関〜陣場