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・「渡良瀬渓谷の足尾線」
282.  渡良瀬渓谷の里山風景 ・足尾線 /沢入〜足尾

〈0001:2-7-1-6:小さな沢の鉄橋を渡る重連貨物、昭和41年10月〉
渡良瀬川に流れ込む多くの沢に


〈0002:2-7-6-1:山里の風景〉
群馬から栃木県へ入って谷が少し開けてきたようだ。長い編成

〈0003:2-7-2-2:沢入り橋を前景に、下り重連貨物列車〉
国道122号から山を下って渡良瀬川右岸に出ると、今は県道になった沢入橋が現れた。背


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〈紀行文〉
 今回は足尾線の沿線風景を眺めてみた。この路線は渡良瀬川にそった延長 46.0kmで、始発の桐生から標高 約640mの足尾駅を経て終点の足尾本山間の標高差 約600mを踏破する山岳路線であった。先ず、この沿線の地形を知るために渡良瀬川の両岸の地形を上流から足尾の町を通って流れ下る様子を展望しておこう。この“渡良瀬(わたらせ)”の名のいわれは、1200年の昔である奈良時代の終わり頃、後に日光を開山した高僧の勝道上人(しょうどうしょうにん、735-817年)が修験(しゅげん)の時代に、この地に分け入り対岸に渡ろうとしたが、谷が深く流れが急なので、困っていたところ、ようやく今の足尾町に近いところに浅瀬を見つけて無事に渡ることができたことから、ここを渡良瀬と名付けらと伝えられている。
さて、この利根川へ合流する延長 約123kmの渡良瀬川は群馬県沼田市と栃木県奥日光との県境にそびえる皇海山(すかいさん、標高 2,144m)の直下を源として、日本のグランドキャニオンと云われる松木渓谷となって東南に流れ下る。このけわしい谷の北側は中禅寺湖の南岸に沿った半月山(標高  1,753m)から赤倉山(標高 1,442m)などが連なっており、一方の右岸は足尾山地の主稜線上の県境にある庚申山(こうしんざん、標高 1,892m)を西端にして、オロ山、沢入山(標高 1,704m)、中倉山(標高 1,499m)などのピークの連なる中倉尾根がそびえていて、稜線からの北側は松木渓谷へ急傾斜で落ち込んでいる。やがて谷が広がりU字谷の底を流れ下る。この辺りが足尾本山の赤倉精錬所が設けられた足尾銅山の中枢があった場所である。さらに下り谷が狭くなって、右手の前日光山塊から流れ下ってきた神子内川と合流した松木川は渡良瀬川と名を改めて足尾の市街を南西に流れ下る。その東側には前日光の山並みが連なり、日光へ通じる細尾峠(標高 1,197m)から薬師岳(標高 1,483m)、そして夕日岳(標高 1,526m)が続き、田沼へ通じる粕尾峠(標高 1,101m)から思川の源である地蔵岳(標高 1,274m)を過ぎればへて田沼方面への緩やかな傾斜が続いていた。一方、北西の皇海山から南下する県境の尾根は庚申山、袈裟丸山(けさまるやま、標高 1,878m)などの山系が続き、その先で渡良瀬川西岸に出て、主脈はその西岸にそって次第に高度を下げながら足尾山地からは独立している赤城山の山麓に続いている。またこの主脈から分かれた県境をなす尾根は足尾の南端で渡良瀬川に分断されるが、その対岸から大萱山(おおがややま、標高 1,154m)を経て渡良瀬川の左岸に沿う安蘇山地へとつながっていて、この中核は桐生川の源流となっている根本山(標高 1,199m)であり、東南へはゆったりとした斜面が関東平野へと続いている。
この県境の峡谷を抜けて、群馬県に入った渡良瀬川の流れは、
後に完成した草木ダムを経て、南東に向きを変えて山峡を流れ下り、大間々の谷口集落を抜けると扇状地に出て、桐生市からは関東平野を南下して行く。
このこの足尾市街の西側にそびえている岩山は足尾山地手唯一銅を埋蔵していた備前楯山(標高 1,272m)であって、渡良瀬川に沿って中倉尾根へと接している。この足尾の町を西から北へと取り巻いている山々の姿はまるで標高 3千mを越る山々が見せるような荒々しい岩山の姿に驚かされる。この風景の一端は旅客列車の終点の間藤駅から北西の足尾本山へ向かう貨物線の沿線でも遠望されて、その荒涼さが人の手でもたらされたと聞くとやれきれない気持ちとなったものだった。
さて、鉄道に話題を戻そう。この足尾線を走る桐生機関区の4両のC12は動輪の“かたべり(片減り)”が激しいことで有名だそうだが、線路は右へ左へと急カーブを繰り返しながら、最大 33.3パーミルの急勾配を含む坂道の連続する中を多くのトンネルや橋梁を設けた簡易線規格であって、それにく落石や土砂崩れが頻発する災害路線でもあった。
桐生を出て間もなく両毛線から分かれて、左側から東武鉄道桐生線と寄り添うようになり乗換駅の相老(あいおい)、やがて渡良瀬川の谷口集落であって、この足尾線の中信駅である大間々駅に到着する。この辺りまでは渡良瀬川が赤城山の麓を削った土砂がもたらした広い大間々扇状地を進んで来たことになる。大間々駅を出発すると、列車は渡良瀬川に沿って高津戸峡、そして古路瀬渓谷と呼ばれる渓谷を進む。これから先は周囲を山に囲まれた渡良瀬川沿いの非常に狭い土地を「あかがね街道」の別称を持つ国道122号日光東京線と国鉄足尾線(現、わたらせ渓谷鉄道)が肩を寄せあって走っており、当時は国道は多く
は未舗装の悪路であった。やっと温泉の駅として知られるようになった水沼駅周辺の集落のある広がりに出た。さらに淡々と川沿いを走ると、集落は花輪、神戸(ごうど)と続くが、この先は渡良瀬川の川岸を離れて西側の山中の尾根を進んで県境を越えて、足尾の町が近づいてから再び渡良瀬川に沿うようになる。
 この神土(ごうど)駅は列車の交換や機関車の付け替えのための機回り側線を設けた二面三線のホームを持った拠点駅で、ここから足尾へ登る貨物列車には、補機が連結され重連仕業が行われていた。また、下りのSLは給水のために停車が長かった。
ここをでると線路は渡良瀬川のV字谷の谷底をクネクネと走る路線を22.2パーミルの急勾配で登って行く。この場所は現在草木ダムの底に沈んでしまった区間である。
そして渡良瀬川の本流を第一渡良瀬川橋梁で渡り草木駅、そして沢入トンネルを抜けると県境の大萱山 おおがややま、標高 1,154m)を源とする黒坂石川が作った谷の扇状地に開けた沢入集落にある沢入駅となる。ここを出ると、渓谷は白御影石の美しい川床が見られるようになる。この辺りは御影石の採石が盛んで、その積み出し駅でもあったようだ。
この沢入駅を出て原向駅までの5.3kmのほとんどが人家のない鬱蒼とした蛇行する渡良瀬川の左岸沿いを、それに合わせた急カーブと急勾配の区間に当たり、加えて落石多発箇所も数カ所存在する難所であった。その途中には坂東カーブと名付けられた国鉄最急カーブの半径 120mがあって、ここを通過する列車は30q/hの最徐行しなければならなかった。この名は民話「坂東太郎の伊勢参り」に出てくる「坂東太郎岩」が近くの川縁にあることからだそうだ。
そして、群馬と栃木の県境となっている尾根上にある大萱山 おおがややま、標高 1,154m)の西端の高い崖下を貫く笠松トンネル(延長 362m)を抜けると原向(はらむこう)駅となる。これから先は谷が開けて山村風景が楽しめるようになるようだ。この川の対顔を走っている国道122号からは県道15号鹿沼足尾線 が原橋を渡って谷を粕尾峠へ登って粟野を経て鹿沼に通じていた。
原向駅を発車すると、駅周辺と線路沿い集まっている平屋建ての民家の小集落を抜けて再び、山際の木立の中を真っ直ぐに走って行く。そして18‰の勾配を登りながら、大きく左にカーブをすると橋長が 105mの下路ピン結合プラットトラス 2連ー+ぷれーとがーたー 1連ノ第二渡良瀬川橋梁で左岸に渡って国道と並走するようになる。ここまで渡良瀬川本流を渡ったのは二回だけだったが、二連のトラス桁の鉄橋は、いずれもアメリカの著名な橋梁技術者であるクーハーの設計した“「クーパー形」の150ftピン結合トラス”であって、アメリカ・カーネギー社(現在のUSスチール社)から輸入した鋼材を使って、東京石川島造船所が制作したもので、国内初制作の記録を持っており、国の登録文化財でもある。
その先では川岸から離れて続した登り勾配が続くが、足尾の町に入ったらしく、工場や住宅、鉱山住宅などが散在するようになり、山裾を走るのでカーブは緩やかになってきた。やがて土手の上に出て視界が急に開けて右手は足尾の町中心部に近づいて来たようだ。左手下には足尾銅山の中信である通洞選鉱場を眺めながら、通洞駅を過ぎるとカーブと20‰の勾配を登り切って広い足尾駅港内へ到着した。足尾のシンボルの備前楯山の山裾側から鉄道関係の建物、数本の留置線がみえた。足尾駅は濃硫酸の積出と精錬所がある本山までの素材出発駅でもあって貨車の取り扱いは盛況であった。後方には濃硫酸の貯蔵タンクが設けられていて、タンク車の積載移動には小型DLが活躍していた。
早朝の重連貨物列車 791レが8時01分に到着すると、スグに前補機は切り離されて、しばらくの休憩となるのだが、残された本務機は足尾本山駅へ向かう貨物列車を4〜5輛の短い編成に仕立て直す作業に取り掛かった。本山までは勾配も更に増すので3両程度が牽引定数なのであろうか。
ここの旅客ホームは、先ず島式ホーム、次いで上り桐生方面のホームに接した駅本奥が渡良瀬川に沿った国道に面して東南を正面にして建っていた。
駅員の出発合図で間藤への列車はまもなく発車。この先は左カーブをしている名物のスプリングポイントを低速で越え、緑の多い住宅地の中を道路に沿って走り、再び登勾配に入り、第1松木川橋梁を渡って高い崖下の谷間にある終点の間藤駅に着いた。この先は貨物線がスイチバックをして足尾本山へ続いていた。
このサイトで掲げた3枚の作品は撮影ポイントを特定することが今となっては難しいので、沢入り駅付近から原向駅の先の第2渡良瀬川橋梁の手前までの間としておこうか。
この渡良瀬川右岸二素って明治28年に開通した足尾から沢入に向かう軌間 610oの銅山馬車鉄道が昭和20年代までガソリン機関車で運行されていたようで、足尾線のかいつうまでは、沢入から桐生の間の舟運が開かれていて銅の出荷が行われていたと云う。この軌道が山狭を抜けるための片トンネルの産業遺跡 「笠松片マンプ」が保存されていて、原向駅から訪ねることができるようである。

撮影:昭和41年10月。

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・「渡良瀬渓谷の足尾線」シリーズのリンク
138. C12重連を追って・足尾線/神土−草木
231. 桐生機関区のC12たち・足尾線/両毛線桐生駅
283. “あかがね”の故郷への道・足尾線/足尾−間藤−足尾本山