自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記・ニュージャージー州」
074.  DL&W鉄道のキャメルバッ ク ♯  341

〈0001:〉
キャメルバッ

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〈紀行文〉
 これは私の撮った写真ではない。このSLを造ったロジャース機関車工場の竣工写真の一枚であろうか、その昔の機関車組み立て工場を保存しているグレート・フォールズ博物館から提供してもらった写真なのである。実は1981年秋、北ニュージャージーのモリス郡にあるモーリス・カウンティ・セントラル(MCC)と云う保存鉄道を訪ねた時に、直ぐ近くにあったパターソンの博物館を訪ね損なってしまうと云う失敗をしてしまい、後にレイル」誌にMCC鉄道探訪を書く段階になって、この博物館の好意に甘えて資料を送ってもらった中に、この一枚の写真が入っていた。これはアメリカにしかない“キャメルバックちょCamelback:らくだの背中)式”のDL&W(デラウェア・ラッカワーナ・アンド・ウエスタン)鉄道のbR41コンソリデーション(2−8−0)、1907年製であったのには驚かされた。日本の一鉄道ファンからの願いなので珍しいキャメルバックだったのか、はたまたこの地方に関わりの深い無煙炭との関係で選ばれたのであろうか。
 さてこの、SLの運転台は車体の中央部、ボイラーにまたがって置かれている奇妙なスタイルだが、その理由は機関士の前方の見通しを確保するための工夫の結果であることを知った。それはこのSLが細かい無煙炭屑を燃やすのに適した“ウーテン(Wooten)式火室”と云う巾が広くて背の高い火室を採用したから、通常の方法では機関士は前方を十分に確認することができなかったからである。この発明は1860年代からフィラデルフィアのレディング鉄道の動力責任車J.E.Wootenさんであった。彼は山のように積み上げられている廃棄物と呼ばれた細かくなった無煙炭屑を見て、何とかこれを燃やす方法を工夫すために、幾つかの実験をした結果、広くて大きな火室を用いて、石炭の層を薄くし、穏やかな通風でゆっくり燃焼させるのが最良の方法であることを結論、新しい火室を発明した当時のSLの火室は、左右に二つあるフレームの間に収めるために、細くて長い形をしていた。火室を従輪で支える方法は、まだ開発されていなかった。そこでウーテンは、必要とされる巨大な火室を、動輪の真上に置いたことから、キャメルバック式となったのである。最初の実用化は4-6-0型で1877年に行われ、年間2000ドル(現在なら三万ドル)の燃料費節約と云う大成功を収めた。この方式は馬力があり、ほとんど煙を出さないので旅客列車に好まれ、合計約3000輛が造られると云う盛況となった。
所が時代が下って、安全思想が尊重されるようになると、運転台がちょうどサイドロッドの真上に位置しているので、足回りの破損事故への懸念が論じられて、1927年キこの形式の製造が禁止された。それには自動給炭装置(ストーカーが発明されたこともあったろう。現存するのは三台のみが展示保存されている。
 さて、ここに登場したDL&W鉄道の341は1907年、Rogers製であり、貨物サービス用として活躍した。
シリンダーの直径・ストロークは21X26インチ、動輪径50インチ、ボイラー圧は200ポンド/平方インチであると云う。
 実は、このDL&W鉄道は単にLackwana(らっかわーな)とも呼ばれており、北東ペンシルバニアに産出する無煙炭のハドソン河への輸送を目的に1853年に創業した古い伝統のあるかいしゃで、ニューヨーク市の対岸に壮大なHobokenターミナル駅をを建設、バッファロー、ナイヤガラ行き特急列車を走らせた。特にキャメルバック式SLによる無煙炭を燃料とすることを守り、そのクリーンな鉄道のイメージ広告を白いウエディングドレスの娘を使ったと云うユニークさで知られる。1960年にErie鉄道とと合併してErie-Lackwana鉄道となり、その後の破産によってCR(連合鉄道)の中に消えた。
 この背景の建物は今、Great falles 歴史地区の本部となっている元ロジャースの機関車組み立て工場のものであり、通りに面した13の観音式扉から完成した機関車が馬にひかれて出場し、町の外で試運転をしたと伝えられる。また前庭には1976年にパナマ運河建設から里帰りした.299(2−6−0、1906年製)が展示された。
 この博物館のあるパターソンは今はニューヨークの北西27kmの近くにある衛星都市であり通勤電車の終点でもある。ここは大西洋岸にほぼ平行するアパラチア山脈の裾が海岸平野に移る辺りに当たり、パセイック(passaic)河が高さ23m、巾84mのGreat falles(大瀑布)となって流れ下っている名所で知られている。1792年、独立戦争が終って、東部にはアメリカ文化が開花し、西部開拓の躍進が始まろうとする時代であった。当時のニューヨークの有力者たちは自給自足のできるアメリカ製造業の設立を大英帝国からの経済的独立を旗印にして運動を始め、大都会に近くて水力に恵まれ、しかも西への港にも近いパターソンの地を選んで計画的工業団地の建設をめざした。それは滝の上流から水を引き、動力を取り出すための水路システムを上中下の 3ブロックに作り、河に水を戻すもので、この間に水車・タービンで動力を地下室で得て、その上の二、三階を工場とするプランであり、当時唯一の綿布製造業であったP.コルト氏の手で推進された。この計画は大いに注目を浴て大量生産の技術を身につけた人、事業を志す人、また安い良質な移民労働者達が集って来て発展の道を歩み始めた。そして先ず最初に発達したのは綿紡織で、その紡績機や織機などの機会の修理や製造を兼ねながら発展した。また北部ニュージャージーには鉄鉱石の鉱脈が見つかり、豊かな森林資源を使った木炭製鉄が起って銑鉄の生産が進み、更に無煙炭の産出も豊富となり、それらの資源をパターソンヘ輸送するためのMorris運河などが開通して発展を促進した。1821年には西部の男たちを支配することになるコルト・レボルバー拳銃が発明され、コルト一族の機会工業の開花への貢献ははパターソンの基盤となった。やがて機械技術を駆使するSLの建造と云う頂点に達した。T.ロジャースの下で腕を磨いた技術者達が独立して、四つの機関車工場が活況を呈し、パターソンから造られたSL数は13,500輛余で、Rogersは製造台数の6321輛もさることながら、技術革新の面でもアメリカをリードしたのが19世紀の半ばであった。
その他にライト兄弟の飛行機のエンジン製造は、大西洋横断の“スピリット・オブ・セントルイス”機のエンジンとしてしられ、次に1839年に始まった絹織物の生産は豊富な水を利用した優れた染色をはぐくみ、最大の消費地ニューヨークをバックに“Silk city of the world”と呼ばれるまでに発展した。1976年に史蹟として登録され、1833年建設の渋いレンガ造りのRogers機関車工場のの総組立工場を中心に、60余の工場群が保存され、Great Falles 歴史地区博物館となり、他のアメリカ労働博物館とパターソン博物館とを合せて歴史が語られている。さて、T.ロジャースは、ニューヨークから小さな農村であったパターソンに大工の技術を身につけてやって来た。そして型の製作から機械の修理、綿織物と機械の製造に乗り出し、工業団地の一角に二階建の工場を持つようになった。鉄道がパターソンにハドソン河岸の港、ジャシー・シティからやって来た1832年に、R,K&Gと云う会社を興して、パターソンに来る鉄道の橋を二カ所受注したり、サウスカロライナ鉄道から車軸100セットを苦心の末に練鉄のタイヤをはめたものの製作に成功して納入した
。P&HRパターソン・アンド・ハドソン河)鉄道はイギリスのスチーブンスンから“MeNeir”号を1833年に輸入し、港に到着した機関車の組立と試運転にもロジャースも参加していた。その時に見ていたロジャースの下で働いていた機械屋のW.Swinburneは、その後、機関車の製造に手を染めたロジャースを援け、18ヶ月に及ぶ苦闘の末、第一号を完成したのは1837年のことである。P&HR鉄道の4フィート10インチに合わせて作られた試作機は見事に走り、
オハイオ州のMud River & Lake Erie鉄道に買収され、“Sundusky"と名ずけられた。これには多くの特徴を有し,ロジャースの天才ぶりをうかがわせている。それには、内側シリンダー配置、動輪径46、先導輪36インチ、クランクのカウンターバランス(特許)、空中設計の動輪とクランクとスポークの一体
、ボンネットタイプの火の粉止め煙突、フレーム外側の偏心軸のバルブギヤー、スチーム気笛などのの採用であると云う。そして1854年には103輛に達した。
1845年技師長であったSwinborneは独立してSwinborne,NewjerseGrantと発展する。後継者はJ.クックで6〜7年技師長を務めたのち独立Danforthの創立、これを引継いでCooke、ALCO-Cookeと発展してゆく。その後、
関車の納入などで交際のあったAttica & Buffllo鉄道の技師長のW.ハドソンを迎えた。イギリスのスチーブンスン仕込みの技術者でRogersの黄金期を築いたー人である。特に先導トラックによる第1動輪のイコライジングの発明、スチーブンスンのバルブギヤーの改良など広く技術に功献した。ロジャースの死後はその凋落ぶりは著しく,ALCO に吸収され、1913年に機関車の製造は終わった。しかし、Rogersの創出した4−4−0の“Generalはテネシー州のチャタヌーガにほぞんされており、また“mougal”の車軸配置も、その偉大な記念碑として光っている。

提供:ブレート フォールズ博物館、パターソン市)
発表:「レイル」誌・.16(1985年8月号

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・「紅葉のモリス・カウンテイ・セントラル鉄道訪問記」キリーズのリンク
201. 清らかな水辺の土手を走る♯4039

059. 紅葉の小さな 登る♯4039

160. ストックホルム駅での♯4039の転線風景
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