自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記:ニュー ジャージー州
160.
ストックホルム駅での♯4039の転線風景
−−さすらいのMCC鉄道−−
〈0001:〉
〈紀行文〉
紅葉のMCC紀行のフィナーレも近くなってきた。フリーウェー23号を走って列車を追いながら小さな峠を越えた次の谷には水流の豊かなPeguannock河が蛇行しており、そこを渡る鉄橋の周りは美しい紅葉が背景となる最高の撮影ポイントを演出してくれていた。この日の柔かくなった午後の日ざしを浴びた♯4039の足回りの軽快な動きをショットするために、ハイウエーの路j肩に駐車する車の列ができている。ハイウェイパトロールも多くの鉄道ファンに手がつけられず、徐行を指示するだけになってしまう始末である。
やがて下りに入り、広い側線のあるローカル駅には珍しい立派な駅舎の残るストックホルムに到着した。
客車をホームに残した機関車のaD4039は長い側線を逆行して転戦の最中で、周囲の木々は紅葉の真っ盛りであった。機関車の付け替えが終わると、エンジニアーたちは古びたたずまいの駅で一服である。
この23号の北側の谷は北ニュージャージーの鉄鉱脈ベルトの端に当たり、盛大だった木炭製鉄の溶鉱炉の存在を示している“Furnece(炉)”と云う地名を留めている。この駅の北方4マイルには、かつて鉄鉱山が営まれており、この駅から鉱山行きの市街電車が計画されたこともあったようだ。また南には、Ogdenmineと云う大型鉱山が栄えていた。掘り出された鉱石は南へ鉄道で運ばれて行ったが、人々はストックホルム駅からニューヨークへ遊びに出掛けたとか。これが田舎の小駅としては立派過ぎる駅舎が残っている訳なのであると納得した。そう云えば、MCCがリースしている路線の西の終点であるBeaver Lake駅の周辺には豊かな自然を生かしてリゾートホテルや億万長者の別荘などを含めたリゾート地がかいはつされ、大きな耳の兎のマークで知られる“PLAYBOY”誌のクラブハウスも立地していると云う知る人ぞ知るロケーションモ近いのであった。
そのような事からニューヨーク直通の列車も仕立てられたと云う繁栄も、1927年になると旅客列車は自動車に打ち負かされて、早くも消えてしまっていたのだった。
そこで 最期に、MCCの辿ってきた“さすらいの来歴”を述べてフィナーレとしたいと思う。
このMCCの創立者E.Richardは1928年生まれで、模型の蒸気機関車から実物の魅力にとりつかれていた一人の宇宙技術者であった。1950年代はSLが急速に消えて行く時代だったから尚更であったろう。彼はこの大きなSLを保全しつつ、ツーりすと旅客列車を運行するには財政的にも、人材の面でも充分な体制を持っことが必須だとの認識した上で、その実現を熱望していたのだった。
1960年代の初めになると彼の念頭には既にツーリスト列車の運行をする保存鉄道のプランができていて、CN(Canadian National:カナダ国鉄)の2-8-0を$6,000で買収しようとしたり、またIC(Illinois Central:イリノイ・セントラル)鉄道の2-6-0の買収を試みたが成功に至らなかった。
その後、彼は将来ツーリストラインで使うSLを探しに、ショートラインのSL運転で知られていたVBR鉄道を訪れていた。ここで既に引退している.6の 2−8−0の車軸配置のコンソリが眼に入った。これが望んでいた小型で勾配線を客車数輛を牽ける程度のSLであったからである。
彼は近くの鉄道でこの機関車を走らせてくれる所を探していたが、1963年になるとこの夢は多少現実味を帯びてきたようだった。
そこは 彼の住んでいるモーリスタウンで、ニュージャージー州のMorris郡の中心地の田舎町であった。そこは独立戦争の歴史の宝庫として知られている一方、早くも1838年には fledgling Morris & Essex Railroad がMorristownに到達しており、1848後には近くのDoverまで延長されて、ここに鉄道車両工場が設けられたり、19世紀的工業地帯となっていたのであった。
1964年になって、この町に古くからあったMorris town&Erie鉄道(M&E)が彼のアイデアをやってみる価値があると認めてくれ、WhippanyからMorristownまでの路線でのツーリスト旅客列車の運行を許してくれた。そこで、再びVBR鉄道のPineyRiver工場を訪ねた彼はお目当てのbU.は裏の側線に錆と腐食の中に放置されているのに再開した。比較的良好な足回りを見て復元の見通しを確信して買収し、早速ニュージャージーに送り出す手配をしたのであった。正に、スクラップ商へ売り払われる直前での幸運の訪れであった。
そして3ヶ月掛かって、1963年9月末までに♯385と昔のサザン鉄道の番号に戻すとどうじに、石炭から重油焚きに変更し、併せてボイラーの煙管の更新などのオーバーホールも完成させたと云う。
そして、1964年にWhippanyの町に非営利団体のMorris County Central Railroad Museumが結成された。そして同時に旅客駅の傍にあったM&Eの貨物置き場の半分で鉄道記念物の展示を始め、次いで、CNJ(セントラル・レイルロード・オブ・ニニュージャージー)鉄道のの1915年製のこミーター客車が4輛、PRR(ペンシルバニア鉄道)の1923年製の木造車掌車f923を購入し、ペインテングがなされた。
そして博物館と連携してチューリスト列車を運行する商業ベースの営利会社である
“MORRIS COUNTY CENTRAL RAILROAD (MCC鉄道)”も設立されると、間もなくMCCに州から列車運行の認可が与えられ、伝統的なM&E鉄道の路線をツーリスト列車が走ることができるようになった。
1965年5月9日の日曜日がオープニングの日で、新たにペイントされた.385は4輛の客車と車掌車の処女列車を牽いて、300人を乗せてWhippanyとMorristowonの間を走った。
それは、「線路脇からイベントを眺めている人々の群れにとっても、また幸運にも列車に乗った旅人に取っても、あの特徴的なメロデックナ汽笛の優しい記憶が重ねられるうちに追憶を積んで行くのであろう」と“MCC物語”は語るのである。
そして、終末運行の列車は最初のシーズンを約3000人の人々が昔を偲ばせるノスタルジックな旅行を楽しんだ。この成功はニュージャージ州内での初の保存鉄道と云う栄誉も勝ち得た。
最初のシーズンが終わると彼は再びVBR鉄道を訪ねて、稼働状態にある“aD5”を買収した。これはアメリカ陸軍の入れ替え機.4039(0−6−0)で、ニューヨーク州のALCO社のSchenectadyで1942年11月製であった。到着後、直ぐに油焚きに変更され、b煬ウの♯4039に戻された。
その後1965〜73年の9年間大成功の日々が続いた。
1973年になると、MCCのツーリスト列車運行を含む全事業をニュージャージー州の北東に位置するNYS&W鉄道の廃線にあるニュー ファンドランドに移動すると云う野心的な決心をしたのであった。ここは美しい自然のある北ニュージャージーのPeguannock谷の新しいルートで、ここはNYS&W鉄道の廃線となっている25マイルの路線であった。それはジャージィシティからパターソンを経て,ペンシルバニア州までルートを持ったNY,S&W鉄道の幹線で、1Q71年の大洪水で一部の路盤を流失させてしまい修復を諦めたことで廃線となっていた所である。そこでハイウェイ23号沿いのニューファウンドランド〜ビーバーレイク間が借用されて新しいMCCの発展が約束されたのである。
1973年のシーズンが終り、12月になると移動する物は一列車にまとめられた。そして、直線距離で僅か18マイルの引越しなのであるが、CR(コンレール)の接続しているルートをたどると北廻りで100マイル、2〜3日の旅程で始められた大移動は、なんと4ヶ月も掛る雪の中の冬眠を余儀なくされたのであった。
M&E→EL(Erie Lackawana)→L&HR(Lehigh&Hudson River)→NY,s&wと、各社のルートを経由するので鉄道斜陽の頃インターチェンジは撤去されていたり、急に引越しの当日やって来た寒波はいつも使用していない分岐を凍らせたのである。1週間後にやっとたどりついたNY,S&WのSparta JCTでは,故障したaD385の修理を冬を通して行って,翌年4 月になってaD385 の音楽的な気笛が再び鳴るようになって、重連の引越し列車は最後の区間を走ったのである。踏切りではアスファルトに埋められたレールを掘り起こしたりした。深い切り通しの続くスパルタマウンテン辺りの峠を越えると,ビーバーレークに近ずいた.保存車輛の到着を待っていた地元の人々による祝賀会であった。重連の気笛は新しいホームグランドに鳴り響いてゆくと、感動深く“MCC物語”は語っている。
そして、1974年7月4日に再び運転を始めたのだが、やがて一日に3本物定期列車を走らせると云う盛況が続いた。しかし、1970年代後期の経済状態と繰り返されているガソリン不足はMCCの経営に影響を与え、1980年12月14日にツーリスト鉄道の運行に終止符が打たれた。今から考えると私がMCC鉄道を紅葉の季節に探訪したのは1978年の事であったのだった。
そこで、1980年代の中頃になって、州の依頼に応じたDO System(Delawar & otsego)と云う鉄道グループがNYS&Wの全廃線とMCCの残骸を買収して貨物サービスに蘇らせようとしていた。
その過程で、博物館はPequannock Valley Transportation Museum(PVTM)と改組してそんぞくした。
一方、オーバーホールと重大な修理を必要としていた♯4039は幾つかのく個人オーナーに所有されて数年を過ごしたが、1984ねんになって再起したMCCに買い戻されて活躍している。
また♯385は残念なことに留置中に横転事故に見舞われ、足回りが破損してしまった。そこでオーナーだったDOシステムは近くの工業大学の定置ボイラーの教材用として贈呈したことで、今もそれなりに生き延びて居るとのことだった。
その後、生き延びたPVTMは改めて鉄道博物館を開設する場所を求めていたのだったが、1983年の初めにWhippany町ににひどく破壊され、雑草に覆われた取り壊される寸前の古い建物を探し出して、所有者のM&E(モーリスタウン・アンド・エリー)鉄道から立て直す許可を取り付けた。そして、積載プラットホームや内外側の壁を復元した。
1984年にPVTMは“Whippany Railway Museum(フィッパニー鉄道博物館)”に再編成され、ツーリスト鉄道はMCC鉄道に戻った。1984〜85年で展示物の整備と修理工場の建設と鉄道機会の修理を終わらせた。1985年10月26日に開館し、aD4039の牽くツーリスト列車が発進した。
今度の路線はペンシルバニア州境の方向を目指して展開中とのことだ。その先のスクラントンには、世界最大のSLコレクションを誇る“スチー ムタウン USA”がバーモント州から移転して来ており、いずれ連携プレーも期待出来るのではないだろうか。
最近♯4039は国の歴史遺産として登録されたようであることだから、MCCのさすらいもこれで終わりと願いたいものだ。
撮影:1978年
発表:「レイル」誌・.16(1985年8月、夏の号。
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・「紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記」シリーズのリンク
201. 清らかな水辺の土手を走る♯4039
059. 紅葉の小さな
峠
を
登る♯4039
074.
DL&W鉄道のキャメルバッ
ク ♯
341
・ニュージャージー州