自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|  HOME  | SL写真展 ( INJEX )  | 田辺のリンク集 |
(メールは上の  SL写真展 ( INJEX )  にある送付先へドウゾ。)

…………………………………………………………………………………………………

・フィラデルフィア鉄道紀行(ペンシルバニア州)

134. フィラデルフィア 三十番街駅を訪ねて


〈フィラデルフィア 30番街駅遠望:ポストカードより)〉
フィラデルフィア 30番街駅遠

〈私の撮ったフィラデルフィア三〇番街通り駅近景〉
フィラデルフィァ 30番街駅舎スナッ

…………………………………………………………………………………………………
〈紀行文〉
 この度はデラウエア河畔にあるペンシルバニアの軽井沢とガイドブックに紹介されているニュー ホープの町に息づく保存鉄道を探訪する前哨戦として、少々転向が悪かったのを押しのけて、三十番街駅(30th Street Station:30番通り駅)を訪ねることができた。
フィラデルフィアの町はデラウエア河の西岸に五番目のように整った都市が広がっていて、デラウェア河を挟んだ東岸はニュージャージー州のキャメデン(Cameden)で、フィラデルフィア国際空港もここにあって、船の出入りが可能な高さの橋が両岸を結んでいる。フィラデルフィアのダウンタウンの中心に豪壮な姿を誇る市役所(City Hall)があり、ここから南北に延びる大通りが “Broad Street”で、東西に延びる大通りが“Market Street”となっていた。南北の通りはデラウェア河のリバーフロントを東から番号で呼ばれており、14番目に相当するのが Broad Street であって、これだけが名前で呼ばれている。南北の通りは全て前が付けられていた。
先ず、ダウンタウンの中心カらMarket Streetを西へ15ブロックほど進ンで、スクールキル(Schuylkill)河の深い谷を渡った直ぐ先に30番街駅があった。云わば町外れなのだが、高速道路の出入り口、鉄道線路の交錯している様子は地上からは判らなかった。
地図をたよりに駅を一周すると、Market Streetに面する駅を見たら、四ブロック進み、ここを左折して、34th Streetへ出てから、一ブロック進む。次に左折してChestnut Streetに出て、3ブロック進むと31st Streetに出ると駅は間近であった。確かに、縦 213メートル、横 99メートルと云う巨大な駅舎が中心となっていた。
そして、やっと見つけたアングルから撮った この私の写真の位置関係を説明するのはお許し願いたい。どうも裏側の駐車スペースから撮ってしまったのに気がついたのは後の祭りであった。そこで、ポストカードから拾った写真をお目に掛けた次第なのである。
 この1933年に完成した純然たる駅は、その頃流行し始めたオフィスビルと駅との組合せや、モダーンなデザインを誇るPRR好みの様式でもなかった。実は、当時のPRRでは、アメリカの工業デザイナーの巨匠Loewy Raymondの手になる流線型の電気機関車 GG1タイプを登場させて注目を浴びていた時代なのに、この駅本屋は古めかしい荘重なギリシャ建築風にデザインされており、大理石作りに見えたのであった。そして、これはフラィラデルフィアとPRRの繁栄を象徴する出来栄えだと賞讃された建物であったのである。現在、1910年に完成したニューヨークのペン駅の建物が失われてしまったので、現役のAmtrak(アムトラック:アメリカ旅客輸送公社)が使用している昔の大PRRの雰囲気が感じられる数少い例となってしまった。
その本奥の外観様式は、最も典型的な ネオ古典であって、東と西の側面の入り口を形作るアラバマ産大理石造りの高さ71フィートのギリシャ風の円柱列(Corinthian columns)は強い印象を与えてくれたる。
この駅は地形を利用して掘り割りに線路とプラットフォームを設けて、その上に巨大な駅舎を建設しているのだが、この地下鉄のような閉ざされたホームの環境を好ましく保つことも目的の一つであったのだろうか、この駅の完成と同じ頃に New York, Philadelphia, Washington ,Harrisburg などの幹線を交流電化する計画も進められており、実際に1935年3月にはニューヨーク〜フィラデルフィア〜ワシントンを走る“Congressional Limiteds”(議会特急)をPRR 自慢の流線型 GG1タイプの電気機関車が牽引して処女走行を行ったと云う。
 さて、この三〇番街駅が作られる契機となったのは、三大鉄道が乗り入れる大都会のフィラデルフィアにふさわしい便利性の高い“ユニオン ステーション”の建設計画が20世紀初めの世界恐慌と云う経済不況のあおりを受けて中止となってしまったからだと云う。そこで、それに至る鉄道の歴史を振り返っておこう。
18世紀が始まる頃には、もう西部開拓のフロンティアはミシシッピー河に向かって西進しつつあったが、既に開拓された農業地帯で収穫した農産品を東海岸へ、フィラデルフィアからは西部で必要な農業機具や日曜品、そして欧州からの新たな移住者たち西部移動などと云う相互交流の需要が高まって来ていた。そこで、より経済的な交通路手段の獲得を目指して北のニューヨーク州、南のメリーランド州に挟まれてペンシルバニア州もその戦陣争いにしのぎを削っていた。
そこでペンシルバニア州ではPhiladelphia から州との Harrisburgを経て、州を横断して アパラチヤン山地の西側に位置するPittsburghに至る鉄道と運河を組み合わせた“Main Line ”を1834念に開通させた。これは、フィラデルフィアから州の中央を流れるサスケハンナ河畔のコロンビアまでの82 マイル(132 km)をPhiladelphia & Columbia Railroadを建設し、当初は馬車軌道で、やがて蒸気機関車による貨客輸送を行ったが、後にルートがフィラデルフィアから同じサスケハンナ河畔のハーリスバーグへ至る短縮ラインが開通した。続いてコロンビアからはサスケハンナ河と支流のジャニエタJuniata()河に沿ってアパラチヤン山地の麓までの170マイル (273km)のEastern− Juniata Canal(東部運河)を開通させて、分割すれば貨車に載せることのできるように工夫された運河ボートを運航した。そして峠越えには、馬車軌道とケーブルを用いたインクラインによって、分割した運河ボートを積んだ貨車を引き揚げると同時に、引き降ろして通過させたのが Allegheny(アラゲニー) Portage Railroadであって: 36マイル (58 km)の距離を制覇していた。そして再びWestern Canal(西部運河)によって 103マイル (166 km下ってオハイオ河畔のピッツバーグに達すると云う複雑なシステムであった。
やがて、隣のニューヨーク州は開通して稼動していたエリー運河とは別に、蒸気機関車を使った鉄道の建設に走り、元々馬車軌道で進めていたメリーランド州では馬車力に変わってアメリカ国産の蒸気機関車を開発してスピードアップを進めていた。
それに対して、ペンシルバニア州の(メイン ライン」では、乗り換えの多さと手煩雑な運航の捜査、危険なインクライン、それに何よりも遅いスピードなどの点で劣勢は拭えなかった。そこで、急遽、新鋭の鉄道をHarrisburgから Pittsburghまでを同じルートを経由して建設するための「ペンシルバニア鉄道(Pennsylvania Railroad:PRR)を地元経済界と共に1846念に設立した。やがて、この西部メインラインは1854念に開通して、その威力をいかんなく発揮するようになった。続いて、PRRは既に活動している多くの小鉄道を買収したり、新鮮を延長してニューヨーク〜フィラデルフィア〜ワシントン間、ピッツバーグ〜シカゴ間などの幹線を開通させて大PRRに成長して行くのであった。
そのPRRの路線網の中心であるフィラデルフィアの駅として“Broad Street駅”が1881年に建設されていたが、やがて1883年には拡張された二代目が完成した。この駅はPRR本社ビルを付け加えた建物で、本屋の裏には16本の線路と板張りのプラットホームがある終端式の構造であって、これには当時世界最大と云われた幅91メートルの大鉄傘のホーム屋根れ覆われていた。この駅への進入は西から街の中へ4階建に相当する高さの石造り高架堤に線路を経由して発着していた。
やがて鉄道黄金時代の1920年代になると、フィラデルフィアを経由する列車のほとんどが、途中駅として停車する形となり、それに列車の高速が求められる時代に入りつつあった。そして、競争相手の ニューヨーク セントラル(NYC)鉄道が、ニューヨーク〜シカゴ間に『一十世紀特急』を走らせると、それに対して、PRRも『Pennsylvanian』の運行を始めた頃であったから、この終端式駅に出入りするための片道4分間は、列車時刻設定上のネックとして浮かび上がった。それに加えて、この終端式駅の運転能力の限界に達しようとしていたこともあって、ニューヨーク、ワシントン、ピッツバーグ(シカゴ)の三方向への発着に便利なユニオン駅(PRR,Reading,B&Oの共同運用)に、全ての旅客列車を集中する構想がスタートした。そして、ダウンタウンを西へ行った所に広大な用地が用意された。
 一 方、近郊旅客輸送は路面電車(ストリートカー)のみならず、都市間を結ぶ大手鉄道会社によっても行われていた。これらの輸送の始まりは古く、1832年、フィラデルフィア・ジャーマンタウン・ノリスタウン鉄道(後に、Reading鉄道に入る)である。その後、PRRも近郊旅客サービスに参入したが、両者の路線には一部重複もあり、様々な形で競争が繰り広げられ、特にフィラデルフィアでのターミナル駅の建設競争は特徴的であった。PRRでは、先に述べたBroad Street駅を15th street と Market Streetに建設していたが、その後1928年に、それより1ブロック西に、既に電化していたインターバンの通勤通学列車用の地下のサバーバン駅を完成させた。これは20階建てのアールデコ様式の本社ビルと地上一階の豪華な入り口を誇っていた。
一方のレディング鉄道は1893年に12th street とMarket Streetsにターミナルを建設した。これは1階が5000平方メートルにも及ぶ巨大な小売マーケット、2階が列車ターミナルとなっている構造で、大規模な商業施設を併設した駅の先駆けであった。それが1984年に地下式に建て替えられると同時に、通勤通学列車を地下鉄方式でPRRと連絡するプロジェクトが開始され、PRRのサバーバン駅は終端式から通過型へ改良されて直通運転が始まっている。このようにPRRでは1928年にインターバン用の駅を予め先に開業させて、長距離列車と近郊列車との分離を果たして準備を進めていたのだったが、直後に襲った第一一次世界大戦後の大経済不況の影響を受けて、1929年にユニオン駅新設計画は中止となってしまった。そこでPRRではフィラデルフィア発、または終着列車のみをBroad Street駅で扱うことにして、ユニオン駅予定地に PRR 独自の“三十番街駅”を建設して、その他の長距離列車を取扱う計画に縮少して実行した。そのシン駅の位置は
スクールキル (Schuylkill )河の岸、ブロード街駅への線路が分岐する地点で、長距離列車が直通できる通過型の構造が容易に得られる所であった。それ故に、残されたBroad Street駅では、フィラデルフィア発着の長距離列車のみを扱っていたが、やがて1952年には廃止され、跡地はフィラデルフィア都市再開発に利用され、あの有名なBenjamin Franklin Parkwayなどに生まれ変わった。もちろん、Broad Street駅正面だけはビクトリア調の古典的尖塔をもったままの形で保存されているとのことである。

撮影:1981年
発表:「レイル」誌・1985年冬の号

…………………………………………………………………………………………………
・フィラデルフィア鉄道紀行(ペンシルバニア州)リンク
125. Reading 鉄道 “Rocket” (フランクリン科学博物館)
126. Baldwin aD 60000. (フランクリン科学博物館)
132.フィラデルフィア 三十番街駅のロビーとペンシルバニア鉄道戦争記念碑