自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・大分水嶺「善知鳥峠(うとうとうげ)を越える」
274.  「大八回り(辰野経由)」ルートを行く ・中央東線 /岡谷〜塩尻

〈0001:1−10−6−3:伊那谷最北端の小野川の谷を登る〉


〈0002:1−10−−:中央線を跨ぐ蔵造川水路橋〉



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〈紀行文〉
 SLの写真を撮り始めた年の5月連休にワイフの実家のある松本平の西南端の山村を訪れていた。今まで電気式DLのDF50の重連が牽引する優等列車を除いては、重装備のD51蒸気機関車の独壇場であった辰野〜塩尻間が半月余りを残す1965年(昭和40年)5月20日に電化されることになっていたのだった。そこで慌てて塩尻−東塩尻(信)の間にあるオメガカーブ、それに小野−東塩尻(信)の間にある善知鳥(うとう)トンネル越えの撮影名所を撮って置かねばならぬとビギナーながら決心したのだった。そして、2〜3日に掛けて沿線をクルマで走り回って記録した成果の一部を「大分水嶺「善知鳥峠(うとうとうげ)を越える」としてまとめた。それは、「“大八回り(辰野経由)”ルートをを行く中央本線」・「ω(おめが)カーブを登る」・「善知鳥(うとう)峠と東塩尻信号場」の三つのシリーズでお目に掛けたい。 
 先ず最初に、この沿線の地形について概略説明しておこう。
この長野県の中央域では、日本列島を地質的に二分する二つの大構造線が交わっており、この線を境に両側の地質が全く異なっている。その一つは糸魚川−静岡構造線と呼ばれる大断層であり、これによって日本は東北日本と西南日本に分かれている。その間には大地溝帯(フオッサマグナ)と云われる裂け目の地域があって過去には海溝であったが、今は火山の噴出や河川のもたらす土砂の堆積、それと地盤活動による隆起運動などによって陸地となっている。もう一つの大断層はフオッサマグナを含めた西南日本を南北に内帯と外帯に二文する中央構造線であって、その地盤は主に地中深くに存在しているが、各地に露頭が発見されている。その東端は霞ヶ浦周辺、群馬県下仁田から西へ走り、南側の露出岩は埼玉県長瀞に、北側は筑波山に露出している。そして諏訪湖南方の茅野では露出がみられ、伊那山地と赤石山脈の間を南西に向かって中央構造線起因の谷が走っていて、そして紀伊半島から四国を経て九州へと向かっている。この二つの構造線が交差している箇所が諏訪盆地(標高 750−900m)と伊那谷(標高 700−400m)と松本平(標高 500−800m)が境を接している地域に当っている。
先ず糸魚川−静岡構造線の西東側は北アルプスと南アルプスの山麓が迫っており、それに対面する東側では北ぶでは筑北山地の隆起、南では八ヶ岳火山群による山脈の形成による松本平ら+諏訪盆地と云う構造性の盆地が出現し、土砂の堆積によりりくちかしている。この二つの盆地を分断するのが中央アルプスの北東端をなす山系が筑北山地と南アルプスに続く山地とY字条に接している。また、伊那谷は先に述べた中央構造線が明瞭に地表に姿を見せている地形なのである。
そして、松本平らと諏訪盆地の間には塩尻峠(標高 1,012m)があり、松本平らと伊那谷との間には善知鳥峠(標高 889m)と牛首峠(標高 1064m)があり、諏訪盆地と伊那谷の間には小野峠(標高 1,075m)、それに天竜川が峡谷を削って流れ下っており、杖突峠(標高 1,247m)も通じていて、多くの街道の交わる交通の要所でもあった。古代からの官道としての都から関東・東北に通じていた東山道(あずまやまみち)は美濃の国(岐阜県)から信濃の国の伊那谷を北上して善知鳥峠(うとうとうげ)を越えて松本平に下り信濃国の国府を経て関東へ向かっていた。この内の伊那谷を北上する道は後に三州街道(塩の路)となっている。
また、戦国時代には甲府から諏訪盆地を経て小野峠、次いで牛首峠を越えて木曽路へ抜ける竹田信玄の開いたみちが、後に初期の中山道となっており、その後江戸時代に入ると塩尻峠を直通する中山道に定着した。そして、鉄道の時代に入ると、東京と関西を結ぶ幹線鉄道の敷設には中山道ルートの建設が始められていたが、中部山岳地域は難工事が予想され、列車の運行上の問題も多い上に、工期、工費も、また完成後における列車の所要時間も、東海道に鉄道建設をした場合の比ではないとする報告がなされた。そして、この建設は中止となってしまい、替わって東海道線が実現した。その後東京・横浜から松本へ至る甲信鉄道が地元資本により計画された。そして、東海道線の御殿場から甲府を経て諏訪から松本へ至る鉄道建設の本免許を申請した。しかし、明治22年に甲府−松本間の免許が下付されたが、御殿場−甲府間は鉄道建設に不適であるとして免許が得られなかった。この明治24年の申請された諏訪−塩尻間のルートは、塩尻峠越えではなく、岡谷から天竜川に沿って辰野を経て善知鳥峠を越えるルートが採用されていた。これは最短距離であった塩尻峠超えでは、長大トンネルは建設の困難さとと蒸気機関車の運行への危惧のためふかのうだったから、多くのスイッチバックと山戴近くのトンネルで抜ける方式とせざるを得なかったためであると記している。(甲信鐵道の佐分利氏の「工学會誌、第111巻の論説「甲信鐵道」所載)
しかし、甲信鉄道が実現化しないうちに、1892年(明治25年)には国が建設すべき鉄道路線を規定した鉄道敷設法が公布され、その予定線33路線の中に
《中央線
一 神奈川県下八王子、もしくは静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ經テ伊那郡、もしくは西筑摩郡ヨリ愛知県縣下名古屋ニ至ル鐵道
一 長野県下長野、もしくは篠ノ井ヨリ松本ヲ經テ前項ノ線路ニ接続スル鐵道》
が規定された。さらに、これらは第1期予定線として決定されていた。
やがて1894年(明治27年)になると、天竜川に沿った飯田を経由しそこから恵那山をトンネルで抜け中津川に出る伊那谷ルートと、奈良井川・木曽川に沿った木曽谷ルートが競合した。沿線の人口や経済面を考えれば「すべてが山の中」の木曽谷よりも伊那谷のほうがはるかに勝っていたのだったが伊那谷から木曽山脈の恵那山(えなさん)を抜ける困難さがネックとなって、木曽谷ルートに決まったのであった。これにより岡谷から松本盆地の南端の塩尻を経由することに決まった。次の難題は、岡谷から塩尻へのルートの決定であった。当所、当局は最短距離である岡谷−塩尻間をを塩尻峠越えで抜ける案を推進していたようであった。先の伊那谷と木谷のルート選定の時に鉄道局長を務めていた伊那出身の伊藤大八(1858-1927)さんはこの決定に失望して、その後に帝国議会の代議士となり、せめて伊那谷の一部にだけでも中央線の駅を誘致するべく奔走したことは良く知られている。やがて、天竜川に沿って上伊那郡の辰野こ経由して塩尻へ抜けるルートに決まった。このルート選定では、当時も塩尻峠経由では、仮に長大なトンネルにした場合には両開口部の高度差が大きいこともあって実現不可能であり、一方の計画案では峠の頂上近くのトンネルと前後の急勾配、急曲線が不可欠で予算や工期、それに建設当時の蒸気機関車の性能運用面からは非現実的であるとの説も有力であったから、必ずしも政治家の“我田引鉄”だけで決まった訳でもなかろうが、地元ではこの遠回りの路線を「大八回り」と呼んで顕彰している。そして辰野回りの中央線は1906年(明治39年)6月に開通している。時代が下って、複線化が求められると、最新技術を駆使して岡谷塩尻間に長大な高規格の複線電化トンネルが実現したのは昭和58年のことである。
さて、昭和40年頃の岡谷から辰野を経て塩尻に居たる沿線風景を辿っておこう。
岡谷を発車して、天竜川を渡り、右側の川と左の山すそに挟まれて狭いスペースの中を蛇行しながら南下し、川岸駅に到着した。川向かいには街並みが見受けられた。川岸を発車後も狭い谷間が続き、辰野町に入って平出信号場を過ぎて、谷が開けて田園風景の中を走り、天竜川を渡ってしばらくすると飯田線との接続駅である辰野駅に到着する。ホームは長く、構内は広く、上諏訪機関区のC12が入れ替えに精を出していた。
ここまでに諏訪湖を源に谷間を下る最上流の天竜川を二度渡ってきたが、何れもアメリカン ブリッジ社製のトラス橋の古強者(ふるつわもの)であって、最初に渡ったのは第一天竜川橋梁であり、斜角下路ピン結合トランケートトラス形式の経間 62.,7m 1連であったが、1980年に架け替えられてしまっている。次の橋は第二天竜川橋梁で下路ピン結合プラットトラス形式の経間 46.9m1連であったが、これも1972年に架け替えられてしまったのは残念である。
辰野を発車すると右へカーブし、飯田線と分かれ、遠く西に位置する中央アルプス(木曽山脈)の経ヶ岳(標高 2,296.8m)に源を発して峡谷を下ってきて辰野の近くで蛇行する横川川(よこかわがわ)を二度渡って田園風景の中を走り、信濃川島に着いた。右手は山並みが迫っていた。この山並みは目指す伊那谷よ松本平らを分ける善知鳥峠から分かれた尾根続きの鶴ケ峰(標高 1,225mであって、山頂には「日本中心の地」と彫られた黒御影石の碑が建てられていた。その近くに、北・中・南の三つのアルプス、それに八ヶ岳の連坊を一望できる展望台が設けられていた。実はここは代理の地点であって真の地点は、ここから南東1qの山間が「北緯36度と東経138度の0分00秒で交差する地点、通称“ゼロポイント”の日本列島中信点であったが、全くの深い森林のの中であった。そう云えば、小海線の臼田駅の近くが「本中中心点」として国土地理院が選定していたことを思い出した。
242. 天狗と龍と・小海線高岩-馬流、竜岡城
 さて、信濃川島発車後はさらに谷が深くなり、木曽山脈から流れ下って来た小野川に沿って北上する。やがて長さ 16mほどの小野川橋梁を渡ると谷が開けて小さな盆地の中を右手の山裾から中央本線、国道153号(三州街道)、小野川の三つの筋が3並んで北上している。やがて街並みが現れると、ここは昔の小野宿の街並みであった。ここは昔からの宿場町で、江戸期以降は中山道の脇往還としての「三州街道」と呼ばれ、太平洋に面した三河(愛知県東部)の岡崎から伊那谷を通って、内陸深く信州の塩尻までを結ぶ「塩の道」であった。その初期の僅か13年間ではあったが三州街道を中山道が交差しており、大きく繁栄した時代があった。その往時を偲ばせる信州独特の本棟造り(ほんむねずくり)の大規模な民家が街道筋に3軒が現存していることで有名である。この特徴は、非常に緩い傾斜の屋根を妻入りに構えており、街路に面したその妻部は真壁造りと云う、桁が表面に見える造りになっており、雀おどしと呼ばれる棟飾りが屋根の頂点に付けられており、屋根の勾配が極めて緩いため間口は非常に広く、圧倒的な存在感であると云う。
やがて小野駅に到着した。
明治の終わり頃に中央線が通過することになったが、南の宿場町は駅の設置を嫌ったことから、南の宿場町、北の農村集落の二つの小野の境付近に設けられたのが、現在の駅である。従って、三州街道の小野宿へは南へ500mほど歩かねばならなかった。そして、駅前を通る国道153号線を跨いだ大鳥居のある賑やかな商店街の脇を抜けて、左手に小野神社の緑の森が見えた。さらに1qほど走ると、伊那と筑摩を分ける郡境となっている小さな水路の刈谷沢川を渡って辰野の小野から塩尻の北おのに入った。かっては、この小野川流域は一つの村であったのだが、天正19年(1591年)にこの地の支配権を巡って、飯田藩の毛利氏と松本藩の石川氏が争い、豊臣秀吉の裁定で境は善知鳥峠ではなく小野村が分割されたのだそうだ。
 駅前を過ぎて塩尻市に入るとはっきりとした登りが始まります。峠の割にはだらだらと登って行って中央本線がトンネルに入った少し先で太平洋と日本海の分水嶺の善知鳥峠となるはずである。その街並みが途切れると左手の山裾にまたもや神社が祭られていた。その向こうには「大芝山」「霧訪山」の緑の稜線が見え、そのなだらかな裾野が見えた。やがて辺りの人々の住まいの気配がなくなると央本線は右の谷間に入ってゆく。やがて土手が迫ってきて、古色蒼然とした3連の煉瓦造りの三連アーチの農業用水路橋の下をくぐると、先の方に善知鳥トンネルの入り口が見えて来た。
この橋は蔵造川(ぞうぞうがわ)水路橋であって、左手のからの蔵造川の沢水が線路へ流れ込むのを避けると同時に、農業にも活用する目的で中央線建設と同時に架けられた。全長は 26.5mあって、経間が3.7+3x6.1+3.7mの5連あーぢの煉瓦造りで、幅は2.3 mであったが、現在は両端のアーチ部が土手のなかに埋もれていて、中央部の3連あーちだけが見ることができた。私が撮った北側はコンクリート補強がされているが、南側は建設当時のままの美しい煉瓦積みが見られる。これは
国内で建設当時のまま現存している唯一の多連煉瓦造りの渡線水路橋として貴重であるとのことだった。これを知ったのは後の祭りで、この美しい煉瓦済の模様を撮り損なってしまったのは心残りである。
 トンネルを抜けると松本平を一望できる高台に出て、スイッチバック式の東塩尻信号場を通過する。その後は南側の山並みに張り付くような感じで蛇行しながら高度を下げて行く。やがて坂を下りきって塩尻大門の町に入ると、中仙道架道橋を渡って広い貨物ヤードと機関区を備えた塩尻駅に到着する。当時は、名古屋から到着して、松本や長野方へ向かう列車は機関車を後備に付け替えてスイッチバックで発車する廃線であった。
その後、1982年(昭和57年)には北方500mほど松本寄りに移転して、ここへ中央西線が接続するようになった。そして元塩尻駅は塩尻大門信号場として操車場や貨物列車の待機場として使われており、昔の中央西線は貨物用の短絡線として残っている。それで、塩尻付近にはデルタ線が形成されていることになる。

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・「大分水嶺「善知鳥峠(うとうとうげ)を越える」シリーズのリンク
176. 塩尻のω(オメガ)カーブを登る・中央東線/塩尻−東塩尻(信
275. 善知鳥(うとう)トンネル & 東塩尻信号場・中央東線/小野−東塩尻
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