自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・カナダ国鉄・急行旅客用蒸機:♯6060の活躍・カナダ/オンタリオ州

120. 「ナイヤガラフ オールの 蒸気列車の 小さな 旅」 ・カナダ


〈0001:
ナイヤガラ フォールズ駅にて、CNR606


〈0002:写真撮影のための走行イベント(PHOTO-RUN-BY)にて〉
ナイヤガラフォールズ駅からの小トリッ

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〈紀行文〉
  「ナイヤガラの滝」は、北アメリカ大陸を訪れる人が第一にランクする観光地であり、新婚旅行のメッカであることはアメリカでもカナダでも同じであるようだ。1978年の夏の或週末、私の駐在していたデトロイトをはるばる訪ねて来たワイフと共に、まぎれもない「おのぼりさん」となってナイヤカラの滝の見物に出かけた。デトロイトからはオハイオ・ターンパイクと呼ばれる古い有料ハイウエーをエリー湖に沿って東へ一直線である。
 地図を眺めると、ナイヤガラの滝を挟んで対照的な位置にエリー湖とオンタリオ湖がある。その昔、氷河が この北アメリカ大陸を何回となく覆い、また、それが去ると、その痕に大きな湖が生れ、メキシコ湾までミシシッピー河を経て流れていた水は、氷河に深く削られたセントローレンス河を経て大西洋に注ぐことになった。その湖のぅち、最も下流に位置するオンタリオ湖と、その上流にあるエリー湖との間には329フィートの落差があり、この断崖は北から、この湖の間を通って大西洋岸2沿って連なるへアパラチヤン山脈の中に消えている。
この五大湖地域は、もともとフランス人の毛皮商やカトリックの伝道僧によって開かれて来たが、彼らはイギリスとの戦によって植民地を失ってしまい、その後に起ったアメリカ独立戦争の時には、アメリカ独立に反対する王党派が、カナダに移り住むようなこともあって、カナダのイギリス本国との関係は深まり、アメリカの建国と西部開拓が急速に展開する中から生れた文化に対して、イギリスとの関わりを深く刻んだ文化や、フランス色を残した文化が今以て息づいている。
今でこそ各地からナイヤガラを目指す人々は航空路かインターステーツ・ハイウェーでやってくるのだが、17世紀に入ってアメリカ大陸の開拓が始まると云う頃はどうだったのだろうか。その頃には、大西洋岸の各貿易港都市から中西部へ行くためのアパラチヤン山脈越えの交通路が求められていた。これにいち早く応えたのがニューヨーク州であった。そして、ニューヨーク港からハドソン河を北上し、更に西へ全長360マイル余のエリー運河を開削してナイヤガラ滝の蒸留のエリー湖に通じる経済的ルートを1826年に開通させた。この運河沿いには町々ができて、西のターミナルのバッファローは中継点として繁栄したのであった。ここから僅かの距離の所には、あの壮大な観のナイヤガラ滝があることは既に知られていて、多くの人々を魅惑していたようだった。
1831〜6年頃になるとイギリスからもたらされた蒸気機関車を使った鉄道が運河よりスピードが早いことが知られて来て、運河沿いの各都市の間に次々と蒸気鉄道の建設ラッシュが起こった。やがて、このバラバラで不便な鉄道各社をを一本にまとめたNew York Central鉄道(NYC)が1953年に作り上げられた。一方、ペンシルバニア州との境に沿ったアパラチヤン山中のニューヨーク州南部の開発の遅れた地域を横断して、ハドソン河岸のニューヨークからエリーコ湖岸までを一直線に結んだNew York & Lake Erie 鉄道(ERIE)が1851年に336マイルを一歩先に全通させていた。そして、それぞれが既に作られていた小鉄道 例えばBuffalo & Niagarafall 鉄道などや馬車軌道を傘下に納めてバッファローからナイヤガラフォールずへの便を確保したのだった。
一方カナダ側でも、Erie & ontario 鉄道がエリー湖岸からナイヤヤガラフォールスへ通じさせており、また 
エリー湖の北岸に設立され発展しつつあったGreat Western Railwayが1853年11月にhamiltonから Niagara Fallsまで開通したのであった。
これらの鉄道や街道などでナイヤガラフォールズに多くの人々が集まり、そして両岸のアメリカ/カナダ相互の交通の交通もひんぱんとなって来ていた。
鉄道の終点駅からは鉄道馬車などでり、深い断崖を下って、川岸から蒸気船によるフェリーが1844年頃からに就航して便利にはなったが、これも、冬期間の凍結と、氷塊の流下する期間の運航はできない不便がつきまとっていた。そして、深いナイヤガラ河の谷に橋を架ける計画が進められた。遂に、ナイヤガラ滝から2.5 miles (4.0 km)下流の位置に二階建ての鉄道と道路の併用吊り橋が1855年に開通した。これはアメリカでは International Suspension Bridgeとよばれ、カナダではNiagara Falls Suspension Bridge と呼ばれるのが制式だが、単に Suspension Bridgeとも呼ばれた。これは世界最初の鉄道吊り橋であり、全長スパン 825 feet (251 m)、水面からの高さは250 feet (76 m)であった。
そして一日に45本の列車(1860年)を通過させていたが、1897年に役目を終えた。この鉄道橋は、New York & Lake Erie 鉄道(6 ft:1,829 mm)・s Canandaigua and Niagara Falls鉄道・New York Central 鉄道のBuffalo & Niagara Falls 鉄道( 4 ft 8 in:1,435 mm/標準軌・Great Western Railway(5 ft 6 in (1,676 mm)の四社で三種の軌間が共用で敷設された。
最大スピードは時速5マイル(8.0 km)であり、326-short-ton(296 t)の列車重量の通過により10.5 inches (27 cm)ほど橋桁が沈んだと云う。
このようにしてナイヤガラ滝の両眼は発展し、益々多くの鉄道が集散するようになった。
アメリカ側では、NYC が1851年に、また1871年には Erie鉄道が規模の大きな Niagarafalls駅をせっちし、Suspension Bridgeの近辺には1880年に大規模なUnion Depot.が設立されて、そのピーク時には Erie、Grand Trunk(1884年にgreat Westernが改称), NYC、michgan centralなどの鉄道の列車が一日に47列車も発着していたと云う。残念ながら これらの遺構は残っておらず、今はAMTRAKの小規模の駅が新設されて僅かな列車を取り扱っているだけなのは寂しい。
一方、カナダ側では、最も古いのは1855年に Clifton Railway StationとしてGreat Western鉄道(1884年にGrand Trunk 鉄道となる)の手で設置された。16年後に火災で消失したため、1871年に大規模な駅舎がBridge Street Railway Stationとして再建された。この建物は現存し、VIA RAIL CANADAの Niagafalls駅として唯一の生き残りである。
1871年に、当時 Cliftonと云われていた町へ到着する線路上で滝が俯瞰できる場所に
 Falls View Railway Stationと云う滝実物専用の停車駅をCanadian Southern 鉄道が開設して運用した。その後1885ねんからは Michigan Central鉄道が運用を始めたが、1920年に取り壊された。
Victoria Park Railway Station (Niagara Falls Railway Station)は1884-1885年にダウンタウンに完成した最後の豪華なターミナルであった。これはNYC鉄道のの支配がCanadian Southern 鉄道やMichgan Central鉄道に及んで、この駅の新設として結晶した。残念ながら現存していないのは残念である。この路線や駅などの敷地は市が買収して公共的に利用されている。
このような鉄道全盛時代をへて、現在は吊り橋に替わって鋼鉄アーチ鉄道橋を通って、
「 Maple Leaf」がNew Yorks Pennsylvania Station〜Toronto viaの間をVIA Rail とaAmtrakとの共同運用で上下一本が走っている。
また、Amtrakの「Empire 」Service trainsがNew York City 〜Niagara Falls間を毎日頻繁運転しているのだった。
 さて、当日は早々に滝の見物を切り上げて、トロント午前10時発の夏のSL牽引の季節列車が正午頃にカナダ側のナイヤガラ・フォールズ駅に到着するのを出迎えに出掛けた。
現在の VIA RAILが使っているniagerafalls駅は二代目で、1879年にGreat Western鉄道が建て替えたものである。
赤煉瓦)を使ったgothic式建築様式で、中央部は二階建て、東西に長さ100 footのウイングで構成されていた。長年ホテルやレストランが営業し賑わいを極めていたのだった。しかし旅客列車が衰退するにつれて、
1960年代以降に所有していた鉄道会社ではコスト節減のために西のウイングを取り壊してしまったし、中央ホールの二階への階段も取り除かれてしまっているのだと云う。しかし今でも bridge Streetに面して、オンタリオ州内で最古の駅舎として君臨しているように見えた。
外観に比べて、中央ホールには、昔の栄光は少しも残ってはいないように思えたし、その上に全く人の気配が感じらレ亡かったのは時間が早かったのか。そして、片隅の出札口の脇には、黄色の神に黒インクで印刷した、蒸気機関車の驀進する写真を載せたパンフレットが並べて張り出されていた。
これは到着したaD6060の引く列車を使って、1時間余りのトリップへの招待をPRしていたのだった。
やがて、列車が到着、人気の的はやはり、SLaD6060で、降りたばかりの大勢の人々が群がって来た。
我々も小トリップへと乗り込むと、列車はゆっくりと発車し、デルタ線で転向したようで、ノロノロと踏切の多い市街を抜けると、高速道路の外側の広大な鉄道の敷地らしい所に停車した。そこで乗客を全員降してしまった。そして列車は、そのまま見えなくなる程バックした所で、鋭い汽笛と共に全力発進の黒煙が上がり、ドラフトが眼前を通りすぎる、汽笛が交錯する中で瞬間のドラマは終了したようだ。このイベントがパンフレットに書いてあった“PHOTORUN-BY”と呼ばれるものであったようだ。
夕暮れの午後4時,まだ日は高いのだが、トロントへ返る客がホームから消えると、駅長の手信号で出発、本線に出てから逆行して、ナイヤガラ滝の下流に架かる国際鉄道橋の土手に出て、ナイヤガラ滝を見させてから出発となる。
 秋の早いカナダでは、九月中旬からaD6060はトロントやモントリオールを出発点とする紅葉の旅を数回催してから、その後はシーズンオフとなるとのことだった。
ここに描かれた情景が見られたのは1970年代の恵まれたそれ程長くない期間の事だったことを知って驚いている今日この頃である。このCNR ♯6060 蒸気機関車については、次に示した関連リンクをご覧下さい。


(009−01−05 増補改訂)

撮影:1978年
発表:「レイル」誌・aD18、1984年10月発行。

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・「カナダ国鉄・急行旅客用蒸機:♯6060」シリーズのリンク
047. CNR♯6060の紅葉のストラトフォードへの旅・カナダ/オンタリオ州
048. ストラトフオード駅で憩う♯6060・カナダ/オンタリオ州
049. カナデアン ナショナル カラーを装った♯6060・オンタリオ州