自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて
190.
積雪の見える矢立峠越え
・碇ヶ関〜陣場
〈0001:bQ1211:陣場−津軽湯の沢、下り貨物〉
撮影メモ〉
陣場→津軽湯沢間で後補機の煙が見えているのが救いとなった下り貨物列車の勇姿である。
〈0002:bP21221:1494レ、碇ヶ関−津軽湯の沢〉
〈0003:bP30315:春の陣場駅発車〉
sl190.0003.です。
〈004:bP30355:矢立峠のどこかで〉
〈撮影メモ〉
前補機はD51 466号。平川の上流に掛けられた鉄橋を渡って居る所である後補機が飛び出してしまったのは残念。
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〈紀行文〉
私が最初の偵察手ヒナ訪問で不完全燃焼のまま時を過ごしてしまっていたが、奥中山三重連の最後が近づ昭和43年4月上旬のことで、その延長戦で奥羽本線の矢立峠まで遠征して偵察を試みた。春の遅い東北の北部では近い山々に未だ残雪が残っていた。
もう、SLを撮り始めて5年目に入ろうとしていた私でも、そこでの風景が地図で予想したよりも狭く、山と国道に挟まれるようにして走る単線の線路は邪魔者が多く、撮影ポイントを探すのに戸惑い続けた。特に長い貨物列車はD51牽引の後補機を入れると三輛という編成だったから、3輛のD51をフレーム内に納めるのに手こずったものだった。
ここでお目に掛けるのも“秀作”ならぬ“習作”の域を出ない作品であるが、私にとってかけがえのない積雪の見える矢立峠越えのぎょうけいである。
ここでは、今まで詳しく記する機会の無かった鉄道建設前後の道路の変遷について、時系列的に述べておきたい。本州の最北端に位置する津軽(今の青森県西武へ至る道筋は、奈良時代に都から東北地方を表す陸奥(むつ)国へ向かう東山路(ひがしやまみち)が宮城県から北へとむかっていたが、次第に北上して野辺地で陸奥湾岸に達していた。この道は時代が下る煮従って東北へ向かうメインルートとして整備され行き、中世頃までには津軽まで延長去れていたものと思われる。戦国時代になって東北地方の北部一帯が南部と云われて胃時代に、津軽が南部から離反分離独立した。その中心地はひろさきであった。この頃は津軽と南部との会計は険悪であったから、津軽では南部を通らずに都へ至る街道筋をもとめていて、最初に開かれたのが現は岩手県では津軽街道、津軽では南部道とよ呼ばれている路(現在の国道282号である。これは弘前から岩木川の支流である平川に沿ってさかのぼり、碇ヶ関村から奥羽山脈から西へ張り出した尾根を坂梨峠(標高 455m)を越えて秋田川の銅山で栄えた鹿角(かずの)を経て、さらに奥羽山脈の梨ノ木峠(標高 483m)を越えて現在の花輪線のルートを通って東北地方を縦貫する奥州街道へ出るルートであった。その時代には南部の勢力は未だ北部に限られていたからである。さらに時代が下がり、都からの北陸道の北への延長である羽越浜街道が越後(、新潟)からら山形を経て秋田へ、また羽州街道の前身に当たる道筋が「仙台道」(奥州街道)から分かれて山形を経て秋田へと通じていた。そこで碇ヶ関から秋田とを結ぶ道筋の開削しなければならない事態が迫ってきていた。それは南部の拠点が南の盛岡へ移る気配が生じて、今までの経路の通行に支障が出そうになって来たからであった。
実は、古来から矢立峠付近は道が通っておらなかった。そこを津軽藩は天正13年(1586年)に白神山地と奥羽山脈との狭い尾根筋に開けた鞍部、その標高が300mにも満たなに場所を見つけて、矢立峠を開いて明田側の羽州街道まで連絡させた。これを津軽藩では「碇ヶ関街道」と呼んでいた。この道は江戸時代には脇街道の浮州海道の延長部分となり、明治25年の国道開通まで利用され続けていた。
津軽藩では碇ヶ関村の先で、昔からの南部道(津軽街道)と「碇ヶ関街道との分岐点手前に「碇ヶ関御番所を設置して、厳しい監視を行ったと云う。
この「碇ヶ関街道」の通過する矢立峠の位置は、現国道7号瀬よりも西側を通る旧国道7号線(明治国道41ごう)よりも西に約200m寄った所を通過していたことが判っている。
明治に入って、街道の整備がおこなわれ、呼び名が各地ばらばらであったものを統一制定した。
例えば、5街道の一つであった江戸−白河の奥州路中、その延長上にある仙台道、松前堂は陸羽街道となった。ただ、良く使われる奥州街道はあくまでも通称であった。まら、仙台道から分かれた山形道、秋田道、碇ヶ関街道は羽州街道となっている。
明治時代になって四方の理事が積極的に街道の整備を始めた。政府は明治9年(1876年)に太政官布告によって、道路を里道、県道、国道に分類して、順次指認定する方針であった。このときの国道は全てが東京日本橋を起点として、一等国道、二等国道、三等国道に分けられた。そこで羽州街道は三等国道(東京から各県庁所在地とを繋ぐ路線)に指定されて、その幅員は五間(約9m)と定められた。
その明治10年(1877年)に開通したのは、に藩政時代の脇街道に代えて、青森と秋田を結ぶ馬車銅(明治新道)が5年の歳月を掛けて「矢立杉」の前を通らない場所に建設された。この道は羽州街道の峠よりさらに西へ200mほどの所を越えていた。明治天皇が東北巡行の際に通過されている。この道を羽州街道、昔からの道筋を古羽州街道と呼ぶ分けている。
その後、明治25年(1892年)になると新しいルートに新規格の国道が開通した。
やがて、明治18年(1885年)に国道の等級制が廃止されて番号制が取り入れられて、1から44までの番号が割り当てられた。この時に矢立峠に通じていた
国道は明治国道の41号」になった。この路は大正時代の道路法を経て国道7号線として改良されながら昭和36年まで使われていた。さらに部分的ルートの付け替えなどの改良をした現国道7号線に引き継がれている。しかし秋田側には急カーブが連続するけわしい路であったので、昭和40年代に抜本的な道路改良が行なわれている。
これに対する鉄道の建設ルートについては、峠の青森側の始まりである津軽湯の沢駅は標高約190mほとであり、ここから矢立峠のサミットを越えて5.8q先の秋田側にある麓が標高 約170mほどの陣場でと向かっている。このルートは峠越えに一つの隧道も設けなかった明治国道41号線にほぼ沿って、7本のトンネルとタ谷を渡多くの橋梁を掛けて通り抜経ている。この区間では、峠の両側に再急勾配の25‰の区間が数個所あるが、青森側は割に短くが、秋田側の1.5qが最も長かった。そしてカーブは最強半径300mであった。
このことから鉄道線路のサミットは国道のさみっとである標高 266mより少し低い位置であって、第4矢立隧道と第5矢立隧道の間にあった。
このように沢を渡り尾根をトンネルで抜けることを繰り返していたから、谷に掛かる橋梁を真横から撮るのは容易ではあったが、山からの俯瞰撮影は密生する巨木に視界をさまたげられて場所探しが難しかった。
ここで最後に古羽州街道を湯の川から陣場へのルートをたどってみたい。
先ず、津軽湯の沢駅近くの国道7号線から分れ右折して湯の沢温泉方面に向かう。ここに湯の沢の矢立峠下御番所跡があり、右奥へ進むと急な山道に入ってゆくが、ここから先には天然杉に囲まれた自然の中を道は通っている。やがて古羽州街道と明治10年(1877年)に開通した馬車路の明治新道との分岐点があり、古羽州街道は左折して徐々に高度を上げて行く。さらに進むと広場に出た。ここが矢立峠であって、標高258mとされている。
この真下は、現在の複線電化された新矢立トンネルが通過しているところである。
ここには「矢立椙」の古株が残っている。古来から、これが国境であって、北は津軽領、南が秋田領である。ここには江戸時代の旅行家でもあった菅江真澄さんの碑が建っている。また少し先に茶屋跡があって、津軽藩主が参勤交代の際の御休所(茶亭)の跡である。また、吉田松陰が「津軽藩主襲撃事件の首謀者である相馬大作をたたえた漢詩碑」も建っている。
ここから急坂が下内川の源流にそって下っていて、麓の陣場に出るまでは険しい山道であったようである。陣馬側には矢立峠入り口の碑が陣馬駅付近にある。やがて追分があって右が羽州街道(大館方面)である。
この峠は標高こそ低いが、深い沢が複雑にからみ合っていて、年中雨がおおく、冬の積雪は3mを越えると云う紀行がもららしているのであろうか、深いブナの
森どこまでも続く真に厳しい峠道だった。そして、矢立峠付近は、古くは矢立保護林として伐採を禁じられた天然秋田杉の美林であった。明治11年に明治新路でここを訪れた英国人ラ・バードが絶賛した天然杉はこれである。
戦後の復興用として伐採さ行なわれ、皆伐・人工林への転換により、天然秋田杉は国道筋の一部に残るだけとなった。
昭和43年に貴重になった天然秋田杉林の保護と矢立峠通行者、周辺温泉湯治客の憩いの場として、国道7号線の両側10haを風致保護林に指定して禁伐とした。現在は保護面積が拡大されている。
撮影:昭和43年4月6日
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〈「奥羽本線のD51、3台運転を訪ねて」シリーズのリンク〉
350. プロローグ・日本海縦貫線の矢立峠越え
-後補機の付け替えのある碇ヶ関駅構内-
349. 矢立峠越えの拠点、陣場駅構内の夕暮れのひととき
213. 矢立峠を登る蒸気機関車たち・碇ヶ関〜陣場