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243.  フオッサマグナを走る八ヶ岳高原線 ・小海線/岩村田〜小海 間

〈0001:24-10-11:佐久の雪景色
0001?:小海線/臼田駅ふきんか

〈0002:25-5-3:佐久の水鏡〉
0002:小海線中込から小海の間のどこか?

〈0003:25−7−11:橋梁を渡る〉
相木川橋梁か?。小海線/高岩→馬流 

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〈紀行文〉
 中央東線の小淵沢から八ヶ岳の山々の直下を縦断してて佐久平を経て元信越本線、現在のしなの鉄道の小諸に通じている小海線は、近頃は「八ヶ岳高原線」とも呼ばれている。その沿線には、日本での標高の高い駅のベストナインが顔を揃えているほどの高原鉄道である。その最高地点のある野辺山には国立天文台の野辺山宇宙電波観測所があった。また、「星の町」を標榜する臼田には宇宙航空研究開発機構の宇宙空間観測所もあって、正に「空に最も近い鉄道線」の名にふさわしさである。それに加えて、小海線の経由地点の位置にも三つの特異性があるのを見付けた。先ず最初は、公共測量の基準点である「平面直角座標系原点」の一つが野辺山駅の近くの国道141号の通る市場交差点横に設けられていた。その位置は、東経138度30分0秒0000 北緯36度0分0秒0000である。これは全国に19箇所ある基準点の中で、日本列島の中心付近にあることから“日本のおへそ”と呼ばれており、長野・新潟・山梨・静岡の四県の人々が利用しているとのことだった。次は、「日本で海から最も遠い地点」が臼田駅のある地域に存在していた。これは2008年に国土地理院から発表されており、その地点は日本海や太平洋の“海”から114.8kmも離れているとのことである。海から最も遠い地点付近を走る鉄道の名が“小海線”とはこれいかに。
 最後は、この小海線がほぼ並走している江戸時代の脇街道である「佐久甲州往還(佐久往還、または佐久甲州街道とも云う)の甲州との国界(くにざかい)の手前にある平沢峠(標高 1450m)には「フォッサマグナ発想の地」の石碑が建てられていたので、この碑文からの一部を紹介しよう。これは明治政府にドイツから招かれて明治八年(1875年)に来日し、東京大学地質学教授として教鞭を取った地質学者エドムント・ナウマン(1854〜1927年)さんが来日した年の11月に初めてこの峠を訪れた時の記念碑である。この峠からの素晴らしい地形の展望に接した時に、古い地層である南アルプス連峰や奥秩父山塊(関東山地)に対して、新しい地質である八ヶ岳の山容を観察して、眼前に広がる地形の変化から地質構造の異なる地帯の存在するであろうことを発見し、日本列島に「大きな溝(ラテン語で“フォッサマグナ”」)が形作られていると云う着想にたどりついたと云う歴史を顕彰していたのであった。
正に、この場所が「フオッサマグナ」のど真ん中に位置していることを宣言しているのであった。
この小海線の起点から終点までの車窓を飾っているのは、先ず南アルプスの甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳連峰とそれにつながる高原、奥秩父連峰と関東山地、奥秩父山塊の一角にある甲武信ヶ岳(こぶしがだけ)を源とする千曲川の流れ、小海の地名の由来となった八ヶ岳山麓の湖沼群、日本の中央の佐久平、噴煙を上げる浅間山などなどがあるが、いずれも「フォッサマグナ」を舞台にして出現した大地のダイナミズムの結果なのである。それ故に、小海線こそは「フォッサマグナ」を半ば横断している鉄道といえるであろう。
ここで「フオッサマグナの成因について述べておこう。先ず、日本列島が現在の位置まで大陸から離れて来た約3000万年前までに、日本近海の海溝は向きが異なる南海トラフと日本海溝の二つだったため、日本列島は現在のように中央で折り曲げられ、この折れた西南日本と東北日本との間には日本海と太平洋をつなぐ深さ5000mを越える海が広がッテいた。その後の新生代に当たる数百万年間、砂や泥などが海底に堆積しつつあったが、200万年前まではまだ海であったようだ。そのご数百万年前頃から、フィリピン海プレートの上に載った伊豆半島がフオッサマグナ部分に南から衝突し、圧力を掛けたことから、フオッサマグナ部分の基盤の隆起を起こさせ、またフオッサマグナの央部の基部に割れ目が生じてマグマの上昇を招いて火山列の噴火が起こって多量の噴出物を堆積させてきていた。そして西南日本と東北日本間の海は埋め立てられて現在のように陸続きとなったとされている。ちなみに、南北に並ぶ富士火山帯と呼ばれる火山列には、北から越後焼山、妙高山、草津白根山、浅間山、八ヶ岳、飯森山(めしもりやま、平沢峠が西の中腹にある)、茅ヶ岳、富士山、箱根山、天城山などである。
 あのナウマン博士は、「フオッサマグナ」の西縁を日本アルプスの山すそに当たる糸魚川-静岡構造線とし、東縁を直江津-平塚を結ぶ線と考えていたが、今もって東縁は定まっておらず、もっと東へ広がって考えられているようである。それが定まらない理由の一つには、「フオッサマグナ」の南部に関東山地(奥秩父・長野県南東部の山々)と云う西南日本や東北日本と同時代の古い地質を持った山塊がぽつんと取り残されて存在していたからであった。
小海線の舞台はこの関東山地と南アルプスとの間の「フオッサマグナ」が舞台なのである。特に八ヶ岳からの溶岩は昔から悠然と北流していたであろう古千曲川を関東山地側に押しやり、八ヶ岳と浅間山の作った長いすそのが佐久平となり、この中を無理矢理北流することになったのである。
そして、起点である小淵沢の大カーブから望める甲斐駒ヶ岳こそはフオッサマグナの西縁に接する南アルプスであり、続いて八ヶ岳山麓の高原を縦断し、千曲川の刻む八ヶ岳と関東山地との谷間を通り抜けて、八ヶ岳北部の蓼科山(たてしなやま、標高 2530m)と浅間山と関東山地に囲まれた八千穂高原と佐久平(佐久盆地)を縦断して浅間山麓の終点の小諸に至っている。このようなダイナミックな地形の変化する地域を横断するだけに、この小海線には自慢すべき景観が多いのはうれしい限りだし、それに鉄道の建設の歴史にもそれにふさわしい苦難の連続が記録されているのであった。それに古来より東海ー甲州-信州を結ぶ街道が通じていることもあって歴史の話題にも事欠かないのである。
このシリーズでは、「佐久平」、「小淵沢大カーブ」、「天狗岩と龍岡城」、「八ヶ岳バックの境川橋梁」の4シリーズで構成してお目に掛けたい。
 先ず佐久平で撮った写真の撮影メモを紹介したいのだが、残念ながら今となっては、撮影場所を明確に示すことが出来ないのをお許し願いたい。
第1枚目は雪の佐久平である。クルマで出かけたのだったが思わぬ“春のドカ雪”に遭遇してしまい、行動の自由を奪われて平凡なショットとなってしまった。
二枚目は潅漑用の池に映る水鏡である。春先ののどかな水の温かな風情が感じられた。おそらく名産の鯉の(こい)の養殖がこの池でも行われていたはずであったが、水面は静かであった。
三枚目はてっきょうである。佐久鉄道が鉄橋を架ける資金の調達に難渋して、鉄橋のて前を終点にしたいとしていたのを、千曲川上流に発電所を建設する予定であった東信伝記が資金を提供して架橋させて今の小海駅待て開通させたとの話題が残る相木側橋梁であったような気がするのだが。
撮影ポイントで待っていると、遠くから歯切れの良い小太鼓を連打しているような軽やかなドラフト音が伝わってきて、やがて目の前を細身のボイラー胴と動輪との間をすかして見せるようにC56が走り去って行った。これは正に“千曲川スケッチ”にふさわしい一コマであったように思えた気がする。
 ここからは、佐久平に鉄道が開通する前の交通事情から話を始めよう。先ず江戸時代の初期に整備された街道システムでは、佐久と甲州を結ぶ道筋は脇街道としての全長 約18里の「佐久甲州往還」が定められており、そのルートと宿場は次のようになっていた。
「北国街道」の小諸宿から分岐して、岩村田宿で「中山道(なかせんどう)」と交差してから、千曲川を西岸へ渡って、野沢宿、臼田宿、そして高野宿では武州街道を分岐し、今の小海町に当たる馬流集落を経て、海尻宿、海ノ口宿、ここから千曲川から離れて八ヶ岳のすそ布を登って板橋集落、そして平沢峠を越えて信州最後の宿場の平沢宿に達して大門川を越えて甲州最初の宿場である長沢宿へ出て、坂を下って若神子やど、中条宿を経て「甲州街道」の宿場である韮崎宿(にらさきやど)に達していた。
 この街道筋にほぼ沿っている小海線の前身である佐久鉄道の建設の歴史に付いて触れておきたい。明治19年(1886年)になると、東京-神戸を結ぶ幹線の中山道鉄道のなれの果てである信越線(現在の第3セクターの「しなの鉄道線」)の直江津〜軽井沢間が開通して、小諸に駅が設けられた。(日本の中信である東京と京都・大阪・神戸とを結ぶ幹線鉄道の建設ルートは国防上の見地から中山道経由と決まっていたが、余りにもけわしいちけいのため東海道経由に変更となった経緯があった。)
それを見越して、軽井沢開拓を始めていたのが甲州財閥の一人である雨宮敬次郎であった。この人は山梨県塩山のの名主の息子として生まれ、生糸、養蚕業で財を成し甲州財閥の一角にのし上がった人てある。明治9年に生糸貿易を世界に展開しようとしてアメリカ経由でイタリアに渡った人物であった。あめりかでは、荒野の開拓における鉄道、植林、それに町の創設などの事業に魅力を感じて帰国した。そして、
甲武鉄道・江ノ島電鉄・東京市街鉄道・草軽鉄道などの経営にあたったり、全国に軽便鉄道を経営する大日本軌道を創立する一方、中山道鉄道の開通するのを見越して、明治17年(1884年)に沿線の浅間山麓の荒野であった軽井沢を開拓する事業を起こした。幾多の失敗をしながらも、落葉樹の「カラ松(唐松)」の植林を成功させ、今の軽井沢の発展の礎を築いた人であった。彼は続いて未開の佐久地方への鉄道を開設しようと考えていたようであった。その5年後の明治26年(1893年)には信越線が東京まで全通すると、佐久平だけが鉄道の恩恵に取り残されてしまったようになっていた。そこで地元でも鉄道を建設しようと運動を始めてはみたものの、このような地方の鉄道への出資に応じようとする人は集まらず、時が過ぎていった。やがて 明治43年(1910年)になると、地方でも容易に鉄道が敷設できるように今までの私設鉄道法を簡便化した「軽便鉄道法」が施行された。それを受けて、佐久地方でも養蚕・製糸業が盛んとなり、産出される山林資源も多く見込まれたし、それに千曲川の豊富な水量を利用した発電所建設計画があったことから、軽便鉄道の必要性が高まりつつあった。そこで“地元資本で鉄道を”との意向で県会に建設予算の陳情を行ったが、運悪く伊那地方が優先され却下されてしまった。次いで、地元の資本で軽便鉄道の敷設免許を新政すべく運動が続けられたが、意見の統一が出来ずに時を費やしていた。そのうちに突如として、明治45年(1912年)に、かの雨宮敬次郎が設立した大日本軌道のと関係の下で、東信軽便鐡道という会社が東京に設立されて、佐久地方での小諸〜小海間の本線と岩村田を中心とする2支線の軽便鉄道線の敷設免許新政が行われたのだった。この東信軽便鉄道の敷設計画は佐久甲州往還に沿ったルートであったから、ほぼ地元民の意向に沿ったもののようだった。しかし、一部路線のルートに強い反対が起きたが、地元有力者の奔走によって意見の一本化にせいこうしたのに、何と再び地元有力者から“レールの幅(軌間)の変更”と、動力の“電化”の採用の提案がなされたのだった。先のレール幅のことだが、東信軽便鉄道では親会社の大日本軌道と同じ軌間 762mmが採用されていたのに対して、このままでは中央へ出荷する貨物が信越線への接続の際にレール幅が異なるため貨物の積み替えが必要となり不利であるから、信越線の軌間 1,067mmと同一の軌間で建設して、この不便を解消してほしいとのことであった。次の電化は、地元の千曲川沿いには多くの水力発電所の建設が進められており、その電力を利用した鉄道方式が有利であるとの主張であった。これに対して東信軽便鉄道では、いかにして設備投資を抑えて収益を上げるかが第1要件であったから、地元の要請の受け入れは難しかった。そして徐々に地元民から中央資本排除の気運が高まり、地元資本だけでの鉄道計画が叫ばれるようになった。そこで大正2年(1913年)には既に免許を得ていたのだったが、資金負担の増大と地元の反対を考え合わせて事業追考の形勢が不利と見た東信軽便鉄道では株を第三者に譲渡して撤退を決めたようであった。やがて大正3年(1914年)になると、地元の有力者たちが東信軽便鉄道の株を全て買い取ることとなり、佐久鉄道が創立されることになったが、その筆頭株主には雨宮敬次郎と親交のあった田中新七が含まれていて未だ雨宮の影響力を残していたようであったと云う。そして軌間は信越線と同一となったが、もう一つの電化は見送りとして、事業に着手した。
実質的な工事は翌年の春から第1期線の小諸〜中込(ながごみ)間から始まり、計画路線沿線の反対運動を乗り切って、僅か5ヶ月余りで13.4kmを完成し、この間に小諸・岩村田・中込の3駅と、その間に乙女・土橋(後の三岡)・市村・中佐都・久保の5停留所を開業した。終点の中込駅の設けられた中込村には佐久鉄道の本社が設けられ、機関車庫などの運転吉も整えられて、鉄道の開通を機として佐久平の中心の町へと発展し始めた。この間の大きな工事としては岩村田-中込間の湯川鉄橋が予想外の費用が掛かったようであった。開通の当日に走った蒸気機関車は、1896年にイギリスのダブス社で製造された車軸配置0-6-0(C)の小型タンク機関車の1〜3号であった。この機関車はシリンダーがランボードと並行に装備されていたのが当時では特徴であったようだ。この機関車は開業に当たって鉄道省から払い下げを受けた1150型蒸気機関車であった。そして、その営業成績は予想外に良かったことから、続いて第二期の中込〜羽黒下間の7.7kmを約3ヶ月で年内にかんせいし、大奈良(今の竜岡城駅)、三反田(今の臼田駅)、入沢(今の青沼駅)を経て羽黒下停車場までが開業した。
当初の中込〜羽黒下間のルート計画は、中込から千曲川を対岸の西岸に渡って野沢へ停車場を設けて、その先も千曲川に沿って南下する予定であった。当時の野沢村は中世の伴野荘の地として開かれた歴史のある土地柄で、佐久甲州往還の宿場町賭して栄えており、同時に佐久平の商業の中心地としても繁盛(はんじょう)していたのであった。その野沢村では猛烈な鉄道の通過に反対する運動が起こったことから、佐久鉄道では千曲川の東側に沿って南下せざるを得なくなった。そのお陰で千曲川を渡るための長い鉄橋を架ける必要が無くなったのはともかく、その替わりに千曲川を挟んで宿場町と駅前集落が双子都市のように対向して発達するようになった。例えば中込駅と野沢宿、羽黒下駅近くの四っ谷集落と高野宿、小海駅と馬流集落などである。
なかごめからは地形は次第に谷間が近づいてきたが、まだ平地であった。その間の主な橋梁は今の臼田−竜岡城間に雨川(あまがわ)があって、錬鉄製のプレートガーダー桁の12.6mが架けられただけであった。
この第2期線の終点駅羽黒下の駅周辺は当時すすきの原の原野だった上に、第三期の羽黒下〜小海までの沿線では人口も少なく、これと言った産業がなく、急激に千曲川と山が迫って平地が少なくなり、工事もむずかしくなるので、採算面の不安があったので延長には直ぐには進めなかったので、羽黒下駅が物資の集積地として栄えるようになった。それは千曲川上流沿いに水力発電所建設が決まっており、その資材の集積地と、技術陣や労務者の宿舎などが羽黒下に設けられることになったからである。
 この先の小海村までの間は、千曲川が山に迫っており、谷間や河岸段丘下を抜けて行くことになった。その間にある河川は幅30mほどの抜井川と、群馬県境の赤火岳(あかびだけ、標高 1822m)を源に流れ下って来る川幅100mの相木川が横たわっていた。そこで佐久鉄道では相木川の鉄橋を架ける資金を節減するため、建設免許を得ていた小海村までの工事を保留し、相木川の手前の旧東馬流新田(ひがしまながししんでん)を終点にしようとしていた。しかし、東信電気は東馬流より上流の千曲川で発電所建設を行っていたことから、小海までの鉄道の開通を望んでいた。そこで相木川を渡る鉄橋の建設費を自らが負担することを提案して、小海駅までの5里3分を建設することとなった。
 大正7(1918)年11月から工事に着工、岩盤を掘削し、巨石をどけ、千曲川にせり出した山や段丘に沿うように建設が進み、翌年の3月に羽黒下から海瀬、佐久穂積(今の八千穂駅)、高岩、馬流、そして小海停車場が開通したのであった。大工事であった相木川橋梁は12.56+12.72+12.72mの桁長のプレートガーター形式で小海-馬流間に架けられた。
 小諸〜小海間を開業して意気上がる佐久鉄道では遠大な将来計画を立て始めた。それは開業した小諸〜小海間を本州横断鉄道の一環とする計画であった。
その南下ルートとして甲府まで甲信連絡鉄道を計画、建築中の富士身延鉄道(現身延線)とも結んで清水港まで達する予定であり、一方の北上ルートは信越線を経て屋代から須坂へ出て、最終的には信濃川に沿って飯山、十日町、長岡へ達する予定を描いていた。実際に、河東線の鉄道敷設免許を取得し、屋代-須坂間は佐久鉄道の手で実測が始められており、後に長野電鉄に発展してゆくことになる。一方の南方ルートハ、 標高1,000mを越える急峻な山岳地形で、トンネルや100m近い渓谷を横断する橋梁を数多く建設して、八ヶ岳東麓の野辺山越えを経て清里へ出て、そこを下って増富ラジウム温泉開発に結びつけた上で、小笠原から茅ヶ岳(かやがたけ、標高 1,703.6m)の麓を越えて中央本線の竜王駅に接続する案が有力であった。その山麓越えの急勾配への懸念と、予想される莫大な建設資金のため着手されなかった。
やがて、鉄道省もこの本州横断鉄道に注目し、1922年(大正11年)4月11日に公布・施行された改正鉄道敷設法の別表に、『第58号長野県小海附近ヨリ山梨県小淵沢ニ至ル鉄道』を登録するに至り、直ちに建設工事が始まった。一時の中断があったものの工事は進められた。昭和初期の不景気の中で経営不振となっていた佐久鉄道では、小海線の建設を機に国に買収してもらう請願を行った。これに応じて国有化が進められ、小諸から-小淵沢間の小海線が誕生することになったのである。
 佐久鉄道で特筆すべきは、経営合理化のために昭和5年からガソリン動車を走らせると云う先駆的な試みを成功させたことである。まもなく国有化されても小諸-海ノ口間に昭和17年まで運行されていた。その最初の6輛の中型半鋼製ボギー式ガソリンカーである「キホハニ51-56」は1930年日本車輌製で、定員座席・立席含め60人+荷物室積載荷重1tであり、エンジンはウォーケシャ6SRL形1基、そして車体幅が2200oと狭いため下のステップが大きく飛び出していた。このなかのキホハニ56は佐久市の元中込学校脇のの成知公園にC56蒸気機関車と共に保存されている。

撮影:

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・「小海線のC56」シリーズのリンク
241. 八ヶ岳高原号が行く・小海線/小淵沢→甲斐大泉
242. 天狗と龍と・小海線高岩-馬流、竜岡城
  244. 佐久平から野辺山高原へ・小海線/小海−清里