自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |  
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

・大分水嶺「善知鳥峠(うとうとうげ)を越える」
275.  善知鳥トンネル  &  東塩尻信号場 ・中央東線 /小野-塩尻

〈0001:1-12-6-5:東塩尻信号場での発車風景〉
引き上げ線から善知鳥トンネルに向かって発車する上り貨物列車で

〈ン0002:下り松本行きの列車の車窓から、松本平を一望〉


写真典拠:車窓からの松本平俯瞰(ふかん)写真
「ライム」さまの『乗り鉄』中心ブログ(踏破編)の中のイメージ8
http://blogs.yahoo.co.jp/s_limited_express/archive/2012/1/17
転載の許可を頂いており、厚く感謝申し上げます。

〈0003:1−12−1−4:切り通しを駆け登ってトンネルへ向かう重連貨物列車〉


…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 最後に、中央東線の塩尻のωカーブを登り詰めて (仮) 乗降場でもある東塩尻信号場に停車し、そして善知鳥(うとう)トンネルを抜けるまでの沿線情景をまとめた。この辺りの
地形については前サイトに記したので、ここでは乗り鉄を試みた。
塩尻駅を出て、昔の街道に沿って上中下の三つの集落が連なる西条の村落を左手に見下ろすように大きなカーブを切りながら次第に高度を稼ぎながらリンゴ畑の広がるωカーブを登って行く。いよいよ大カーブが尽きて方向を転じて、南にそびえていた中央アルプスの主稜線から東北に張り出している洞の峰のある尾根の下を三嶽トンネル、続いて寺山トンネルで抜けて崖の上に出た。ここは善知鳥峠の真下にある善知鳥トンネル北口との間の山腹に設けられたX字状の通過可能なスイッチ バック方式の東塩尻信号場で、標高は 811.7mの高所であった。この小野に向かう上り普通列車は、シーサス クロッシングを渡って右手の山側にある「本線(着発線:有効長 309m、連結総両数35両、客車収容車数15両)に突っ込んだ。ここは中央本線の輸送力増強のために 1939年(昭和14年)に塩尻−小野間 9.4qの中ほどの山中に設けられた信号場であったが、1949年(昭和24年)10月になって、信号場のある崖の麓に散在する上西条集落の人々の請願に応えて開業した(仮)乗降場であって、客車一輛分の短いプラットホームを備えていた。上西条の集落から駅のホームへの歩道は急坂が続く細道で、信号場の下り引き上げ線が敷かれた盛り土の築堤の下をトンネルでくぐって、寺山トンネルへと下ッテ行く本線を寺山踏切りで横断して左折し、発着線から分岐している引き込み線の脇を通ってプラットホームへ通じていた。
蛇足だが、この「仮 乗降場」とは正規の駅に対して、文字通り"仮”に設置された駅の1種であって、運賃計算上の「キロ程」設定がなく、各鉄道管理局独自の判断で設置できるものである。ここで乗降するひとはそれぞれ塩尻、または小野までの運賃を払わなければならないのだった。
 それに、昭和23年になってから約5年間の短い間だったが、近くの石灰石鉱山から採取した石灰石を塩尻駅に隣接した昭和電工塩尻工場へ出荷する専用線貨物の取り扱いが行われていたようで、その当時は発着線プラットホーム付近に積み出し用設備があったと云う。それに、そのための貨車の引き込みや引き出し、積み込み、連結作業などのための引き込み線が発着線から塩尻方へ分岐して約200mほど伸びていたという。現在も名残りとして、その一部が保守用車両の留置線として利用されていた。
 ところで、この信号場の南上方に当たる善知鳥山から西の大芝山一帯には厚さ16m二も達する結晶質の石灰岩層が古生代の地層の中に挟まっていて、江戸時代の昔から白壁の漆喰(しっくい)などの建築材料に利用するために採掘さてて来ていた。2万5千分の一地形図を見ると善知鳥峠の近くの善知鳥山の山中には採石場のマークが多数並んで記載されていた。これらは約3億年前に現在の太平洋中部の赤道付近の生物遺骸の堆積したものが、地殻の移動により徐々に北西方向に動いていき、大陸の地殻との衝突により隆起して、塩尻の山中に現れたとするロマンに満ちた石灰岩の生い立ちが語られている。ここから積み出された石灰石は土壌改良剤となって利用されていたとのことだった。
 この信号場でも列車を交換する際には、列車が必ず本線に入った後に交換することになっていた。やがて、上りの普通列車はバックでクロッシングを渡って松本平を見下ろす崖の上に延びている「折り返し線(引き上げ線:有効長 375m、連結総両数43両、客車収容車数19両)」に入ってから、発車の信号を待つことになる。やがて、再びシーサス クロッシングを渡って、前方に坑門が見せている善知鳥トンネルに向かって発進して行く。
この辺に本線と着発線の下には古びたレンガ積みの暗渠(あんきょ)が設けられていて、水音を響かせて山からの清冽な河川水が流れ下っていた。そう云えば、この峠一帯は湧き水の多い地域なのだそうである。この先で左手の車窓には雄大な北アルプス連峰を背景に開けた松本平が一望できた。この眼下の左からは塩尻市街が集まり、その右手には塩尻峠を源に流れ下ってきた田川の回りには豊かな水田が一面に広がッテイタ。
この善知鳥トンネルは全長が1652.6mもあるのにいっちょすせんであって、東塩尻信号場から小野側の出口の明かりがみえるのであった。トンネルから切り通しを抜けると、明るく開けた小野盆地へと下って行く。
この松本平南端の塩尻に鉄道が来たのは1902年(明治35年)のことで、信越線の篠ノ井から松本を経て建設中の中央線(東京−名古屋間)との連絡を目的に延伸してきた中央線(今の篠ノ井線)の終点である塩尻駅の開業であった。その年の7月に中央線の辰野ー塩尻間にある善知鳥峠を貫くトンネルの起工式が行われ、塩尻と北小野の両方向から着工した。この北小野側は地盤が粗悪軟弱で勇水に見舞われ、掘削工事でで犠牲者も出たようであり、その慰霊碑が小野神社に建てられている。また近傍の田畑にも被害を及ぼして訴訟が起こったりした。
この4年間の難工事を請負って見事に完成させたのが、この年に鉄道局建設課長を辞して自ら土建業に身を投じて菅原工務所を設立した菅原恒覧(つねみ)さんであって、最初の請負工事であったが下請け人には中央線の笹子隧道の経験者であった神谷伊八、儀八なに担当させて完成し名を選げた。その後丹那トンネルなど多数の工事にもかかわりながら、鉄道土木業界の近代化に尽くした明治の鉄道先人の一人として知られている。
ところで、小野側の出口には「排煙所」がもうけられていて、大きい扇風機で風を送って煙を塩尻側に流していた。ここには10人近い国鉄職員が勤務していたそうだ。
  私の訪ねた昭和40年頃の善知鳥峠越えの国道は二級国道とは云っても、明治時代に県道として開かれた馬車道を幾分拡幅した程度の砂利道であって、つづら折りの道が急斜面に31ものカーブがあったと云う、文字通り難所であった。いまなら、改良された国道からよくよく観察して峠道を走っていると、かつてのカーブ部分がまるで三日月湖のように左右に残っている区間が観察できるからである。
春浅木頃の峠は、山陰で日当たりの悪いカーブには残雪や凍った雪が残っていてなんしょであったことを覚えている。
 さて、塩尻駅のある大門から東へ2キロメートルほど塩尻峠に行った所が塩尻宿の街並みが続いていて、伊那谷へ抜ける三州街道は塩尻宿の西の外れで中山道から分かれて
金井集落を過ぎて田川を渡り、上西条を経て急斜面をひたすらつづら折りの道で善知鳥峠を越えて北小野から小野宿へと句だって行くのであった。
この峠の特徴は塩尻側の斜面がおそろしく急なのに対して、小野川はゆったりとした地形であった。
一般的に、流域が隣接する2つの河川がある場合、両河川の間で河床勾配、流量などに大きな差があり、一方の河川の浸食力が著しく強い場合に、河川争奪と云う現象がが発生しやすい。そして、奪う側の河川の谷頭が上流へ浸食して分水界を後退させていく。そして、奪う側の谷頭が隣接河川の水系に達すると、そこから上流の流域をすべて奪うこととなる。 浸食する河川が浸食される河川まで達していない段階では、分水界は稜線上に あって、切り立った嶺や厳しい峠となっている。しかし、浸食の進行にともなって、隣接河川の形成する谷の中に 奪う側の谷頭が入り込んでしまう。この分水界の形態を谷中分水界(こくちゅうぶんすいかい)と呼んでいる。谷中分水界は、今まさに河川争奪が行われようとしていることを表している。河川争奪が起こると、奪う側では急勾配の谷が形成されるのに対し、奪われる側では比較的平坦な地形となることが多い。
こうした地形を片峠または片坂という。河川争奪が発生する前に、奪われる側の河川が幅の広い谷を形成していたが、河川争奪により上流域を奪われ、河川規模が小さくなることがある。
この場合、小さな河川規模にもかかわらず幅の広い谷が残存することとなる。
このような地質学の説明が当てはまりそうな善知鳥峠は、塩尻側が日本海に注ぐ信濃川水系の田川であり、小野側が太平洋へ注ぐ天竜川水系の小野川である大分水界の地形なのであった。そして、谷中分水界となっていた峠の辺りは、「水のわかれ」と呼ばれる湿地帯だったようで、大正のころまでは、水量も豊富であって、湧き出た水は北と南に流れ出していた。ここは標高 989mの峠であった。それに峠の北の麓の上西条にある「強清水」と南の麓の「志げ沢清水」は、とても貴重な湧き水であったと云う。
その後の1971年(昭和46年)になって、国道153号として大規模な道路改良が実施されて、ヘアピンカーブはなくなったが、6.8%の急勾配線となり、北側部分には登坂車線が設置されて、大型車や冬期間の登坂にとっては相変わらずの難路のようであるが、峠の頂上の様子は様変わりとなってしまっている。
さて、ここからは地名考にはいろう。先ず、古くは「うとう」とか、「宇藤」と記されていて、「善知鳥」と書かれるようになったのは明治以降のことのようであると云われている。その「うとう」の語源として、この峠は昔、峠の北側が急傾斜で、掘割状であったことから地形による空洞(うとう)から来たと云う説が有力であるとのことだった。
一方に、海鳥の名からの伝承や、謡曲(能楽)の演目の中にも「善知鳥(うとう)」が創られている。
先ず、「うとう」のアイヌ語源説がある。「ウトウ」と云うのはアイヌ語で「突起」を意味している。この名の海鳥は北の海に住み灰黒色で、大きさは鳩くらい。生殖の時期には上嘴に角状の突起を生ずる。ことから鳥の名となったとされる。
伝説によると、『猟師が北国の浜辺で珍しい鳥の雛を捕らえ、息子を伴い、都に売りに行った。
 親鳥はわが子を取り戻そうと「ウトウ、ウトウ」と鳴き、猟師の後を追い続けた。
 やがて猟師親子は険しい峠道に差し掛かり、さらに激しい吹雪に見舞われた。
 吹雪のなか無理に峠を越えようとする猟師に、親鳥もなお追い続ける。地元の村人たちには吹雪の中ずっと「ウトウ、ウトウ」と鳴き続ける鳥の声が響いたという。
 やがて猟師は激しい吹雪のなか力尽き、峠を越えること叶わず、その地に果てた。
 吹雪の収まったあと村人たちが峠に出ると、泣きじゃくる息子とわが子をかばように覆って死んだ猟師の姿があった。
 またすぐ脇には、同じように鳴き続ける雛鳥と子をかばうように覆って死んだ親鳥の姿もあった。
 どちらも、命を賭してわが子を吹雪から守ったのであった。
 村人たちはその鳥が善知鳥(ウトウ)であると知って猟師とともに手厚く弔い、その地を「善知鳥峠」と呼ぶようになったという。』
また、世阿弥作の謡曲の『善知鳥(うとう)』の筋書きでは、その後に善知鳥は化鳥となって、この猟師をさいなむと云うのである。
善知鳥(うとう)という地名はしばしば見かけることがある。例えば、青森市は昔、善知鳥村だと呼ばれていたと云うし、近くの浅虫温泉の近くには国道4号線に「善知鳥トンネル」が存在している。また、
長野県内にも「うとう」の地名もすくなからず存在している。
そして、「海鳥」の居ない「長野県塩尻市」の「善知鳥峠」は、「うとう峠」と云う地名があったところに、後から「謡曲」などの「善知鳥伝説」が影響したとする形で、善知鳥」と云う字を当てたのだとする説が定着しつつあるとのことだ。

撮影昭和40年5月2−3日

……………………………………
・「大分水嶺「善知鳥峠(うとうとうげ)を越える」シリーズのリンク
274. 「大八回り(辰野経由)」ルートを行く・中央東線/岡谷〜塩尻
176. 塩尻のω(オメガ)カーブを登る・中央東線/塩尻−東塩尻(信