自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・フィラデルフィア鉄道紀行(ペンシルバニア州)
125.
Reading 鉄道 “Rocket”
(
フランクリン科学博物館
)
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〈紀行文〉
東部、大西洋海岸でニューヨークに次ぐ台都会で、周辺を入れると優に5百万人を軽く越える人口のある大都会のフィラデルフィアがある。私の駐在していた中西部のデトロイトやオハイオ州からフィラデルフィア空港へ飛んで、ニュージャージー州や東部ペンシルバニアに散在するツーリスト鉄道を訪ねたことが度々あったから、何とか都合をつけて現役の旅客駅である三十番通り駅や展示した巨大な蒸気機関車を動かしてみせていることで知られるフランクリン科学博物館を駆け足で訪ねて見たことがあった。
ここはデラウエア河の河口に近い西側の岸に位置しており、1600年代に欧州からやってきた移住者たち、オランダ人、ぶりてぃん(イギリス)人、スエーデン人などが「たばこ」の栽培や交易の港のある植民地を開いたのが始まりである。そこにはイギリスからやって来たクエーカー教徒のウイリアム ペンWilliam Penn)さんは、彼ならではの流儀で、例えば親しみの表情と平和を約束する上での相互理解と協力を原住の人々から取り付け、土地を売ってもらって、彼の植民地を広げて基礎を築くことに成功した。
やがて、1681年になってイングランド王国のチャールス II世から免許を得たペンさんは、いずれペンシルバニアとなるイギリスの植民地を創設した。その背景には、イギリスで迫害に遭って苦労しているクエーカー教徒たちの安住の地を求めていたことと、一方のイギリス国王は軍艦の基地を必要としていたと云われる。
所で、このクレーカー教と云うのは、17世紀にイギリスで誕生したプロテスタントの一派で、神との直接の交信を重じ、体を震わすのでその名が生れたのだが、彼ら自らは「キリスト友会(ともかい)」と称し、同志を「フレンド」と呼んでいる。一般に平和集団とされ、全信者に向けた経典や正式な教義箇条のようなものはないが、最も中心にある考えは、「内なる光」であり、それぞれの信者に力を導き、数通りの方法で理解されているものであるが、「証言(Witness)」、「信仰的証し」の意)と呼ぶ幾つかの主要概念の発展につながっている。証言には平和・反戦、男女・民族の平等、質素な生活、個人が誠実であること(正義などが挙げられている。イギリスを逃れてアメリカのイングランド地方を目指したが、先住むしていたピューリタン(清教徒)には歓迎されず、南下してデラウエア河谷の辺りに定着したとされる。日本へも明治時代にアメリカから布教に来ている。
彼は誰でも自由に働き暮らすことができる社会の実現をめざし、その中心の港町の名前を付けるに当たって、原住民ノ酋長との友情関係の証として、"love"、または "friendship"を意味する「philos」と"brother"を意味する「 adelphos」を組み合わせた“brotherly love(同法愛)”を意味する“Philadelphia”と名づけた。この地は気候も良く、土壌も肥沃なことから人口も増大し町は益々拡がり、欧州との主要貿易港としても大いく発展した。そして1701年には市制をしいて、そのニックネームは"City of Brotherly Love"と呼ばれた。
1750年代には、ここの市民で印刷機の発明や凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにした物理・気象学者であり、革新的考えの政治家となった ベンジャミン フランクリン(Benjamin Franklin :1706-179)さんは植民地初の病院を設立した。そして数多くの独立戦争の激戦がこの町の周辺て行われた前後から、彼は独立に対して数多くの貢献を果たした。それにより、このPhiladelphiaは多くの植民地の中の主要都司でもあったことと、しかも大西洋岸の植民地群の中央部に位置していたことから、大陸国家建設の会議地となり、次いで独立宣言、憲法発布の地の役割を果たした。そして1790年代は新制アメリカ合衆国の首府として国作りの中心地となって繁栄を続けた。
やがて、18世紀に入って西部開拓のフロンテアーが西へ進むにつれて、北のニューヨーク州、南のメリーランド州と共に西部への経済的交通路の開発競争にしのぎを削ることになる。ペンシルバニア州は中央を流れるサスケハンナ河沿いに運河を開削し、アパラチヤン山脈の西側はオハイオ河の支流のアレゲニー河沿いに運河を開削して、両者を峠声の鉄道馬車とケーブルカーを使ったインクラインによって運河用ボートを分割して輸送すると言う「メインライン」をいち早く完成した。引き続いて発達する鉄道の導入にも積極的で、イギリスからの技術の輸入と、自前での発展に主導的役割を果たしている。
特に「メインライン」を鉄道により近代化する事業は州を挙げてペンシルバニア鉄道が設立されて推進された。一方、フィラデルフィアと周辺の都市には多数の鉄道が勃興し、やがてそれらの鉄道を集大成したreading鉄道が隆盛し、ダウンタウンに巨大なターミナル駅を設けた。一方、それらの鉄道と競合して発達したのが路面トロリー網で各方面への60もの路線に4000輛余りが頻繁に運航して近郊との連絡する一時代を作った。
さて、イギリスで発明され発達しつつあった鉄道の技術は、たちまち移民と共ににアメリカに輸入された。フィラデルフィァではいち早くこの技術を導入して実用化する一方、自らの手でアメリカの風土に適した鉄道技術を開発して、西部へ展急速に転身する開拓のスピードに合わせた鉄道の発展に貢献することになる。その代表がフィラデルフィア周辺に興ったた蒸気機関車の製造で Matthias W.、Baldwin、Richard Norris、Garrett 、Eastwickなどが数えられたのであった。そのような歴史的バックグランドを持つことから、「フィラデルフィア生まれの技術」を集めて具体的に表現して閲覧させる博物館の設立の話が持ち上がった。アメリカの独立に多大な貢献をした政治家、科学者であるベンジャミン・フランクリン さんの名誉をたたえて、その名を冠したフランクリン科学博物館(The Franklin Institute Science Museum)がフィラデルフィア100年祭を機に実現し、1933年にダウンタウンの一角に高さ90フィートの大理石の柱の並んだ荘重な博物館が完成した。そこには実際にスウメートルではあるが移動させてみせる巨大な蒸気機関車の展示が有名であったのだった。
1981年、もうシーズンの終わりに近い晩秋に、まだ撮れていない 2−10−0 の“dcapod” ♯90ををねらって3度目のストラスバーグ鐵道を訪ねた。出発が遅かったのでフィラデルフィア空港に付いたのは正午に近かった。そこでストラスバーグ行きは明日のこととして、フランクリン科学博物館を先ず訪ねることにした。
ダウンタウンに入ると、さすがに歴史の街、その象徴である多くの歴史遺産が眼に飛び込んでくるのを払いのけて、一目散に博物館に飛び込んだ。ここでは、フィラデルフィアを代表する新旧二つの蒸気機関車をご披露したい。
《 Reading ♯1 “Rocket”》
この博物館の六大展示コーナーの1つは「鐵道ホール」と呼ばれていたが、最近「TRAIN FACTORY」と云っているようだ。
先ず、Reading 鐵道の“Rocket”から展示が始まっていた。
この機関車は1938年にイギリスから輸入された第一号きかんしゃで、鐵道馬車から転換して、1839年に開通したREADING鉄道のREADING〜POTTSTOWN間に使用されたと伝えられる。当初は0-2-2 の車軸配置で、動輪直径49インチ、シリンダー:10.5" x 16" で、自重 8.4トン、石炭焚きであった。フレーム内側に配置したシリンダーにより動輪軸のクランクを回転させた。多管式のボイラーは前方のフレーム上に載せ、その後ろのの火室はフレームの外へハングしている形となっている。
その後、まもなく先導代車が着けられて、4−4−0となり、1879年まで続けて使われ、合計310,164マイルを走破した記録が残ると説明があった。
現在は輸入当時の姿に復元されている。
この機関車はロンドンの Braithwhite, Milner & Co. が1838年に製造した。こに名を連ねている Braithwhiteさんは、1929年のイギリスで開かれた「Rainhill Trials」で知られる鉄道馬車に替わる蒸気機関車の走行コンペで次位を勝ち得たひとであった。その時は、Stephenson兄弟の制作した“Rocket”が優勝したが、BraithwaiteとEricssonの共同制作のNoveltyが次位であったのだった。このJohn Braithwaiteさんは、その後に蒸気機関車工場を興して多くの優れた機関車を世に送り出している。アメリカに渡った彼の機関車が、あのコンペで先を越した“Rocket”の名で呼ばれていたのはいかにも皮肉とも思えるのだが。それは、ペンシルバニア州と隣のニュージャージ州との鐵道人たちの「メンツ」の張り合いも関わって居るように思うのだが。実は、フィラデルフイアの街のデラウェア河の対岸はニュージャージ州であるが、ここのcamdem の街からニューヨークの対岸に当たる Amboy の港町に通じる CAMDEN & Amboy 鉄道では何から何まで、レールも機関車も、イギリスから輸入して建設を始めており、Stephenson製の“Rocket”号の子孫たちが早くも1831年には輸入され、“johon Bull”などと名付けられて成功裏に走り始めていたからである。
さて、この辺でreading 鐵道の活躍していた東部ペンシルバニアに付いて述べておこう。
大西洋岸に沿うって並行に南北に連なるアパラチヤン山脈が連なっているが、そこに深く源を発して流れ下る大河として、来たのニュージャージー州との州境となっている Delaware(でラウェア)河、そして
ペンシルバニア州の中程を流れ下るサスケハンナ河があり、その中間にやや全長が130マイルと短い Schuylkill 河が東流してフィラデルフィアの街でデラウエア河に合流している。このSchuylkill 河の作る谷筋に並んでいる Philadelphia、 Norristown、Pottstown、Reading、Pottsville などの都市群こそが Reading 鐵道の活躍の舞台なのであった。この谷の上流のBroad Mountainで猟師のNecho Allenさんがキャンプをしていた1790年に、焚き火が anthracite (無煙炭)んの露頭に着火したとが、その発見の伝説である。既に、この谷に入植していたドイツ人たちの手で無煙炭の採掘が始まり、1735年頃から始まっていた溶鉱炉による木炭製鉄と共に発展した。そして、それらは馬車や舟運でフィラデルフィアへ運ばれるようになり、やがて運河、鐵道馬車などの発達をもたらした。そして川沿いには多くの街が出現し、水力を利用した製粉、製材、鉄工所などの各種の工場、そして機械や織物などの産業の発展と進んだ。これらの発達から南東ペンシルバニア地域の産業革命のリーダーとなった。この地域の鉄の生産と兵器の製造は独立戦争から南北戦争に偉大な力をはたしたし、やがて鐵道の開通と共に無煙炭のビジネスは巨大となり、汽船用燃料として珍重され莫大な利益と資本をフィラデルフィアにもたらしたのであった。その無煙炭の採掘から、輸送、販売、製鉄に至る事業を一手に納めたのがPhiladelphia and Reading Railroad(P&R鐵道)の発展したReading会社であり、世界に君臨したとも云われる。
この谷筋への鐵道建設の動きは1829年から始まり、先ず馬車軌道がつくられつつあった。そして1838年になると、既に「メインライン」の一部として開通していた Philadelphia and Columbia Railroad(P&C鐵道)のフィラデルフィアから4まいるの地点を接続(起点)として、Readingに向かって建設が始められた。路線は Schuylkill河を越えて、西岸を北西に進んだ。そして、Flat Rock Tunnelを掘削して、1842年までにはフィラデルフィアからPottsvilleまでの94マイルをかいつうさせ、旅客/貨物サービスヲ行って、原材料、無煙炭、その他の製品の市場へのアクセスを容易にした。この間に通過する町々は、 West Manayunk, Gladwyne, West Conshohocken, Bridgeport, Valley Forge, Phoenixville, Royersford, Pottstown, Reading であった。最初の蒸気機関車は前述の"Rocket,"であり、次の蒸気機関車は、フイラデルフィアのEastwick & Harrison社が1839年に製造した“Gowan”と“Marx”のと呼ばれた貨物用きかんしゃであった。
発明したばかりの先導台車が採用された4−4−0の車軸配置を持った自重10トンの機関車で、平均時速25マイルを出して、自重の40倍の貨車をを牽引できたほどの強力機であったと云う。たちまちのうちに、鐵道はこの谷筋に大変な利益をもたらした。そしてデラウエア河畔の港へのRichmond支線を開通させ、1843年にはあめりか鉄道史最初の複線のメインラインを完成させるほどの隆盛であった。そして1850年には この地域で最も古いPhiladelphia, Germantown & Norristown Railroadと連携して旅客列車を走らせた。
その他の無煙炭地帯にあった小鉄道を支配下に収めて無煙炭輸送の独占体制に入った。更に周辺の都市間の大鉄道との連携したサービス網の拡大は、Williamsport, Harrisburg, Gettysburg,allentown、Wilmington New Yorkにまで達した。1893年にはフイラデルフィアのダウンタウンにReading Terminal駅を建設し、ここから次のような特急旅客列車が発着した。
"Black Diamond" to Allentown,Buffalo, Toronto, Detroit 、Chicago.
"Royal Blue" to Washington.
"Crusader" or "Wall Street" to New York.
この他に大西洋岸に作ったカジノ都市 アトランテック シティへの特急などが95マイルを越える高速を誇っていた。
大きな特徴は自前の機関車工場を Reading市に設置して優れた機関車を製造してそれらに就役させた。いずれも無煙炭事業がもたらす裕福な資本のなせる業であった。この鉄道が今に残している数々の優れた機関車たちは コノシリーズでも次のリンクで紹介している。
撮影:1979年
発表:「れいる」誌・1981年4月号
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・《reading 鉄道の機関車》シリーズのリンク
127. ストラスバーグ鉄道の「アメリカン」と「キャメルバック」
22.アメリカ鉄道150年祭り記念列車発進(アメリカ・デトロイト)
23.リーデング鉄道の“ぶらつき男”・bQ012(アメリカ・B&鉄道博物館)
95.“アメリカン・フリーダム・トレィン”とB&O鉄道博物館(メリーランド州・ボルチモア)