自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |  
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

242.  「天狗と龍と」 ・小海線高岩-馬流、竜岡城

〈0001:24-10-3:天狗岩直下を行く 1〉
c56144号・小海線/高岩→馬流

〈0002:25-7-10:天狗岩真下を行く 2〉
0002:小海線/高岩→馬流

〈0003:25-8-1:天狗岩直下を行く 3〉
0003:小海線/高岩→馬流

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 昭和43年の夏の頃か、小諸近くの浅間山山麓にあるダイアサマゴルフ倶楽部で行われた職場のコンペに参加し、その帰り際に小海線の沿線を偵察したことがあってから時々通うようになった。ここでは、空に高くそびえる天狗岩と、山上から見下ろした龍岡城の話題をお届けしよう。
 随分昔から、五万文の一地形図「臼田」を眺めていて、小海線の線路のすぐ脇に天狗岩と云う巨岩が存在していることを知っていたから、迷わずに出掛けたことがあった。佐久平も中込の町を過ぎると曲川の谷が急に狭くなって来る。この辺りでは、西に蓼科山(たてしなやま、標高2,530m)、南を八ヶ岳の山々、そして北には噴煙を立ち昇らせる浅間山などの山嶺を仰ぐ標高 800m前後の八千穂高原地帯に入った。その佐久平の南端では千曲川は関東山地の西の山すそをを流れ下っていた。その千曲川の東岸(右岸)を走る小海線の駅で云えば、羽黒下(標高 740m)→海瀬→八千穂(標高 785m)→高岩→馬流(まながし)→小海(標高 865m)間の小海寄りのあたりであろうか。
 当時私の住んでいた埼玉県南部の和光市には川越街道と呼ばれる国道が貫いていた。この道は東京から小諸へ通じていた「二級国道254号(東京小諸線)であったから、小海線佐久平沿線を訪ねるには都合が良かった。ある夜明け前に和光市を出発して先ず埼玉群馬の境の神流川を渡り、下仁田から群馬と長野県の県境である内山峠(標高
 1066m)へのつづら折りの砂利道の悪路へ挑んだ。やがて佐久市の中込の市街に入ると直ぐに信濃川上へ通じる県道2号線の起点の交差点にでた。すぐに左折して町を抜けると、左の山際に沿って右にカーブしながら登ってゆく。そして小海線を踏切で渡り、やがて左手に八千穂駅を過ぎて、踏切を2度渡ってから高岩駅を見て集落の中をくねくねと抜ける。すぐに千曲川の土手下を進み、やがて線路を抜けて山側へ移ると目前に高い断崖を見せる天狗岩の直下前に到達したのだった。
 さて、今でこそ千曲川は堤防で巨岩から離されレはいるが、その昔、この巨岩の真下を激流がさか巻いて流れていた時代のことについて語り始めよう。かの奥秩父山地の奥深く武蔵(埼玉県)・甲州(山梨県)・信濃(長野県)の三県境に位置する甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)の山頂直下2250m付近の北斜面の森林地帯を源流とする千曲川は八ヶ岳、関東山地などを源流とする諸河川と合流しつつ北西に流れ佐久盆地(佐久平)から先で、北東方向に約90°方向を変え善光寺平へと流れている。この川が源流から標高1200mまで一気に下ると、いったん川上村で谷沿いに西へ流れるが、その先で八ヶ岳に突き当たるようにしてまた北へ向っており、この上流部での勾配は 7.3%と云う急流である。これは
200万年前から数万年前まで活動した八ヶ岳の溶岩が千曲川の流れを古い秩父山地に続く関東山地の西縁に押しつけたので、流れは谷間を刻んで流れ下って、佐久平へ押し出されるような地形となっていた。この八千穂高原から緩やかな佐久平へ流れ出す辺りは大洪水による川の流れが変化することが多かったようだ。
 ここで、ひとまず佐久と甲州を結んでいた街道の歴史を述べておこう。佐久から甲州へ通じる道は中世時代からひらかれていて東海地方からの善光寺参りや真宗からの富士講登山などの人々や塩・茶などや木材などの物流の経路として利用されていた。なかでも歴史の最も古いのは、「穂坂路(ほさかじ)と呼ばれた
信州峠(標高 1464m)を越える古道であった。この峠は奥秩父の主脈が信州と甲州の国境となって西へ連なる山脈上にあって、金峰山(きんぷさん、標高2,599m)と横尾山(標高 1818m)の間に位置していた。先ず佐久から千曲川の東岸を関東山地の山すそを南下し、群馬県、長野県境の赤火岳(あかびだけ、標高 1822m)を源に発して流下し千曲川へ合流する相木川にでる。この合流点には谷口集落としてできた馬流(まながし、現在の東馬流、小海線の馬流駅のあるところ)を通って、相木川の谷をさか登って馬越峠(まごえとうげ、標高 1606m)を越えて川上村へ下っていた。そして千曲川を渡り再び信州峠を越えて塩川沿いに甲州街道へ達する経路であった。
時代が下ると、信州峠に代わって、もっと西にある奥秩父山塊の最西端の飯森山(めしもりやま、標高 1643m)の西の中腹に位置する平沢峠(標高1450m)を野辺山高原から清里高原へと抜けるルートが開かれた。この飯森山は野辺山高原のすぐ東にあることから、一般的に八ヶ岳の一部と見なされることがあるが、噴火した時期は八ヶ岳よりもかなり古いじだいであって、山系としては奥秩父山塊に属しているのである。これは佐久から千曲川の東岸を南下し、相木川の手前の東馬流(ひがしまながし)から千曲川を渡って千曲川西側の八ヶ岳の裾野の台地の縁を、今の国道141号と同じ経路で韮崎へ下る佐久道であった。これが開かれた頃は穂坂路を川上口、佐久道を平沢口とよんでいたが、次第に平沢口がメインルートになってきた。
江戸時代に入ると脇街道の「佐久甲州往還」の宿場が整えられ平沢峠を越えてからは千曲川の西側を抜けて今の佐久市でアル野沢宿の先で千曲川を渡り岩村田で中山道と交差し、さらに北国街道の小諸に至るようになったのである。このように昔は千曲川の東岸を通じていたが、難所の多いことから西側に新道を整備したということになるのであろう。この古い千曲川東岸を通じていた古道のルートは長野県道2号線(川上佐久線)として今も生活路として生きている。
 ここから天狗岩に話を戻そう。この天狗岩の断崖を崖を通過していた佐久から甲州への古道での越えなければならぬ大難所の一つとして恐れられていたようだった。それは当時の千曲川の流れは東に曲がって天狗岩に突して激流が逆巻く岩場をなしていた。その断崖をあぜ道ほどの狭い所を蔓や木の根を掴みながらかろうじて 通行していたから多くの旅人が命を落とす難所であった。
江戸時代に入り、千曲川の流露の変化や、土木技術も進んで、佐久甲州往還のルートは千曲川の西岸側に開かれて移ってしまったが、その街道の上畑宿と海尻宿の中間にある馬流集落(今の小海町)から分かれて千曲川を渡り東馬流集落から、この天狗岩の棚橋を渡って羽黒下駅先の四ツ谷集落まで北上すると千曲川対岸にある佐久甲州往還の高野宿から分岐して抜井川に沿ってをさか登って十石峠(標高1,351m)から秩父へ抜ける武州街道へ合流する道筋として利用され続けていたようである。その後の宝永年間(1704〜)になると、この激流がさか巻く岩場は、地元村々の取水口となったことから、幾人もが命を落とすことが起こっていた。そこで村では、この崖道にげ「岩を穿(うが)って洞門(トンネル)を工事して欲しい」と代官所へ直訴したが聞き入れられなかった。およそ約100年後の文化14年(1817年)になってようやく設けられたのが、砕けた崖の割れ目に丸太を差し込み、その上へ板子を敷いただけの「棚道」が100間余の長さに架けられたのだった。この棚橋の下に水を通す樋を設けて上流で取水した水を下流の農地へ配るようになり、大正初期まで使われていたと云うのである。
さらに時代が下って、明治17年(1884年)に埼玉県秩父地方で起こった秩父事件の残党である困民軍がこの難所に目を付けて棚橋を盾に陣を張ったが、政府軍に殲滅された悲劇の歴史があったことから、この天狗岩の西南方に「秩父事件散華之碑」が建っている。
この秩父騒動とも云われた事件の背景を述べてみよう。江戸時代後期には欧米との貿易のための横浜港が開かれ、輸出の7割りは雪のように白い良質な日本の生糸で占められた。その生糸には、高い値段が付けられて買い取られ、主にフランスのリヨンに輸出されて行き、そこで高価なドレスに生まれ変わっていた。そこで、山間の地である秩父地方の養蚕農家では桑畑を拡大し、養蚕や製糸のための種や道具の改良のために金融業者から多額の借金をして設備を整えて、生糸を増産しつつあった。そのような時に、1882年(明治15年)にヨーロッパを経済恐慌が見舞ったことから、高価な絹織物物の生産に大打撃を与えてしまい、それが回り回って横浜での生糸の値段を大暴落させてしまった。繭価・生糸価の急落によって農民は大打撃を被り、借金の返済に苦しんでいた。そこで高利貸しの利子規制や、返済据え置きの請願を郡役所や裁判所に哀訴したが一切を取り合ってもらえなかった。農地の売却が相次いだことで、広範な土地が地主や高利貸しへと集まってしまい社会の不平をつのらせた。そして役人も警察官も彼等の見方ではなかったことが判ってきた上に、自由と民権を主張した自由民権運動がこの谷間にも拡まったこともあって、明治17年(1884年)に地域住民中心の世直し運動としての困民軍が組織され武装蜂起して秩父地方を選挙したのであった。この騒乱は次第に鎮圧されて、追い詰められた人々は志賀坂峠(標高780m)を越えて群馬に入り、更に武州街道(今の国道299号の一部)を十石峠(標高1,351m)を経て、ここも養蚕、生糸の生産の盛んな佐久平の馬流(まながし)へ侵入してきたのであったと云うのである。
 個々で掲げた写真の撮影メモを付け加えたい。この3枚は何れも、天狗岩の下を疾走するC56のショットである。
国道沿いの俯瞰ポイントもあるが、線路に近づいて覆い被さるような巨岩の断崖を背景に撮ることにした。
小海線を中込から来ると、高岩駅(標高:812.9m)を出て馬流駅(標高 841m)に近づくと、高岩と東馬流と云う集落との間に右手に、小さな山を半分に 割ったような高さ100mもある天狗岩が線路に迫って来る。この巨岩の真下の線路の走っている所が昔の千曲川の流れのあった所のようで、その南側は台地が拡がっていた。

さてここで天狗岩の素性について調べて見た。
今から2億年以上前には、本州の西側を西南日本、東側を東北日本との二つの島に分かれていて、その間はフオッサマグナと云われる大地溝帯となっていて海であったと云う。そして今は西南日本に当たる日本アルプスの山脈は大部分が5億5,000万年前〜6,500万年前の中生・古生層であるのに対し、フォッサマグナに当たる部分の大部分が2,500万年前以降の堆積物や火山噴出物などで埋め尽くされて新第三紀層・沖積層・洪積層となっている。そして、その西の縁は日本アルプスの山々の東縁に当たる糸魚川-静岡構造線に沿っていることは良く知られている。しかし、その東縁に付いては多くの説があって定まっていない。その背景には、フォッサマグナ南部の関東山地(長野県南東部・山梨県・埼玉県西部・東京都西部・神奈川県北西部などの秩父山塊など)に西南日本や東北日本と同じ年代の地層を含む山塊がぽつんと取り残されて存在していたことから、混乱が生じていたことがある。今は、この山塊はフォッサマグナが開いてから再び閉じる間に西南日本か東北日本から切り離されて、フォッサマグナの新しい地層とともに圧縮され一体化したものと考えられるようになった。
 ここで云う“関東山地”こそが、千曲川の東岸に迫っている天狗岩などの一帯の山々なのである。それに対して西岸は八ヶ岳から流れ下ってきている比較的時代の新しい火山噴出物で覆われてにるのである。
さて、その古い岩の代表が二酸化ケイ素(SiO2、石英)を主成分とする堆積岩であるチャートでできている天狗岩である。ャートはこの地域には多く分布しているが、この天狗岩ほど大きな塊は珍しい。このチャートは2億年前の南の海で育った海中の珪藻や放散虫などの生命の残骸が固まったものであり、はるか海洋プレートに乗って南の海からやって来たことになるのだろう。
 さて、ここからは付録としての“竜岡城跡”の話題に入ろう。
 実は、私はかって「城好き」の端くれで、大類伸著の「日本城郭史」などを読んでは、近くの城跡探訪に時を費やしていた時代もあった。その昔小海線の臼田駅の隣の「竜岡城駅」で下りて、近くにある五稜郭式の龍岡城跡を訪ねたことがあった。城の名前は「龍岡城」なのだが駅名は「竜岡城」になっているのが気になった。今度こそは裏山に登って星の形をした龍岡城を見下ろしながら、あわよくばC56の牽く列車も一緒に撮りたいと思っていたのである。
竜岡駅から東南へ約1.5kmほどの所で、僅かに坂を登った標高717mの台地上に龍岡城は築かれており、その東北0.75kmにそびえる標高 881mの山には戦国時代の田口城と云う山城の跡が残っていて、そこへの山道が付いていたのであった。きつい登りの途中では良い撮影ボイントは容易に見つからず、星の形も空撮のようには行かなかった上に、列車も撮りそこなってしまった。そこで【五稜郭であい館に展示されていた空撮写真を末尾に展示させてもらった。
 終わりに、昔覚えた城郭学の一端を述べさせていただく。
この龍岡城は一辺が約150mの五角形に、その五つの稜堡(突き出し部)を設けた星形のフランス流の稜堡式築城設計をフランスの築城家ボーパンが行った近代城郭であると云う。城全体の大きさは300×300mほどで、塁の外側は 3.4mの高さの石垣で土留めし、その上に高さ 1.2mの土塁も盛る。堀幅は4間(7.2m)で、堀は西側はないが、幅8mの水堀をまわしている。石垣はきれいな亀甲積みで隙間がなく、そりを持たせている。何れにせよ城と云うよりは田野口陣やの新築と云うほどの規模である。
これは慶応3年(1867年)に信州に一万二千石、三河に四千石を有する三河奥殿藩の藩主 松平乗謨(のりかた)によって築かれ、地字名から龍岡城と称した。藩名も田野口藩から竜の藩とした。さらに翌明治2年には版籍奉還となり、大給乗謨も藩主から龍岡藩知事となった。その後廃藩置県となり龍岡藩は廃止され、明治5年(1871年)に廃城となって僅か4年の現役を終えた。今は堀と石垣を主とした国指定の史跡となっている。
このような城郭が、山間の盆地に幕末も押し迫った文久2年(1862)に築かれたのはいかにもふしぎである。それは、参勤交代の緩和による江戸屋敷の縮小、それに本拠地を三河奥殿から信州佐久への移転のため陣や規模の新城の築城を幕府から許されたからであった。その背景には、藩主 松平乗謨は洋学を積極的に取り入れたほか、崩壊間近の幕閣にあって、老中格・陸軍奉行・陸軍総裁の要職にあり、フランス陸軍の兵学にも精通していたから、これを機会にフランス式築城を実験的に試みて築城技術の習得を狙った物と推察されるから、その築城資金の調達も幕府から出ているのかも知れないなどと夢想している。なお、この城の詳細は他のさいとをご覧下さい。

〈0004:龍岡城の航空写真から〉
国土地理院ノ俯瞰写真から作成(龍岡城

…………………………………………………………………………………………………
・「小海線のC56」シリーズのリンク
243. フオッサマグナを走る八ヶ岳高原線・小海線/岩村田〜小海
241. 八ヶ岳高原号が行く・小海線/小淵沢→甲斐大泉
  244. 佐久平から野辺山高原へ・小海線/小海−清里