自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記:ニュー ジャージー州
201.  清らかな水辺の土手を走る♯4039

〈0002:〉
もーりす かうんてい セントラル 鉄道 水辺のS

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〈紀行文〉
 1978年の早春にデトロイト郊外の鉄道模型店で見つけたのは発刊されたばかりの「北米ツーリスト鉄道&博物館ガイド」(Annual Guide To Tourist Railroads & Museums :Empire State Railway Museum刊)と云うペーパーブックであった。その表紙には、美しい紅葉のニュージャージーの秋、澄んだ青空を映す水辺の土手を軽快に走るMCC(Morris 
County Central)鉄道のツーリストSL列車の写真で飾られていた。その印象が余程強かったのであろうか、その年の10月の声を聞くや、黄金に輝くメイプルの紅葉が冷雨や霜で茶色に変っていないことを祈りながらニュージャージーの自然の中を走る東部の煙を求めて遠い探訪の旅に出掛けることになった。このニュージャージー州のモーリス郡はニューヨークからはガソリンタンク半分の距離と云う近さで、大西洋岸に平行に走るアパラチヤン山脈の東麓に広がる低い丘陵地帯の中に位置している。中西部のオハイオ州から出かけるには、大陸横断ルートで知られるI80(インターステート・ハイウエー80号)を走ってアパラチヤン山脈を越えたその先になるのであった。このI80はサンフランシスこからシカゴを経てニューヨークに至るルートであるから、その1/4に当たる最も東の部分を走ったことになる。夕方に出発して夜のハイウェーをひたすら東進し、夜明け前にはペンシルバニア州とニュージャージー州の境を流れるデラウエア河を渡った“ウォーター ギャップ”に付いて朝まで仮眠をむさぼった。眼を醒ますと、パーキングの周囲は紅葉の真っ盛りであったのには嬉しかった。そこからしばらく進むと、パターソンに近づき、ここでI80に別れを告げた。
このパターソンは 「18.DL&Wのキャメルバック」 で紹介しているアメリカ東部屈指の産業遺産が残る古い工業都市で知られる所である。市内を素通りして西に向かう州道 23号は快適なフリーウェーで、余程注意していないと通り過ぎてしまうほどの小さな町、ニュー ファウンドランド(New Foundland)がMCCの基地であったのだ。ここのモーテル、レストラン、みやげ物屋、古美術店などの並ぶ街道筋はさすがリ四季を問わないリゾート地らしい雰囲気で、まだ眠りの中にあった。
この朝は晴天、細い田舎道を折れて進むと、やがて踏切の標識が現れ、、光ったレールが鉄道の生きている証であった。右手の広場には赤色の元PRR(ペンシルバニア鉄道)の車掌車のビフトショップらしきものがあり、古いタンク式ロコが鎮座していることからも、いかにもツーリスト列車の発車地点の情景を演出していた。聞くところに寄れば残念なことに、元NYS&W(New York, Susquehanna & Western:ニュー
ヨーク・さすけはな・アンド・ウエスタン)鉄道が開通した1872年に建てられた古典的木造のニュー ファウンドランド(New Foundland)駅舎が現存しているのに、どうしたことかオーナーがMCCへのリースを拒否しているとのことだった。しかし皮肉にも列車運行の終点となっている隣のストックホルム駅は逆に素晴らしい駅舎が眼を見はらせていたのには驚いた。
そして、近くの側線には朽ちた冷蔵貨車が留置されており、遠くに見える本線は雑草の中に消えているが、本線から分岐した側線があるらしく煙が上がっていた。くさの生い茂った細道を辿ると機関庫の建物に出たが、見学はあっさりと謝絶された。大都会のツーリスト鉄道では安全が第1で立ち入りは極めて厳重に禁止されているようだった。
 確か、第一便の出発は正午なのだから、低い朝の光線は諦めざるを得ないのと、トップライトに悩ませられるのもいつもの通りだろう。そこで、しばらく付近の線路のありかをロケハンしてから余裕をもって朝食にありついた。
そして、古い宿場町の風情を残している町並みを出て少し西に行くと、豊かな推量がとうとうと流れる川が民家の裏側に現れた。線路は川を渡って土手を次の谷へ向かって登っているようであった。この川は西に広がるアパラチヤン山脈の豊かな水を集めた まこひン貯水池(Macopin Res.)へ、そしてエコー湖(echo l.)を経て流れ下るパセイク河(Passaic R)なのであり、更に下ってパターソン市では落差70フィートのグレート ふぉーる(大滝)を作っており、いずれはメガロポリスの飲料水源となる大切な流れなのであった。
そこで、川向こうに渡って撮影ポイントを探し、おもむろに三脚を取り出して位置を決めていると、まだ列車まで二時間もあるのに、ちらほらとカメラやテレコを持った人々が現われ始めててきた。さすがニューヨーク郊外、日本並の撮影風景となりそうだ。話に花が咲いているうちに、遠くにかすれたような気笛が聞え、やがて煙りが上ると姿が見えて来た。不運なことに、今日の仕業は元陸軍の入れ替え機であったaD4039であったが、短い編成の赤い客車が川岸の堤を軽いドラフトを残して通り過ぎて行った。遠くに去ってから急にドラフトが強く聞こえてきたところを見ると峠にさしかかったのであろうか。
いずれ、もう一台のSLである元サザン鉄道の♯385のメロデックな汽笛を聞きたいものだと願いながら引き上げた。
 さて、取りあえず最初に、MCCが列車をを走らせているルートのオーナーであるNYS&W鉄道の歴史を売店で買った小冊子(MCC物語」から紹介しておこう。
このNYS&W鉄道は単に“Sesquehanna”と呼ばれ,ニューヨーク郊外の鉄道の一つとして親しまれて来た。最盛期には240マイルの石炭輸送ルートで名を残し、Sesquehanna河の中流のペンシルバニア炭田と当時の工業都市パターソン、ニューヨークとを結んでいた。
この鉄道の始まりは、ニューファウンドランドが西への宿場町として駅馬車の往来で賑っていた頃にさかのぼっており、それには次のような背景があったとされる。
それは1831年に完成した延長91マイルに及ぶ“モーリス運河(Morris Canal)システム”がデラウェア河を渡り、落差が約900フイートにも達する多くの峠を23基の水車動力式インクラインと23カ所に及ぶ運河閘門(ろっく)で乗り越えて、モーリス郡を横断してペンシルバニア州東北部からハドソン川岸を結んだのである。この運河の役割は、北東ペンシルバニアで産するの無煙炭、北西ニュージャージーで産する鉄鉱石の木炭製鉄による銑鉄を東へ、鐵製品や工業品、日用品などの西への輸送であって、大きな利益をもたらしたのであった。所が1860年代に入ると、この複雑な輸送システムに替わって幾つかの鉄道が先を争って建設されつつあった。例えば、LV(LIEHIGH VALLEY)鉄道は1871年に運河を支配下に置き、その一部を鉄道に置き換えて利益を上げるようになっている。
当時工業都市として黄金期を迎えていたパターソンも直接それらの資材を鉄道で安価に手に入れるべく西への鉄道を計画したのがNYS&Wの前身であるNJ,MIDLAND(ニュージャージー・ミッドランド)鉄道で、1871年に創立した。そして早くも1872年にはュー ファウンドランドからジャージー・シティまで毎日 3本の旅客列車を走らせたのであった。それと同時に、ニュー ファウンドランドからHackensack NJ.への支線も建設して、New York & Oswego Midland (後のNew York, Ontario & Western)鉄道に連絡することによって五大湖方面へのルートも確保したのであった。
続いて、強力なパターソン資本の支持によって急速な西北への延伸が進められ、1882年にはデラウエア河を渡ってペンシルバニア州のStroudsburgに入った。ここにはスクラントンから東進を始めたDL&W(デラウエア・ラッカワナ・アンド・ウエスタン)鉄道が来ていたから、ここで石炭を入手して、パターソンやハドソン河岸へ運送する体制が整い、この石炭輸送による利益は大きく、1882年には社名をNYS&W鉄道と変更した。更に西進して、サスケハナ河岸まで路線を延ばして自前の炭田を獲得した。そしてにューヨーク行きの直通旅客列車の運行、それに石炭の生産から輸送までの一貫体制が完成した。
方、パターソン近郊は、ニューヨークのベッドタウンとして発展したから、近郊鉄道の性格も色濃くなってきたし、農業品やミルクのメガロポリスへの供給、リゾート地帯への旅客列車運転と各方面での繁栄が続いた。1957年に、NY,S&Wの線路沿いにューワーク市の水道用水のオークリッヂ貯水池(ak ORidge Res.)がペクオノック河(Pequannock R.)の上に建設されて、この鉄道ルートが付け替えられた。それにより湖岸を走る美しい風景地として一躍有名になり、ニューヨークからCNJ(セントラル・ニュージャージ)鉄道の特別列車“ピクニック”号が運行されたとか。
しかし、次第に石炭の凋落は著しくなり、旅客列車も自動車に押されて廃止が進んだ。
1971年の 8月に襲った大洪水によって、ニューファウンドランドの東4マイル地点から東の路盤が流失してしまった。しかし資金力の不足から被害箇所の修復は見送られ、ひとまず貨物は他社を経由して大回りで運転されたが、それも維持できずに、パターソンを中心とする地域の68マイルを残して、その他の路線は廃止となってしまった。
実は、1973年に連邦資金援助を得て、東部の破産した鉄道、例えばPC(ペン・セントラル)の他6鉄道を合併してCR(コンレール:連合鉄道)が設立されると云う機会が訪れたのだったが、NYS&Wは参加を断って単独で生き残りを掛けていた。
そ後、NYS&Wが所有している配線区間の活用を計画していた州の要請に応えて、DOシステムが買収して、1980年9月から貨物営業を開始して蘇らせている。このDO System(Delaware & otsego)と云う鉄道グループはペンシルバニア、ニューヨーク州にかけての廃止寸前の支線を買収して生き返らせ、既に500マイル弱のルートの貨物サービスを成功させている元保存鉄道のグループなのである。
この結果、MCCがNYS&Wからリースしていた25マイルのルートも含まれており、既に運行を中止してしまっていたMCCの残骸も併せてDOシステム|に引き継がれたように思われる。このグループは再びツーリスト列車の運転には興味を示さなかったのは何故出あろうか。

撮影:1978年
発表:「れいる」誌・.16(1985年8月、夏の号。

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・「紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記」シリーズのリンク
059. 紅葉の小さな 登る♯4039
160. ストックホルム駅での♯4039の転線風景
−−さすらいのMCC鉄道−−
074.   DL&W鉄道のキャメルバッ ク ♯ 341 ・ニュージャージー州