自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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119.Arcade & Attica Railroadを訪ねて 

「“一世紀逆戻り”の旅客列車の旅」


『Arcadeのメインストリートの昼下がり、黒いシルエットが横切る』
A&A メインストリートの昼下が


『ニューヨーク州の鉄道地図(★はA&A鉄道)』
ニューク州鉄道地

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〈紀行文〉
 カナダとの国境にある世界的な観光地“Niagara Falls”(ナイヤガラの滝)を訪ねる鉄道ファンも少くないであろうから、直ぐ近くのエリー湖岸にある大都会のバッファロー市(ニューヨーク州)の東南郊外にあるArcade町に生き残るメルヘンライクのショートライン Arcade & Attica Railroad (A&A RR.)に是非立ち寄られることをおすすめしたい。
 その昔氷河がこの北アメリカ大陸を何回となく覆いまたそれが去るとそのあとに大きな湖が生れ、メキシコ湾までミシシッピ河を経て流れていた水は、氷河に深く削られたセントローレンス河を経て大西洋に注ぐことになった。その湖のうち最も下流に位置するオンタリオ湖と、そのすぐ上流にあるエリー湖の間には 329フィートの落差があり,この断崖は北からこの湖の間を通ってアメリカの大西洋岸に並行して連なるアパラチヤン山脈の中に消えている。このエリー湖からあふれ出た水はナイヤガラ河となって、ナイヤガラ滝を経て下流のオンタリオ湖に入り、そしてセントローレンス河をへて大西洋へ流れ下ることになっている。
所で、我々の訪ねようとする Arcade の町は、エリー湖から流れ出たナイヤガラ河がナイヤガラ滝に入る手前に合流する全長90マイルの Tonawanda Creek(トナワンダ河)の上流の峠を越えた南に位置している。そして、この町は西に流れ下ってエリー湖に注ぐ cattaugus 川の上流域に属しているのであった。この町から西南にはミシシッピー河の大支流であるオハイオ河の上流のピッバーグで分かれる更に大支流であるアレゲニー河の谷筋に通じているし、また東南へはペンシルバニア州の中央を流れるサスケハンナ河の最上流の谷筋に通じているし、東はエリー運河の下をくぐってオンタリオ湖に流れ込む Genesee 河の大支流であるOatka Creekの斜面に通じており、この下流には“KDAK”の城下町 ロチェスターがある。このように何れの方向にも重要な交通ルートが控えていることから鉄道の路線争いの舞台でもあったのである。
それに加えて、バッファローは西部開拓時代の昔から東部から中西部への交通路の中継てんであって、エリー運河の時代、それに続く鉄道の時代、そして航空やインターステーツ・ハイウェーの時代の今日でもその重要な地位はは失っていないのである。それ故にアメリカの鉄道の歴史上で見逃せない話題に溢れている地方でもある。
 さて、A&A鉄道のことたが、さぞかし蒸機列車が主役の「ノスタルジックな保存鉄道」であろうと思って A&A鉄道をたずねたが、れっきとしたショートラインで平日には貨車の発着に忙しい貨物鉄道なのであることが判った。何しろ“A”がタブっているのだから、アメリカ鉄道会社リストを初めとして、大抵のリストでは常に最初にリストアップしてあることから、いつしか名前を覚えてしまっていた。所で、ナイヤガラの滝は四季を通じていつでも楽しめるのだが、A&A鉄道のSL運転スケジュールはイベント、定期共に限られているのに注意が必要だった。或夏の週末,空路の夜行便でオハイオ州のエリー湖岸の大都会クリーブランド国際空港に降り立つと、ここがA&A鉄道への旅の出発点であった。すぐレンタカーを手にいれて、空港からダウンタウンに通じている郊外電車やクリーブランド・ユニオン・ターミナルへの立寄りは帰りのお楽しみとして、早速 シカゴ〜ピッバーグ〜フィラデルフィアを直通する最古の高速道路「オハイオ・ターンパイクに乗り入れる。相当に古いハイウェイであろうか舗装コンクリートの継ぎ目ジョイントを拾いながら順調に70mph(時速110km)で走り抜けてゆく。このターンパイクと云う言葉は有料道路のことを意味するのは、その発足当時には料金徴収所では道を塞ぐように突き出された棒(パイク)が料金を支払いを済ませると同時に、90度回って(ターンして)、クルマの通過を促すと云うことが語源だというのだった。今はコインヲ投げ込むだけで青信号がともり通勝てきるのであった。この有料道路はシカゴからボストン,ニューヨークに至るインターステーツ・はいうぇーのネットワーク(州間高速道路網)としても共用指定されているのだった。やがてピッバーグ方面と別れを告げてエリー湖に沿ってニューヨーク州を目指して西へひた走る。その昔、大西洋岸の東武から北アメリカ大陸の中西部への重要なルートであったエリー湖岸を各州が奪いあった結果、エリー湖の南岸は、西から順に、ミシガン州、オハイオ州、ペンシルバニア州、ニューヨーク州の四州がそれぞれ湖岸を政治的けっちゃくによって出来た経線の州境によって区切ったことから、やがて、それぞれの州内の湖岸にに、デトロイト市(ミシガン州)、とれど/クリーブランド良市(オハイオ州)、えりー市(ペンシルバニア州)、バッファロー市(ニューヨーク州」と云う有力な都市が発達したのであった。それ故に、州境を越える毎に料金所の送迎を受けねばならぬ煩雑さには閉口であったが、やがてニューヨーク州に入りほっとする。州境の休憩エリアで地図やパンフレットをもらって屋外に出ると,周囲は一面のブドウ畑で埋め尽くされているとのことであった。この付近はアパラチヤン山脈がエリー湖に沈むあたり、低い丘陵がうねるように続いている.化学工場や製鉄所などの設備が不夜城の如く明るく見え始めると、ターンパイクは無料のフリーウェーに切替わり、「バッファロー近し」の感がして来た。モーテルの集る一角に降りて明日への英気を養おう。
翌朝,州道400号に入る,しばらく高速道路風であったが,いつの間にか2車線の田舎道となり,州道16号に入ったと思うと大きな谷を横断,ゆるく起伏する丘陵地帯に入った。このあたりの地形は大変複雑である。その Arcadeの町に通じる十字路にはちょっとしたスナックが店を開いていたので、遅い朝食を兼ねたランチに立寄ったら、狭い店内は満員であった。親切そうな「おやじさん」が話しかけてきた、「くナイヤガラ フォールズヘ行く道を間違えたんじゃないか?」と思ったと笑っていた。おそらく外国人が来るには余りにも田舎なのかも知れない。州道98号はArcadeの町のメインストリート、真新しい跨線橋を越えると、人口僅か2,000人の町並が現れる。跨線橋の下には元PRR(ペンシルバニア鉄道) のバッファロー〜ヂッツバーグ線が走り,今はCR(コンレイル)の傘下のメインルートとして活動しているらしく、良く光っている単線が大きくカーブを描いて、短かい側線がエレベーターと呼ばれる穀物サイロに通じている。うっかりすると、通り過ぎてしまうような静かなたたずまいの Arcadeの街並であった。
 この“Turn of entury (一世紀逆戻り)”の街に到着した人で、余程ついている人たちは,鐘を鳴らしながら,メインストリートを黒いシルエットがゆっくり動いて黄色に塗られた夢のような客車が横断する情景に出くわすことであろう。メインストリートは歩道のついた街並,3階建の木造のホテルが1軒、その隣りの輝くようなオレンジ色塗りの二階建は、白地に黒枠で「A&A RR.」の花文字が書いてなければ、レストランか劇場かと見まがう感じの駅舎であった。よくよく見ればー本のレールがメインストリートを横断して、食器店のウインド脇の露路の間に消えている。その先は鈍い光に照された 2本のレールは大きくカーブしながら登り勾配で駐車場や町の裏通りに抜けて続いている。
駅舎の角の、ちょうど踏切番の詰め所と云った所に、ドラッグストアー(「DRUGSTORE)が店をを開いていて、“Kodak”の黄色の看板などが見える。底に入って雑誌の棚で地図を探していると,A&A鉄道の歴史を書いた小冊子が目に入った。
親切にも道の脇に停めた私のクルマを見て、裏の無料駐車場を教えてくれる。本当はメインストリートを渡ろうとする S L を撮るため足場にしようと考えていたのだったが。駐車場は広々としていて、そこはエリー湖に流れこむ cattaugus 川の岸辺で、鉄道線路は橋を渡って切り通しを精一杯の力行で丘を越えていくようである。この先の小さな峠を越えると,トナワンダ川の最上流に当るところに出る訳である。
所で、この駅はアメリカでは珍しい一段と高い床の建物で、奥深くに出札口、駅長事務室、待合室、スナックが揃っていて,、のあたりの冬の厳しさを象徴するかのような年代物の鋳物造りの大きな石炭ストーブが据えられている。小さなせまい扉をあげれば木製のプラットホームに出る様子は、どこか東北の小私鉄の駅に居るかのような錯覚を覚えるような雰囲気であった。内部の板壁は黄色に、柱や枠は飴色のニス塗りが妙に調和しているのだった。
敷地も奥が深く、機回し線の他に豪華なプライベートカー(私有客車)を展示する側線が1本、そして裏通りを越えた先に機関庫らしき小屋が田園風景をバックに見えかくれしている。
“WARWICK”と呼ばれる由緒書のついた客車は、1886年製、クリーブランド大統領の新婚旅行用であったとか。デッキの古典的な模様を作り込んだ鋳物の枠が渋い緑色の車体に映えている。
やがて時間が来たのか、今日は♯18のコンソリが仕業の番で列車の編成を始めた。
往復僅か14マイル、1時間半のメルヘン列車の旅は1日 3本のスケジュールであり、「百年逆戻り」を象徴する小鉄道の姿を再現してくれる。
そう云えば、A&A鉄道は1981年に100年祭を祝った正真正銘の “Turn ofcentury(一世紀逆戻り)”なのであった。
 往復4ドルの切符は、記念乗車券のように大きなものであった。それを買って、蒸気機関車に連結されたゴンドラ(無蓋車)のひとつに乗りこんだ。
この車輌に乗る人は石炭の独特な甘酸っぱいような煙を楽しむ人か、ビデオを回したり、景色を写真に撮ろうとする人たちが降りそそいでくるシンダーを浴びながらの旅となるのだった。
鉄道名は腰板に大きな黒いひげの生えた花文字風の字体で“A &A R R”と書かれた風情はメルヘンの世界へと用意されたもののように思えた。
ネクタイ姿の車掌さんがメインストリートの交通を止めると、二声の汽笛と共に鐘を鳴らしてゆっくりとメインストリートの横断に取りかかった。最後尾のデッキに飛び乗った長身の車掌が手を振りなから露路を遠ざかって行く。
メインストリートの裏手を大きくカーブして、鉄橋を渡ると勾配は一層強まり、もう町はずれでの長い切り通しを大きなドラフトを反響させながら90分の旅は始まった。
収穫直前の背丈より高いトウモロコシ畑の穂波、牧草地の鮮かな緑と濃い緑の針葉樹の小さな林の織りなす田園風景が車窓を流れ去って行く。
この辺りのニューヨーク州は馬の牧場が多いことでも知られ、アメリカは中国を追い越して世界第一の馬の国であるとのことだ。これは食肉よう、皮革用として利用か広いとのことである。
旅客列車は終点の Curriersに到着したようだ。ここは牧場の集まる中心の Curriers, NYの部落へ通じる道路の通る、絵のような美しい谷間の踏切の脇に位置していた。その駅舎は1886年に建てられた典型的な木造の田舎の駅であった。これは当時の親会社であった Erie 鉄道の小駅の原型的構造とその外観を忠実に残していると云われている。
現在は WNYRHA(西ニューヨーク鉄道歴史協会)が管理運営している鉄道模型が展示されていて、列車が到着する度に公開されている。これは、その昔、ナイヤガラ滝のはずれにあった“Iron Horse Museum(鉄の馬博物館)”を移したものであるとのことだった。
ここの駅には立派な側線が備えられており、昔なら このホームサイドで伝統的な旅客列車同志の交換も見られた事であろうが、今は遠足列車(excursion train)の終点として機関車の付け替えに重宝されている。
客車を切り離した機関車はすこし離れたとうもろこし畑の谷間のなかで、側線に渡ってからしばらく停車して、乗客へのサービスタイム、キャプへの乗車招待やポートレート写真を撮らせたり、汽笛を鳴らさせてやったりの大サービスの展開中であった。
残念ながら周囲の背丈より高いトウモロコシに視界をさまたげられては、絵を撮るわけにはゆかなかった。
やがて側線を廻って最後尾に逆向きに連結すると出発である。
発車すると直ぐに急な登りにさしかかるようで、大きなドラフトの響が容赦なく客車の中に飛び込んでくる。アコーデオンを肩にしたボランティアーの若者に合せてフォークソングと手拍子が車窓から流れていくうちに,Arcadeの町はもうすぐそこである。僅か7マイルのルートは併走する道路は見あたらず、丘陵の尾根を越えるため,牧場や森林の間を抜けてゆく.遠く車窓より見える牧場の白い建物の特徴を覚えていて、次の列車を自動車で追い掛けようとロケハンのメモ書きに懸命で、合唱の方はウワの空であった。僅かな距離ではあるが撮影地点は色々あって、1日の予定ではなかなか満足できないほどである。撮影の道すがら間道に面した農家の庭先で色とりどりのカボチャを山の如く並べて売っている。それは10月の末の夜に催されるハローウイーンの祭の仮装行列に使うカンテラ(ちょうちん)を作るためであると判ったのはすい分長い話をした末であった。

撮影:1978年
発表:「レイル」誌・aD18、1984年10月発行。

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