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・「小海線のC56」
 244. 佐久平から野辺山高原へ・小海線/小海−清里

〈0001:「バカチョン橋」と呼ばれた清里−野辺山間の鉄橋〉
清里→野辺山 間の境川橋梁を渡る八ヶ岳高原号:昭和45年11月撮

〈0002:25-7-12:信濃川上でのカラ松林を背景に〉
秋になれば唐松の紅葉がうつくしいのだが。信濃川上付近にて、:47-9-10撮

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〈紀行文〉
この小海線シリーズの最後は八ヶ岳高原を縦断する小海線の情景である。昭和40年代の初めの頃だったと思うが、塚本和也さんが『高原のポニー「C56」』と題する写真展を開かれてから一躍小海線が脚光を浴びるようになった。私に強い印象を与えた写真は「赤岳や横岳をバックニシた八ヶ岳高原を流れ下る大門川に架かる大門沢橋梁を渡って行く高原列車」であった。それからはなかなかこの情景を撮る気にはなれなかったことを思い出す。それでも、小海線からC56の姿が消えない内にと思い立って“八ヶ岳バックの高原列車”だけを撮りに出かけた。この頃は既にエクタクロームを使いこなせるようになっていたので、秋の爽やかな高原の色彩は再現できたととに満足して、この先は佐久方面を狙うことにした。この時の製かを最初に掲げておいた。欲張って北八ヶ岳連山を全て入れることに成功した。深田さんの日本百名山によると、八ヶ岳の“八”は沢山の峰の意味であると云うから敢えて山の名前を付け加えることはやめにした。
 ここでは、小海から清里に至るハイライト区間を取りあげた
この区間は不思議なことに江戸時代の脇街道である佐久甲州往還とほぼ並行している区間でもあり、前身の佐久鉄道が小海から南へ中央本線竜王駅まで延伸を構想していたルートとも一致していた。ここでは佐久平から八ヶ岳高原へ旅することとしよう。この佐久盆地)の中信町である中込から国道141号を南へ向かうと、右手の北八ヶ岳の山すそに拡がる標高 800m前後の八千穂高原が迎えてくれる。その北八ヶ岳連邦の茶臼山辺りを源とする大石川が千曲右岸に、
また群馬県境の赤火岳から流れ下る相木川が左岸に合流するようになると、この辺りから左側に見える千曲川の谷が急に狭くなって来て、その河原には大きな岩がゴロゴロしているようになってきた。その
右岸の関東山地は古い時代の岩石で、左岸は八ヶ岳から流れ下ってきている比較的時代の新しい火山噴出物でできていて、全く対照的な地質なのであった。
小海線は中込からも千曲川の東岸と関東山地の山すそとの間を南下して、その相木側の千曲川への合流点に生まれた渓口集落である馬流(現在の東馬流)を通って小海駅まで佐久鉄道が大正の初めに開通していたのであった。ここでは国鉄が建設した小海線の起点である小海駅から清里までの沿線風景を訪ねてみた。
小海駅を出ると間もなく初めて千曲川を横断する。この小海(標高 865m)→ 松原湖→海尻→信濃海ノ口→信濃広瀬→信濃川上(標高 1135.3m)の間の約17kmは蛇行して流れ下る千曲川の急流が刻む狭い谷間を、本流に7本、支 に53本もの鉄橋と、5つのトンネルを築いて、上流部の川上駅まで千曲川に寄り沿ってさか登って来た。ここの南は奥秩父山塊の主脈である甲武信岳、国師岳、金峰山、横尾山などに、西は八ヶ岳の広大なすそ野、北は南牧村・南相木村との境をなす奥秩父山塊の支脈に囲まれた標高 1,000mのささやかな盆地である。もうここまで来ると佐久と云うよりは奥秩父の峰に面した甲州と云った風情である。この川上村はを国道141号は通っていないが、海ノ口の先で川上村へ通じる県道58号線(南牧村広瀬線)が分岐しており千曲川を渡って広瀬集落から標高差100mほど登ると大蔵峠(標高 1,200m)を越えればよい。この峠は
海線のトンネルの上を越えているので、谷間を行く小海線の列車を俯瞰できるのは楽しいかぎりである。
  さて、信濃川上駅をを出て、しばらくすると線路は右にぐっとカーブして西に転じ、野辺山が原を目指して登って行く。この間の地形は、昔は佐久平を悠々と流れ下っていた千曲川が新たに西側で噴火した北八ヶ岳の山々からの溶岩や火砕流によって古くから或関東山地の山裾に押しつけられて深く刻んでできた峡谷なのである。この間に本流に架かっている7本の鉄橋はいずれも構造が最も簡単なプレートガーター形式のスパン(橋台や橋脚の間の距離)のサイズが短い方式で作られているのは、千曲川が浅く、河床部に橋脚を造りやすい地質であったからである。例えば小海-松原湖間で千曲川を斜めに横断する橋長 113mの第7千曲川橋梁では鋼プレートガーダーがスパン長さ 3x19.2+31.5+22.3(m)の5連で構成されている。従って開業当時には大トラス橋にはお目に掛かれなかったが、1981年に海ノ口−海尻間の湯沢橋梁が長さ62.4mのトラス橋に架け替えられたのが唯一となった。また、トンネルでは佐久広瀬−信濃川上間にある切岨(せっそ)トンネルの最長 709mを含めた5箇所が集中している。
ところで、このようにけわしい山間部の区間に“海”の字の入った駅名が三つも現れるのには何か理由が有りそうだ。
 今から1100年余り前の平安時代の88年と翌年(仁和 3-4年)のこと、北八ヶ岳で大暴風雨や水蒸気爆発、火山性地震などにより山体の大崩落が起こった。この時に発生した土石流が千曲川やその支流を堰(せ)き止め、小海町一帯に大小10数個の湖沼群を出現させた。それは天狗岳(標高 2,646m)の東側斜面の大崩落による土砂は「大月川泥流」となって、先ず大月川に沿って窪地を埋め、松原湖などを作りつつ流れ下った。この大泥流は、千曲川まで達すると、さらに下流の千曲川とその支流の相木川の合流点まで進んだらしい。その天狗岳東麓を流れ下る大月川が泥流によりせき止められて生まれた多くの「せき止め湖」がある。今も残っている湖は松原湖や松原湖沼群と云われる(猪名湖・長湖・大月湖など」の7つの湖である。一方、千曲川本流をせき止めて生まれた巨大な湖も出現した。それは、湖に千曲川が流れ込む場所が「海ノ口」で、そこから反対の湖の流出する場所の「海尻」までは2,4kmもある大きな湖「南牧湖」であったようである。また、千曲川の支流で、現在の小海駅の北方の東馬流で千曲川の右岸(東側)に合流する相木川をせき止めて生まれた湖があり、これは「小海湖」と呼ばれたと云う。そして、それから120年を経た平安時代後期の1011年(寛弘八年)大きい方の湖が大決壊し、千曲川の下流を大水害をもたらして消えたと云う史実があるのだが、一方の支流の小さい湖は、いつ消えたかは不明である。そして、平安時代には「湖(みずうみ)」と云言葉は使われていなかったらしく、湖も海も「海」と呼んでいたことから、“海”付く地名が残ったと云うのであった。
さて、海ノ口からは一直線に野辺山へ向かう国道141号とは別れて、千曲川に寄り添って大きく秩父山地側を迂回するような形で千曲川上流の僅かな谷間の盆地の川上駅を経て向きを西に変えて八ヶ岳のすそ野を野辺山が原に向かって登り始める。再び国道141号線が右から近づいてくると、渓流釣りで知られる千曲川へ合流する西川を4×19.2mの鋼プレートガーダー橋で渡ると、今まで濃かったカラ松の森林が開けて、高原野菜の畑地が広がってきて、八ヶ岳が右手に迫ってくると、野辺山高原である。最高標高の駅である野辺山駅を出ると南へ向きを変えて清里へ向かう。やがて日本の鉄道最高地点が現れたが、ここは日本海と太平洋を分ける中央分水界でもある。間もなく甲信の境となっている境川をスパン12.9mのプレートガーダー桁 3連の鉄橋で渡った。この橋の下流にあるお立ち台からは、赤岳(標高 2899m)を主峰とする八ヶ岳連峰をバックに“高原のポニー”ことC56の牽引する「八ヶ岳高原号」を誰でも撮れることから、この橋を“ばカション橋“と呼んでいたのだった。しかし、今は旧国道の橋も健在なのだが、全景であった樹木の成長が凄く、冬など葉が無い季節でも鉄橋はおろか八ヶ岳の姿も全く見えず、それに新国道がバックに走っていることもあって撮影ポイントは失われてしまったようだ。ここから少し進むと再び大門沢橋梁が現れる。これはスパン 12.9mのプレートガーター桁 
5連の鉄橋であったがそれほど人気は無かった。この下を流れる大門川は約450m下流で先の境川を合流して流れ下り塩川を経て釜無川、富士川となって駿河湾へ注いでいた。
間もなく清里駅へ到着する。
ところで、江戸時代に脇街道として整備された佐久甲州往還に付いても触れておこう。この道は北国街道の小諸宿から分かれて岩村田宿で中山道を横切って、千曲川を渡って西岸に沿って南下すると、次第に谷が狭まって来ると道は西側の高台の上を馬流集落、海尻宿、海の口宿と千曲川の流れを眼下に眺めながら続いている。海ノ口を過ぎると千曲川に別れを告げて八ヶ岳の裾野をひたすら登って野辺山が原に達する。かっては、この野辺山が原は通りぬけるには全く人家がない約三里の道は最大の難所だった。それは降雨や雪解けの泥濘の際は通行に難儀をし、冬は零下20度を下ることも珍しくなく凍死する者もあった。そこで慶長11年(1606)に、幕府は佐久方の村から農家を移住させ、扶持米を与えて旅人への援助に当たらせるために板橋集落を設けている。この辺りは今でこそ高原野菜でしられているが、明治の頃は軍馬の育成牧場が営まれていたとのことだ。

この先には低い丘陵が控えていた。それは奥武蔵山塊の主峰が信州と甲州の国境をなす山脈として甲武信岳から金峰山、小川山、横尾山、飯森山(めしもりやま)と西へ張り出しており、八ヶ岳の野辺山高原の東側との間に鞍部を作っていて、このラインは太平洋と日本海を分ける大分水嶺となっていたのであった。この飯森山の中腹を越えるのが佐久甲州往還の平沢峠(標高 1450m)である。これより約100mほど西の鞍部を越えているのが小海線の最高地点(標高 1375m)と国道141号の野辺山峠(標高 1380m)なのである。この
平沢峠の標高は高いけれども、麓の野辺山高原からの比高は約100m足らずなので峠越えは苦しくはないが、何しろ標高が高いので冬の往来には難渋したことであろう。この峠を下った所に、信州最後の宿場である平沢宿があったのだが、坂の両側の家屋や空き地だけで宿場の痕跡らしきものは見当たらなかった。その集落を抜けると大門川を渡って甲州側の念場原(今の清里高原)へ歩を進める。やがて東南へ向かって少し登ってから、急な弘法坂を下ると甲州最初の長沢宿となる。ここの関所を抜けて下って甲州街道の韮崎宿(にらさきやど)を目指している。
ここからは小海線の建設の歴史に触れよう。この
小海線の前身である佐久鉄道が地元資本によって1915(大正4年)に開業して見ると、営業成績がすこぶる硬調だったので直ちに終点の小海駅まで延伸してしまうほどの意気軒昂(いきけんこう)ぶりであった。その将来計画にはまず「電化」があり、次に「甲信越連絡(甲府から、現存の小諸〜小海間を経て直江津・長岡)、それに富士身延鉄道と結んで『中部横断鉄道』の広大な計画があった。実際に、北へは信越線の屋代駅から須坂、飯山、十日町、長岡へ、南は千曲川沿いに川上村を経て野辺山が原の八ヶ岳の山麓を越えて中央線の竜王駅まで接続るるルートが有力視されていた。
北側は河東線として屋代から須坂までの路線の免許と実測まで進んでいたが、南へは地形のけわしさから工事資金が膨大となることもあって実現化へは踏み出せずに時が過ぎつつあった。
一方、鉄道省でも本州横断鉄道としての意義に注目し、種々検討の結果佐久鉄道の考えたルートとは中央線との接続点が異なるが、ほぼ同一のるーとで小海〜古武士沢の小海線構想を立てていた。やがて、1922年(大正11年)になると、国が建設すべき地方鉄道路線を規定した「鉄道敷設法別表」が公布しこうされた。ここには予定線として150路線が登録された。その第58号に、『長野県小海附近ヨリ山梨県小淵沢ニ至ル鉄道(小海線 小海 - 小淵沢間 48.3km)』が規定されて、直ちに小海側と小淵沢側の双方から建設が進められた。
この路線は簡易規格(軸重10t以下)で建設され、最急勾配は 33.3‰の箇所が6箇所、最少曲率も半径 195mであったから、最新鋭のC56型が投入され牽引定数は換算9で運用されると云う厳しい条件で建設が進められた。
先ず、山梨県側の建設は早くも大正12年には「小海南線」として小淵沢〜甲斐小泉間を着工したが翌年には中段、昭和3年になってルートを変更して再会し、やっと昭和8年(1933年)に小淵沢-清里間が開業した。この両駅での折り返し運行は前人未踏の八ヶ岳原始林から豊富な森林資源を搬出するとこに直ぐ利用され始めた。隆盛期には搬出を待つ木材であふれ、10両からなる貨車で小淵沢方面に運送されていたと云う。
また、小海北線の長野県側の小海〜信濃川上間は最も狭隘(きょうあいな)な山間の工事が小海から着工したが、海ノ口〜信濃川上間の工事は困難を極めたと云う。昭和7年には信濃川上駅まで開通し、佐久鉄道に運転が委託されて、ガソリンカーが往復し始めた。
一方、その頃になると、歴史のある佐久鉄道ではあったが、バスなどに押されて経営が苦しく、小海穂苦戦の建設開始にあわせて、くにに買収の請願をおこなっていた。これに応じて昭和9年(1934年)に佐久鉄道を国有化して、小海北線として営業を続けた。
 また、小海南線の清里から先の延伸が急がれたのには、太平洋岸と日本海岸とを最短で結ぶルートとして、また野辺山に設けられていた海軍航空隊の特攻隊員の飛行練習場の存在などからの要請もあったものと思われる。そして最大の難所であった標高差約300mの清里〜信濃川上間が昭和10年(1935年)に完成して、こもろ〜小淵沢の全線が開通した。そのような背景から、小諸・小海間に駅は14で2km間隔に対して、小海・小淵沢間に7つの駅で6km間隔となっているのである。
開業当初は最新鋭のC56牽引の混合劣者と佐久鉄道の保有していたガソリンカーなどが運用されたが、ガソリンカーが昭和19年に退いてからしばらくの間はC56のみが走っていた。この時代は
再急勾配区間では15k/hの速度に落ちてしまっていた。
昭和40年の初めには旅客列車はDC化され、旧型ディーゼルエンジンを2機搭載した気動車が小海線に投入されると均衡速度が35km/hになった。そして燃料噴射装置を装備したディーゼルエンジン搭載気動車の登場により、この急勾配を60km/h以上の速度で登ることができるようになった。その時に残ったC56牽引の列車は、朝夕2本の貨物と季節臨時の観光列車「八ヶ岳高原号」だけとなり、徐々にディーゼル機関車のDD16が配備されるようになり、C56の数は少しずつ減った。そして昭和47年末に無煙化された。
しかし、昭和45年頃まで、夏から秋の高原野菜(白菜やレタスなど)の出荷時期に限って、小淵沢〜野辺山間に多くの臨時貨物列車が運転され、その中には通風コンテナ列車「たかね号」なども走っていた。その時のC56は長野、糸魚川、上諏訪などから借入れたり、時には遠く梅小路からも応援もあったようだ。そして野辺山−信濃川上間では臨時積込所が作られ畑の中で列車を止めて野菜の出荷をしていたことも懐かしい風景であった。また1973年に、1両の客車に数量の貨車を5C6が牽引する混合列車が復活運転されたが、これも1シーズン限りで終わりを迎えてしまったのも記憶に残っている。
また、小海線は、駅の標高ベストナインが所属していることや、爽やかな清里高原で知られているが、開業以来列車の運行を妨げる二つの悩みがあると云う。
先ず第一は冬の路盤の凍上現象である。この野辺山高原では土壌の凍結が深さ90cmに達することがある。これは北海道の帯広が60cmと云うから、道東の十勝より寒いと云うことになる。冬の朝の一番列車は避けたい物だと云うのが合い言葉であった時代が続いていたようだ。
 第二も野辺山高原付近で大量発生した「やすで」の大群が線路を横切って移動するときに発生する。この「ヤスデ」は、ふつうには「ゲジゲジ」と呼ばれる節足動物の一種であり、特に八ヶ岳山麓では定期的に大発生するのが知られている。そのため「きしゃヤスデ」という和名が1937年に付けられた。この「ヤスデ」は卵から成虫まで7年かかるので、7年から8年目ごとに大発生が繰り返されている。それにより車輪が滑って危険ななことや、信号が普通になると云う障害が起こる。1976年の9月に始まった大発生は物すごかったたと云われるから、大発生が予想される時には近ずかないのが得策だろう。

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・「小海線のC56」シリーズへのリンク
243. フオッサマグナを走る八ヶ岳高原線・小海線/岩村田〜小海
241. 八ヶ岳高原号が行く・小海線/小淵沢→甲斐大泉
242. 天狗と龍と・小海線高岩-馬流、竜岡城