自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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241.   八ヶ岳高原号が行く ・小海線/小淵沢→甲斐
〈0001:bQ4−3−8:雲野上に甲斐駒ヶ岳の山頂があらわれた。〉
このbヘ【24】のBで8?列めではなかろうか。
〈0001:bQ40332:雲野上に甲斐駒ヶ岳の山頂があらわれた。〉
山頂の岩肌がの白いのは南アルプスでは珍しい花崗岩(かこうがん)のためで

〈0002:24−3−9:小淵沢大カーブをバンクして登るC56〉
歯切れの良いドラフト音は排気膨張室のないC56の特徴

〈0003:15−12−10:朝露を踏んで空転するC56〉
一旦停車して、レールに砂を散布してから再び発車して行っ

〈0004:a@240411.横〉

土手には紫色の花を付けた豆科の雑草が茂っていた。昭和46-8-16
〈撮影めも〉昭和46年8月撮影。
C56 102号の牽く旅客列車。
右の土手の下から撮っている。中ほどの奥から左手前に。豆科の草の生えた土手。
黒い煙の旅客列車、1両だけが写っている。背後は近くの山々。
C5背後には段々となった畑と水田と集落がみえる。

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〈紀行文〉
私は昭和31年の学卒として映画・写真の撮影用露出計の「セコニック」に就職し、その秋から長野県塩尻町にあっ子会社へ出向して6年を過ごした。だから、本社への出張には夜行急行で新宿〜塩尻間を往復するのが常であった。その頃の休日・週末の夜の中央線新宿駅の地下道には八ヶ岳やアルプスへ向かう登山パーテイであふれ返っていたのだった。それは、定期・臨時を含め何本もの急行「アルプス」や普通列車が10〜20分ヘッドで7〜8本も、松本・南小谷・岡谷へと出発していたからであった。その中で、一番最後に出発するのが 1:00発 臨時「霧ヶ峰高原・八ヶ岳高原号」(8435レ 岡谷・小海行き)があったことをおぼえている。そんなことから、できるだけ東京への出張は週末を避けた覚えがあった。
時代が下がって、昭和40年代に入ってSLを撮り始めて見ると、昭和44年(1969年)の秋に川越線に残っていた朝晩の96牽引の通勤列車が消えてしまうと、もう東京近郊では蒸機牽引の旅客列車の姿は見られなくなってしまった。そこで注目をしたのが、5月のゴールデンウィークの幕開けとともに始まる「八ケ岳高原号」の季節であった。これは日曜・休日に運転される新宿発の小海線野辺山行き臨時列車で、小淵沢〜野辺山間では、3輛の旧型客車を従えたC56が活躍することになっていたからである。
 さて、ここで中込機関区のC56が姿を見せる起点の小淵沢付近の地形を眺めておこう。先ず、中央東線は甲府を出て韮崎にかかると、勾配を登り始める。この先は左手を流れ下る釜無川の流れから一段と高い崖の上の台地を西へ向かって延々と上り続ける。駅で云えば、韮崎→新府→穴山→日野春(標高 609.4m)→長坂→小淵沢(標高 881m)→信濃境→富士見(標高:955.2m)までの約30kmと長い距離である。この台地は「七里岩(しちりいわ)と呼ばれ、八ヶ岳泥流と呼ばれる火砕流が作り出した地形であった。この台地は行政的には北から長野県富士見町から、山梨県の北杜市の小淵沢町、長坂町、大泉町、高根町と須玉町の一部を経て、韮崎市の中信に至っていた。その南側には釜無川、東側には塩川が流れ、それぞれに10から40mの高さの侵食崖をなしており、台地の崖下を流れる釜無川と塩川に閉口して、それぞれ甲州街道(国道20号)と佐久甲州往還(国道141号)が走っており、台地上の釜無川沿いのには信州往還(県道17号)が走っていて、それに沿って中央東線も中央高速道路が長野県へ通じていた。
 夜半に新宿を出た「霧ヶ峰高原号」と「八ヶ岳高原号」を併結した臨時列車は、夜明け前の午前4時半頃に小淵沢に到着する。そして後ろ3両の客車が切り離され、前方の「霧ヶ峰高原号」は「八ヶ岳高原号」をホームに残したままて遠ざかって行ってしまった。そして一時間も時間待ちをした頃に、やがて前方からC56型蒸気機関車がバックで近づいてきて連結して発車となるはずだ。時おりカッコーの声も聞こえてくる朝まだ明け切らぬ小淵沢駅、C56に牽かれた満員のハイカーを乗せた旧型客車の「八ヶ岳高原号」が最急勾配33‰とR200の急曲線の連続する路線の23.4kmを1時間18分かかって、表定速度18km/hで野辺山まで走破するのであった。野辺山着は6時30分頃ではなかったろうか。今では、キハ110系のDCが30分少々で登リ切手しまっている。南アルプスを真近に望める標高881mの小淵沢駅を出て直ぐに登に始め、キロポスト3km地点から曲率半径 300mの右カーブの築堤に入って25パーミルの勾配で 180度も方向を変えながら高低差 163mを7,1kmを登って甲斐小泉駅まで達していた。大きくターンするので、南アルプスから八ヶ岳までの雄大な風景を堪能できる。一方列車を撮る人にとっては、
午前中は南アルプス連山、午後は八ヶ岳、夕暮れ時は再び南アルプスの入笠山(標高 1,955m)が背景になると云う絶景だ。やがて甲斐小泉駅、ここから先は勾配は28‰となり周囲は白樺などが生える林の中を走って行くので山などを見ることはできなくなる。ところで、ろ小淵沢駅からは甲斐小泉駅へ、次いで甲斐大泉駅へと高原を進んでゆくのだが、駅名に並ぶ“泉”とは八ヶ岳の伏流水の湧水群から取った地名である。それは八ヶ岳南方の権現岳(標高 2,715 m)の水源林の水や雨水が成層火山の編笠山(標高 2,523.72 m)の火成岩等に浸透し地下水となり清里高原地下の帯水層を経て標高 1060mから820mノ地点から湧出するのが八ヶ岳南麓高原湧水群である。その代表的な湧水で、名水百選に認定されているのは、甲斐小泉駅(標高 1,044m)に近い「女取湧水」、「三分一湧水」、それに小淵沢町内の標高820mの大滝神社の境内にある「大滝湧水」などである。その他に甲斐小泉駅(標高 1,044m)と甲斐大泉駅(標高 1,158m)との中間の南には「大泉大湧水」がよく知られている。これらの湧き水を源に鳩川・深沢川、高川、女取川、古杣川などが合流し釜無川へと流れ下っており、江戸時代から農業用水や飲料水として利用され続けている。
甲斐大泉を発車すると、いよいよ33‰、小海線最急勾配区間に入る。途中で勾配が緩くなり、川俣渓谷の崖を回り込むようなΩカーブに入った。やがて小海線で二番目に長い川俣トンネル(455m)に入るが、このトンネルは川俣川づたいに分かれる東沢と西沢の両渓谷をつなぐ格好になっているのだった。しばらく、崖のような景色となり、葉の落ちた林の間から渓谷と晴れていれば富士山も見ることがあるようだ。再び33‰の登り勾配となり、やがて、広々とした裾野の念場原(あざねんばがはら)の牧草地が眼に飛びこんできて、そしてその裾野の先にギザギザした岩の八ヶ岳の峰が並んで現れた。そして別荘が見えてくるとまもなく清里となる。
 この小海線を訪ねた最初の頃は古武士沢駅や野辺山駅のの近くて撮っていたが、無煙化が近づいた昭和46年頃になって、やっと見られるような写真が撮れるようになった。
一枚目は8月の初めの週末である。鈴なりの乗客を詰め込んだ3輛の客車を牽いたC56がゆっくりと大太鼓のような歯切れの良いドラフト音を響かせながら標高881mの小淵沢駅から1044mの甲斐小泉駅までの標高差163mの間にある半径300mの大カーブを登って来た。幸運にも朝霧が晴れて、甲斐駒ヶ岳(標高2,967m)の山頂が顔をのぞかせた。この山は火成岩である花崗岩(かこうがん)からなるため、山肌が夏でも白く望まれた。ここでは
前山にはばまれることなく、麓から一気に2,500mほどの標高差をもって立ち上がっているのだから素晴らしい。
2枚目は半径300mの大カーブをバンクして登って来たC56の姿である。
3枚目は初心者の時代に録音を取りながら撮った写真である。この朝は曇っていて、レールが濡れていたのであろうか大空転を起こして大変であった。何とか持ち直して無事に遠ざかって行ってしまった。窓に写る乗車区の表病にも不安げなところがみえるのは、列車のスリップで停車しそうになったからであろうか。
さて、ここからは小淵沢大カーブにまつわる話題を述べてみたい。この180度も方向を変えて迂回して甲斐小泉駅へ至るルートは何故建設されたのであろうか。その答えに三つの説が知られている。
1)富士見駅起点説
2)勾配緩和説
3)巨石による工事障害説
この中で、ホームページ上で最も多く見かけるのは1)の富士見駅起点説であって、この情報の源となったと思われるのが、『小海線 - Wikipedia』の中の「歴史」に記述されている次の文章である。
「小淵沢〜甲斐小泉間には急カーブがあるが、これは小海線計画当時の鉄道大臣小川平吉が富士見町出身ということもあり、富士見駅を起点とする予定であったところを、工事費用などの点から小淵沢駅起点に変更したために生じたものである。」である。
所が、「この記述は間違いである」とする意見が地元の郷土資料館などで語られており、また次のサイトでも詳しく述べられている。
小海線大カーブの謎 
http://pairhat.jp/mokuji/fusigi/koumisenn.htm
その論拠とする点は、「富士見駅起点」を示す資料が見つからないことにある。今の所、小海線の建設に関わる小海線関係年表を見ると1度もどこにも「富士見駅」と云う語が現れて来ないと云う。だから戸行って可能性を全否定する物でもないようだ。それは建設が再開される昭和3年の前年に地元代議士の小川平吉(富士見町出身)が鉄道大臣となっている所からの推測とも考えられるからであろう。
 次の「勾配緩和説については、現在の甲斐小泉駅の位置を前提にすると合理的であるように見えるが、
 大正12年には「小海南線」として小淵沢〜甲斐小泉間の工事が早々と着工されており、その建設ルートは、ほぼ小さな川筋を辿っていて、地形的にも合理的に見える。それに甲斐小泉駅の位置が現在の位置よりも標高がかなり低い位置となって計画されており、このルート設計では充分に勾配を緩和できている。当時の建設ルート図面が長坂町郷土資料館に現存しているとのことである。
しかし、翌年の 大正13年に、何故か工事が中断されてしまった。(大正9年の東京株式大暴落に続く大不況が原因とも考えられてはいるが)
工事再開を訴える地元の運動もあって、昭和三年になって工事が再開されたが、その時には、以前に着工していたルートは放棄されてしまっている。その理由を明らかにする資料が見あたらないので種々の憶測が考えられているのである。
 最後の巨石説であるが、小海南の建設工事が僅か翌年に突然中止となってしまった。再び建設が開始された時には現在のルートになっていた。既に着工して中断していたルートが放棄された理由には、小海線の計画ルートの上に巨石が存在していたのだと云うのである。これを排除すと種々の災いが発生したと伝えられている。
現実に、深い森の中に「駒頭石」と呼ばれる巨石が存在することも確かめられてはいるが、この巨石と鉄道建設とを結びつける史実が発見されていないのが仮題である。
結論的には、何故最初のルートの工事が中断されたのかなどの史実が明らかになる有力な資料の発掘を待つと云う所か。
私の見解も軽く述べて起きたい。
 そもそも小海線建設の法的根拠は1922年(大正11年)4月11日に公布・施行された改正鉄道敷設法の別表に、『第58号長野県小海附近ヨリ山梨県小淵沢ニ至ル鉄道』として登録されている事による。鉄道省はこの法の公布前に既に小淵沢〜小海とする建設ルートを決めていた筈である。
実は、大正8年に私鉄として着工していた小諸−小海間の佐久鉄道では、その将来展望として日本海側と太平洋癌を結ぶ本州横断ルートの一翼を担う夢を持っており、北は信越線の屋代から須坂-飯山-十日町−長岡へ、南へは小海から清里へ、そして中央線のいずれかで接続して、甲府から身延鉄道を経て東海道線へ至る構想であったようだ。その南へのルートハ
標高1,000mを越える急峻な山岳地形で、トンネルや100m近い渓谷を横断する橋梁を建設して八ヶ岳東麓の清里へ出て、下って増富ラジウム温泉開発に結びつけた上で、小笠原へと茅ヶ岳(かやがたけ、標高 1,703.6m)の麓を越えて中央本線の竜王駅に接続する案が有力であった。その山麓越えの急勾配への懸念と、これまで開通させた区間よりも建設費が数倍も掛かることから、着工に踏み切れなかったのであった。やがて大正10年も近くなると韮崎駅や小淵沢駅が誘致運動に加わった。その内に、甲府盆地からどのように迂回して八ヶ岳南麓の清里へ出るための等高線に沿ったルートの検討がなされたようであった。
そこで、鉄道省でも本州横断ルートの必要性を感得しのであろうか、そのような背景を踏まえて鉄道敷設法改正の機会に小淵沢〜小海間の小海線を設定した物と思われる。
このように小海線の建設の目的からして中央本線との接続点が北方の富士見駅へ移ることは極めて考えにくいのである。いずれにせよ小海線の南側のルート設定には地元の要望と急勾配に関わる技術的配慮が交錯しているのである。

撮影:
〈0001〜2〉:昭和46年8月6日。


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・「小海線のC56」シリーズのリンク
243. フオっサマグナを走る八ヶ岳高原線・小海線/岩村田〜信濃川上
242. 天狗と龍と・小海線高岩-馬流、竜岡城
  244. 佐久平から野辺山高原へ・小海線/小海−清里