自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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117. Arcade & Attica Railroad (A&A RR.)をたずねて U ・NY州
「A&A鉄道の苦難の歴史を訪ねる」
『出発準備を終わって、ボランテアーとクルーとの語らいのひととき』
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〈紀行文〉
このどこにでもあるようなショートラインのA&A鉄道ではあるけれど、その誕生には苦難に満ちた、しかも長い建設のエピソードがある。そして本当の意味での地元の鉄道としての“A&A”になったのは20世紀に入ってからであり、今日の蒸気列車運転の大成功は,歴史に残る数々の不運の出来事の埋め合せではないかとさえ思われるのである。
その鉄道の始まりにはいるには、どうしても西部開拓時代に展開された大西洋岸から南北に連なるアパラチヤン三百を越えて中西部のオハイオ河や五大湖地域に通じる交通路の開発競争から話を始めたいと思う。アメリカ大陸の大西洋岸に開かれた植民地を木曽にして建国された有力な大西洋貿易港湾都市を持った州、北から、ニューヨーク州(ニューヨーク港)、ペンシルバニア州(フィラデルフィア港)、メリーランド州(ボルチモア港)の三つの州は欧州からやって来た移住者の西部への移動と、開拓された西部農業地帯との農産品や物資の交流の基地として大いに繁栄していた。そして西へ向かう交通ルートを妨げている北南に切れ目なく連なる険しいアパラチヤン山脈を越える経済的なルートの開発にしのぎを削っていた。当時の主なルートは、フロリダ半島を回ってメキシコ湾からミシシッピー河を蒸気船でさかのぼるか北のカナダのセントローレンス河を遡って五大湖地方から中西部へ入るのが主であり、他には昔ながらのインデアンノの踏み跡(トレイル)をたどって険しい山脈を越えなければならなかったのであった。そこでいち早くニューヨーク州は運河で五大湖方面をめざしたし、ペンシルバニア州では矢張り運河と、険しい峠はインクラインと云われるヘーブル鉄道と馬車軌道で運河用ボートを分割して運ぶ方式をこころみ、メリーランド州では手間が掛かるが勾配の小さいルートに馬車軌道を着実に敷設する方法で、いずれもミシシッピー河の大支流のオハイオ河流域に達しようとするもので、三者三様のスタイルで競っていた。
さて、ニューヨーク州でも、大西洋岸に面したニューヨークから北の海岸線に沿った狭い平地の背後には決して急峻とは云えないが、初期の植民者たちにとって西進を阻むアパラチヤン山脈が平行して長々と北から南へと続いていたのは同様であった。そこで、ニューヨーク市が河口である水深のあるハドソン河を北へさかのぼって、更に西へ続くmohawk谷は、大西洋岸と五大湖地方とを結ぶ然の通路であるような地形であったことに眼を付けた。このルートを経てハドソン河からナイヤガラの滝の上流に当たる広々とした水面の広がるエリー湖に通ずる全長360マイル余の長大なエリー運河を1819年から1926年までの難工事の末に完成しニューヨーク市の発展の基礎を築いたのであった。
それから1930年代にはいると、当初イギリスから輸入されて石炭鉱山などで利用されていた蒸気機関車が公共輸送機関として実用化にせいこうするようになった。アメリカの風土にに適した蒸気機関車を工夫して最初に成功したのがボウチモア港を起点としたB&オ(ボルチモア アンド オハイオ)鉄道であった。
それに刺激されたのであろうか、エリー運河の中でもドック(閘門)が続いて運航の手間が掛かってスピードの最もでない区間であるMohawk河(Schenectady市)とHudson河(Albany市)との間を結ぶMohawk & Hudson鉄道が1826年に設立され、1831年9月には早くもアメリカ製の原始蒸気機関車“Dewitt Clinton号”が駅馬車風のワゴン数輛を連結した旅客列車を牽いて走り、旅人や急ぎの貨物の輸送に便をもたらした。
この大評判がエリー運河の西のターミナルであるパッファローに伝わると早くも鉄道建設熱が高まって来た。そして Buffaloから東へは1836年にAttica & Buffalo 鉄道が設立されて、その年の11月には開通すると云う早業であった。この鉄道はニューヨーク州で第二番目の鉄道と云う栄誉があたえられ、しかも後の大NYCの最も古い前身鉄道として名を残している。更に東へはTonawanda鉄道が1843年1月に Attica からBataviaを経てRochesterまで開通しているという具合である。
そんなことからトナワンダ谷にある田舎町 Attica の町には1836年11月には早くも鉄道がやって来ていたのであった。そして次には谷を南へさかのぼって峠を越えて Arcade を経て、更に南西ぶへ連絡する鉄道が幾度も計画されては消えて行った。1836年の Attica & Sheldon 鉄道も、そのひとつであった。
そして、1852年には Buffalo east から Bataviaまでの間に直線の短縮線が完成してNYC鉄道は Attica をとおらなくなってしまった。その運河沿いの旧線となったDepew (east of Buffalo)と Atticaの間はBuffalo & New York City 鉄道へその年の11月に売却された。その後に New York & Erie 鉄道の一部となり、超広軌 6フィート ゲージ (1829 mm)に改軌されて、ニューヨーク〜バッファローのメインラインとなった。その後にErie 鉄道がニューヨーク〜シカゴのメインラインを完成させると、このラインはバッファロー支線となっている。 一方、トナワンダの谷を上り詰めた先にあるArcade では、西南の峠を越えた絵のように美しいアレゲニーの谷筋でも同様に鉄道熱が盛んで、少しずつ鉄道が建設されつつあった。やがて1852年になると、ペンシルバニア鉄道では、ピッバーグからニューヨーク州のバッファローを結ぶ路線をレゲニー谷を経由したルートで、未だ完成していない小鉄道などをを買収しながら建設使用とする構想が提起された。これに呼応してニューヨーク州側では Attica &Alleghany Valley 鉄道として、3フィート(914 mm) のナローゲージをAtticaから Arcadeを経由して州境までの75マイルの鉄道建設を計画した。そして新会社の株が公募され、工事は Attica〜Arcade間から始った。
そしてレール1,500トン余がイギリスに注文されたのであったが、残念なことに悪徳資本家たちのスキャンダルがその財政をむしばみ1855年には工事が中断されてしまった。折からの経済不況の時には人々から見放されて行き詰まり、1856年には売却され消えてしまった。
このため鉄道に対する地元の失望の念は強く,このあと10年は鉄道がこの谷にやって来る気配は全くなかった。
それから間もなく、州の法律が鉄道の建設を容易にするために作られ、地元の市や町がその資金を提供できる仕組ができあがった。その間にエリー湖岸のバッファローは,エリー運河の西のターミナルとして西部への中継点として繁栄しつつあり、その効外に当るトナワンダの谷は豊かな農産物の供給地となって,バッファローへの輸送手段としての鉄道を求めるようになって来た。そして古い鉄道の債券を持った人々によって B,A&S(Batavia,Attica & Salamanca)鉄道が、また同じルートに別の人々による attica & Arcade (A&A)鉄道(第一代)が1870年に設立されると云う加熱ぶりであった。このA&A鉄道は古い敷設県を買い取り、1976年には工事を完成させる予定で工事がはじまったのだが、悪徳の“ヤカラ”たちの仕業によって、またもやできたての二鉄道も餌食になってしまい、再ひ鉄道から Arcadeの町は見放されてしまったように見えた。
やっと1878年になると、鉄道の軌間騒動も納まって来て、標準軌が決まる一方、法律によって軽便鉄道法ができたことも契機となって、再び鉄道熱がやって来たのであった。
この当時、ナローゲージは普通に用いられていた鉄道の方式の1つであり、標準軌の建設に比べてコストが安上がりであることから、過疎地域への鉄道として適していたからである。それは狭軌の軽便は一般の標準軌鉄道より多少高い運賃レートで営業が出来ることが許され、後進地域の開発を促進しようとする法律であった。
1880年になって、Erie鉄道のニューヨーク〜バッファロー支線が通っていた atticaでは、Erie鉄道から財政支援を得て Tonawanda Valley鉄道が設立された。これは24マイルのナローゲージラインを AtticaからCurriers Cornersをて Arcade に至り、更に Sardinia にて Buffalo, New York, & Pennsylvania 鉄道と接続しようとする鉄道であった。
1880年9月12日に、Buffaloを出発した列車はatticaでthe Erie痴 new Tonawanda Valleyへの接続をすまして、Attica から南へ牧場の中心地であるCurriers Cornersに向った処女列車には祝賀演説をする人々や楽団が勢揃いしていた。このCurriers Corners駅は今日のA&Aの蒸気列車の折り返し点のことである。当時の時刻表によると日曜を除く毎日、9マイルヲ80分要していたと伝えられる。次いで1881年2月ににArcadeまで開通したが、その先の延伸は財政的困難から計画廃止となってしまった。
その後エリー鉄道の支配が強まり、同社のメインらいんであるニューヨーク〜シカゴ線のCubaまで南へ延長する路線が1882年9月に開通した。会社名も Tonawanda Valley & Cuba鉄道となった。このらいんの南端のCubaと、北端の Atticaと共にErie鉄道の標準軌路線と接続したことになり、中間のArcadeでは B,NY & P(Buffalo, New York & Philadelphia )鉄道と接続したことになった。そしてErie鉄道との接続点には標準軌の重い貨車の台車や車軸をナローゲージ用のそれに交換する設備が設けられて、乗り入れの効率化が計られたことから経営は順調にスタートシタ。しかし不運なことに、地盤の弱いことが露呈し、その修理費が費やされ、それに中間点のArcade におけるB,NY&P鉄道への貨車の直通がErie鉄道の意向により阻まれたことなどが重なって利益を失ったことなどにより、僅か4年間で破産に瀕した。そして不規則運転や、冬季間の運転休止などを経て廃止になってしまったと云う不運であった。
そのごの紆余曲折をへて、南部の路線は風水害による流失などにより廃止が続き、1892年には、AtticaからFreedomまでの区間が tAttica & Freedom 鉄道として再建を試みたが、成功しなかった。
しかし沿線に貨車輸送の需要のあるミルクプラント(アイスクリームで知られるBorden社の前身)や種々の工業が起こってきて、鉄道の再会を臨む資本家の声も高まって来た。そして、375人の人々が古い債券を買い取って出資者グループが結成された。そして1894年10月になると、 Buffalo, Attica & Arcade鉄道として、Attica〜Freedom間が再建されて、Attica から Arcadeへの運転が再開された。
そして会社では貨車の乗り入れ効率を図るための大営団で、1895年1月までに全線を標準軌に改軌することに成功した。
そして1897年12月にはarcadeから2マイルの支線を建設して Pennsylvania 鉄道との接続が開通した。勿論 Attica におけるErie 鉄道のニューヨーク〜バッファロー支線との接続が基本であったことには変わりはない。そしてこの鉄道の経営は順調に推移し、不況期にもレイオフをすることなく乗り切ったほどであると伝えられている。
それからも所有者が転々とはするが、その運転は平穏であった。
また僅かな期間ではあったが、Arcadeにおいて Buffalo and Susquehanna 鉄道との接続も出来て潤った。この鉄道は北西ペンシルバニアで森林伐採・石炭採掘の王国を築いたFrank Henry Goodyearが石炭を五大湖方面へ自前で輸送する狙いで建設を進めていて、やっと Arcade へ到達した所であった。そして最初のB&Sの列車がArcadeへ1896年に到着して、大変な賑わいとなった。この時の公園通りに面して建てられた Arcade駅舎がCharley Gliss に1920ねんに買収され、120年後の今でも個人住居として健在であるのは楽しい。
そして、1902年にはB,A&A鉄道はB&S鉄道の一部門として傘下に入った。
それから、1909年ともなると旅客列車は凋落の傾向を見せ始めて来た。
1910年頃に財政的ピンチにおそわれて、てタイヤ製造業で有名なグッドイヤー財閥がペンシルベニア州の石炭をオンタリオ湖岸に直接輸送するルートの獲得に意欲を燃やして、B&Sと共にBL,A&Aも買収したのであった。
A&A鉄道は1913年まで運転は順調であったが、1916/1917年の冬には資金の流失により運転が中断する事態となっており、Arcadeには解体業者がやってくるとの噂が流れていたと云う。それも そのはず(筈)で、1916年にはB&S鉄道ののパッファロー線が開通したことから、B,A&A鉄道を支配する必要がなくなったので廃線しようとの意向でアッた。
そのころになって、不幸なことにパトロンであったグッドイヤー氏の死去と共にこの計画は廃止となり、B&S鉄道はB&O(ボウチモア・アンド・オハイオ)鉄道へ譲渡され、未亡人は買手のない この小鉄道を地元にスクラップの値段で譲ることを申し出たのであった。これが現在のA&A鉄道の誕生の契機となったと云うのである。そして917年5月に地元でArcade & Attica (Inc.が設立されて、
Pennsylvania鉄道との接続点の路線権を確保してスクラップを免れた。
この Tonawandaの谷が東の方向であったなら、東海岸とエリー湖を直接に結ぶ大動脈となっていたであろうのに、地形がもたらした運命のいたずらが この小鉄道の歴史に浮き彫りされているように思われた。
撮影:1978年
発表:「レイル」誌・aD18、1984年10月発行。
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・ Arcade & Attica Railroad (A&A RR.)を訪ねて シリーズのリンク)
119.ターン オブ センチュリー(1世紀逆戻り)の旅客列車の旅
117.A&A鉄道の苦難の歴史を訪ねる
118.「A&A鉄道の復活とニューヨーク〜バッファロー間の鉄道戦争
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