自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記:ニュー ジャージー州

059.  紅葉の小さな 登る♯4039


〈0001:〉
MCC ♯4039 小さな峠を登

《0002:元サザン鉄道♯385・コンソリデーション》
紅葉のMCC・aD38

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〈紀行文〉
 さて、1974年にスウィッチャー(入れ替え機)の♯4039と、コンソリの♯385との重連のオープニング列車で発足したMCCのニュー ファンンドランドにおけるツーリスト列車運転はNY,S&W(New NYork,Sesquehaanna & Western:ニューヨーク・サスケハンナ・アンド・ウエスタン)鉄道からリースした25マイルのルートの一部である隣のストックホルム駅との間の9マイルの往復運行で始まった。
このMCCのツーリスト列車の走るルートは多くの観光スポットが連続している所で、オークリッヂ貯水池(Oak Ridge Reservoir)の広々とした湖面を一望に俯瞰がきたり、樹木の生い茂った峠を、大きくカーブを描く“Horse-shoe curve(馬蹄形カーブ)”や、それに多くのSカーブや流れを渡る橋梁などを通り過ぎているからである。
その発足後は順調に発展し、7年目の最盛期には一日三本の列車が走ると云う盛況であったと云う。しかし1970年代の終わりの経済の低迷やバソリン不足の事態の影響を受けて、でいささか寂しいのが実情のようだった。
このモーリス郡の中央部の地形は、小さな尾根と谷が交互にて波のように東から西に並んでいる。ニュー ファウンドランドを出発した列車は、やがて丘を越えて次の谷に向かおうとする所に、ふりーウエイ 23号が線路をオーーバークロスしており、その跨線橋の上からはSカーブして峠を登るSL列車の力走シーンが見えるのだった。それは赤い車掌車のギフトショップで買った小冊子「MCC物語」の裏表紙に推奨されている撮影ポイントであった。その場所を求めて跨線橋の辺りをうろうろしていると、「ヘーイ」との呼び声にが掛かった。その方を振り向くと、西部劇映画から抜け出したような男が手にピストルを構えているたのには驚いた。そこで恐る恐る近寄ると、鉄道線路見回りのボランティアガードマンとのことであった。要するに、線路脇の土手は私有地だから立入らない方がよいとの忠告であった。一見して鉄道写真屋と判ってもらえるように大きな鐵道ロゴのバッヂのついたエンヂニアハットに、B&O(ボルチモア・アンドオハイオ)鉄道のロゴ入りのアノラックを着こんで、三脚をかついでいれば、大抵の場合にはは好意的に黙認してくれたのであったのだが、メガロポリスはケジメの厳しいのも、お国柄のせいなのであろうか。
フリーウェイを車で走ってみると、線路を見下すポイントは鉄板で目張りがされていて、写真撮影を拒否しているのであった。
そこで仕方がないので、跨線橋の脇の樹木に少しよじ登って撮った写真は逆光の美しい紅葉の中で♯4039が泣いているような出来栄えとなってしまった。
 それでも気を取り直して、フリーウェーに出て列車を追い掛けた。そこでは「フラッグ・ストップ」のシーンを再現して見せていた。アラスカ州の鉄道は旗を振ると、線路のどこでも停まって乗せてくれるシーンがTVのコマーシャルに登場したことを思い出した。MCCのニューファウンドランドとストックホルムのちょうど中間地点の辺りで、フリーウェーと線路とが平行になった所では遠くに巨大なオークリッヂ貯水池(Oak Ridge Res.)の水面が見渡せる地点に列車がやって来ると、天候の良い日に限り、一時停車を楽しむのが慣わしとなっているのだった。この湖の水はメトロポリタンの一角にあるニューワーク市民の飲料水となるとのことだが、この秋の雨が多かったためか、その水面は満々と水をたたえており、遠浅風の汀(なぎさ)はフリーウェイの堤防に近づいており、逆光に波頭が光って見えると云う次第であった。
そこは登り勾配の築堤の途中であったのに、列車は停車していた。そこで発進時のドラフトを期待して切り通しの蔭に三脚を据えては見たのだったが、出発の間際になるとボランティアの助手君はバケツに砂を入れ、レールに砂撒きを始めたではないか。
かすれたような気笛と共にゆるやかに出発して行ったのであった。短い列車はそれ程でもない勾配を登って小さな峠への最期の力走に入ったようであった。
今回のMCC訪問の終末は二台在籍しているSLのうち、♯4039が仕業の当番に当たっていた。そこで、この機関車の来歴の前半を紹介したい。
このカマはアメリカ戦争極の注文によって、American Locomotive 会社(ALCO)のSchenectady(スケネクタディ)工場が.70421として1942年に製造した。当時、世界第二次大戦中の極東、東アフリカ、ヨーロッパなどへ送るための入れ替え用SLが80輌(.4000-4079)がUSRA(a United States Railroad Administration)の仕様で作られたが、その仲間の生き残りの一輌が♯4039なのである。
その主な諸元は:
全長: 60フィート7インチ
ボイラー圧力: 190 ポンド/平方インチ
始業時の全重量: 270,500 ポンド
動輪直径: 44インチ
車輪軸配置:0−6−0
テンダー容量: 8 tons coal
6,000 gallons water
5000 gallons 燃料油、注記:1966年にオイル焚きに転換、元来陸軍の機関車にはオイル焚きの準備がなされていたから特別の事ではない。

戦後に軍に残っていた同僚機は次々と各地のしょーとラインへ払い下げられて行った。この♯4039はvbr鉄道(Virginia Blue Ridge 
Railway)へ1947年に売却された。このVBRの走る所は、アパラチア山脈に平行して南部までつながる大地溝帯の西にある「ワシントン国有林」の近くにあって、ワシントン〜アトランタ〜ニューオルリンズを結ぶサザン鉄道の幹線の小駅“Tye River"に接する僅か15マイルのショートライン鉄道であるが、メインラインからSLの消えた頃の鉄道写真ファンの集るショートラインのメッカでもあった。その理由は0-6-0の車軸配置をしたアメリカ軍用の入れ替えよう機関車で、戦地に行き遅れてしまった二輌が健在しており、勾配線を短い貨物列車を従えて、Sカーブを登る情景で有名であったからである。このような標準軌の小型機が定期貨物サービスを行っているラインは既に貴重な存在であったからである。
15年後に、4039は"5"に改番され相変わらず貨物サービスを引退する1963年まで続けていた。
そしてvbrからMCCへ移って来たのは1965年のことであり、その後多くの苦難を乗り越えて現在2008年にはMCCで相変わらず活躍しているとのことだ。
 追加で展示した二枚目の写真は、
今度のMCC訪問では遂に顔を見せなかった元サザン鉄道のクラシックなコンソリデーションbR85の写真を紹介しておこう。残念なことに、「MCC物語」で再三語られているメロデックな♯385の汽笛が特徴と云うのだが聞くことはできなかったが、売店で求めたカラースライドには紅葉を背景にPeguannock河橋梁をを渡る♯385のサイドビューが含まれていたのでここに付録としてご披露しておいた。
このSLは元サザン鉄道のクラス H−4の2−8−0で、フィラデルフィアのボールドウィン機関車工場(BLW)で1907年11月に製造された20世紀初頭の貨物用こんそりデーションの古典機なのである。1952年にバージニア州にあるVBR鉄道(Virginia Blue Ridge RWY:バージニア・ブルーリッジ鉄道)に売却され、貨物機として活躍した。
その頃ここには 0-6-0 のアメリカ陸軍の戦場に行かなかった入換機が,2輛健在で勾配線を短い貨物列車を従えて、Sカーブを登る情景で有名であった所である
そして1964年にMCCはスクラップに処分される寸前の♯385を買収して、復元に成功した。その後幾多の紆余曲折を経た現在、不幸なことにMCCが閉鎖の危機に瀕していた時の留置中に横転破損してしまったようである。ここのNYS&Wの路線を買収したDO(Delawar & otsego)システムは♯385を近くの工業系大学での据え置きぼいらーの実習教材用として提供したとの情報が、1998年の消息として“southern 385”ノインターネット上で報じられていた。

撮影:1978年
発表:「蒸気機関車」誌・グラビア「アメリカ東部のけむり」・掲載号?

二枚目の写真:
撮影:1977年、MCCニューファウンドランド売店で入手したカラースライド
発表:「レイル」誌・aD16(1985月8月、夏の号)

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・「紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記」キリーズのリンク
201. 清らかな水辺の土手を走る♯4039
160. ストックホルム駅での♯4039の転線風景
−−さすらいのMCC鉄道−−
074.   DL&W鉄道のキャメルバッ ク ♯ 341 ・ニュージャージー州