自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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118. Arcade & Attica Railroad (A&A RR.)をたずねて V (ニューヨーク州)
「A&A鉄道とニューヨーク〜バッファロー間の鉄道戦争」
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〈紀行文〉
このユニークな小鉄道建設の古い歴史は前のページで述べ尽くした。今のA&A鉄道は1917年に地元大勢の人々を株主として発足した。元来、Arcade からNorth Javaまでの沿線への貨車サービスを主な目的として設立したのであった。ここの輸送品目は農産物(大豆、とうもろこし、飼料)、木材、毎日のミルク、その他の産品であり、順調な滑り出しであったようだ。
年代が進むにつれて、トラック輸送が盛んになってきて、小鉄道の貨物サービスを圧迫しつつあった。それへの対応としてのコスト削減を目的に蒸気機関車に替わってデーゼル機関車を購入することが提案され、多くの株主からも廃業よりは良策だとの賛同を得た。
そして1941年には、アメリカで最初と云われるショートラインでのデーゼル機関車の導入が行われ成功を収めるのである。
その初号機は、#110、44-ton型 diesel機関車で、General Electricから 新製購入したものであった。
それに続いて♯111 44-ton centercab型が、同じくGeneral ElectricのErie工場から1947年に新製追加購入されている。
この貨物サービスの隆盛には眼を見張るものがあった。それは、ミルク、チーズ、穀物、家畜、ガソリン、石炭〒などにくわえて沿線に進出した工場からの全国へのげ出荷が加わったからであった。そのために、30輛の有蓋車(ボックスかー)を新造して対応したと云う。
一方、創業の頃から乗用車と道路の発達によって押され気味となっていたArcade& Attica鉄道の旅客列車サービスは1951年までは何とか客車列車の運行が続けられたが、ガソリンカーの導入を試みたものの、1957年には旅客サービスは廃止されることになり、客車もスクラップこなってしまった。
そして1957年一月の厳冬にスノーベルト地帯に当るこの地方を襲ったブリザアード(雪嵐)は終点Attica付近の地盤が軟弱な辺りの築提数百フィートを流失させてしまった。
五大湖からの水蒸気による雪や北極圏から蛇の舌のように吹き出す寒気は,ほとんど平らなカナダや五大湖地方を自由に暴れ廻り,その道筋に当った町や村は寒波に凍りつき,強い風は雪嵐となって吹き荒れると言う,冬の西北ニューヨークの厳しさはまた格別であるという。
この大きな損害の修復には72、000ドルの費用が必要であったこともあって、修復されることなく北の部分が廃線に追い込まれた。幸いなことに、A& A鉄道の貨物列車は主として 南のArcade からの接続であったことと、北のAtticaでは州刑務所への入換の仕事を失うだけであったからである。この結果、僅か15マイルの鉄道となったA&Aは、株主たちに配当を行う余裕がなく、1年に一回の株主総会は決って楽しいとは云えない招待席として慣例で続いているとか。
1950年代後半になるとショートラインの貨物輸送の事業は益々困難になって来て、この苦しい経営の中から廃業も考えられたりしていた。
やがて、考え出された打開策は、この鉄道がナイヤガラの滝と云う北米最大の観光地の近くに位置していると云う「地の利を活かすことに気づいたのであった。このArcadeの町をを通る州道98号は、ニューヨーク州の縦断観光ルートにも指定されるほどの美しい自然の残る田園地帯であった。それは大西洋岸東北部に鎖のように連なる都会、メガロポリスからナイヤガラ滝を訪れようとする人々に、その途中のArcade の町にちょっと立ち寄ってもらうことであった。そのためのアトラクションとして、その頃すでに珍しくなっていた蒸気機関車を復活して、それの牽引する数量の客車のメルヘンチックな鉄道の小さな旅を提供しようとするアイデアであった。その頃は、小鉄道がツーリスト列車を走らせる保存鉄道として復活すると云う流行のはじまる時期でもあったようだった。
そのようにして“ナイヤガラの滝”を拠りどころにした A& A鉄道の生き残り作戦が始められた。
そして数年の調査の後、1962年には蒸気機関車の買収が始められた。
#18,2-8-0、ALCO (American locomotive conpany)のCooke工場、, 1920製、(CN 62624)の蒸気機関車が1962年にミシガン州北部にあった小鉄道の Boyne City 鉄道から買収された。同時に地元の DL&W(Delaware, Lackawanna & Western)鉄道から1918年製の鋼製客車6輛が購入された。次いで、バッファローをを中心とする鉄道愛好団体の西ニューヨーク鉄道歴史協会(WNYRHA)のボランテアーの人たちの応援も得られるようになった。初年度に当たる1962年の夏の運行は朝から夜までの
27日に及び、17,000人の乗客が旅を楽しむと云う大成功を果たしたばかりでなく、地元の企業の人々たちに再び鉄道への信頼性を呼び戻させる効果がもたらされ、そして貨車発着の需要も月に200軒を越えるようになった。
そして、1963年には予備の機関車として#14,Baldwin製の 4-6-0がミシガン州の北部で鉄鉱石を輸送していたEscanaba and Lake Superior 鉄道から買収された。同時に更にDL&W鉄道の客車も増備されたが、その中には1915年に作られたユニークなvintage carsも含まれている。
やがて、この鉄道が、"Grand Scenic Route"として世間にしられるようになって来る一方、州や連邦の産業史跡として指定されたことから、保存のための資金が導入されレイルや橋梁の補強が行われてより1層安全な乗心地の良い列車の運行が続けられるようになったと云う。
そして廃業の瀬戸際に追い込まれた小鉄道の生き残りは成功し、地元社会と密着して健全な経営を続けている。
その平日にはデーゼル機関車による貨物サービスにせんねんし、週末とイベントのCivil War Days, Murder Mystery Rides, Fall Foliage Tours, Halloween Rides, and Santa Express Trains!では黄色の客車を牽いた小さな蒸気機関車が活躍しているのが見られる。
『ニューヨーク州の鉄道地図(★はA&A RR.)『
大西洋岸から五大湖への交通戦争についてすこし触れておきたい。
このニューヨーク州の西北部は、大西洋岸 東部海岸の中心地 ニューヨークから中西部へ向かう西部開拓時代のメインルートの役割を果たしてきた。その主役たちはこの紀行文にも顔を出している「エリー運河」とNYC(ニューヨーク セントラル)鉄道の前身であるんYC&H(ニューヨーク セントラル アンド ハドソン)鉄道と、RIE鉄道の前身であるNY&LE(ニューヨーク アンド レークエリー)鉄道である。これら同志の自由な競争の中から新しい技術が生まれ発展して来たことにも少し触れてみよう。
アメリカ大陸の大西洋岸に開かれた植民地を基礎にして建国された有力州、北から、ニューヨーク州、ペンシルバニア州、メリーランド州の三つの州は欧州からやって来た移住者の西部への移動と、開拓された西部農業地帯との交流の基地として大いに繁栄していた。そして西へ向かう交通ルートを妨げている北南に切れ目なく連なる険しいアパラチヤン山脈を越える経済的なルートの開発にしのぎを削っていた。当時、一般的に利用されていたルートは、フロリダ半島を回ってミシシッピー河を蒸気船でさかのぼる方法と、または北のカナダのセントローレンス河を遡って五大湖地方から中西部へ入る方策であった。このほかには、昔ながらのインデアンノ踏み跡(トレイル)をたどって険しい山脈を越えなければならなかった。そこでいち早くニューヨーク州は運河で五大湖方面をめざしたし、ペンシルバニア州では矢張り運河と、険しい峠はインクラインと云われるヘーブル鉄道と馬車軌道で運河用ボートを分割して運ぶ方式をこころみ、メリーランド州では手間が掛かるが勾配の小さいルートに馬車軌道を着実に敷設する方法でミシシッピー河の大支流のオハイオ河流域に向かって、三者三様の作戦を進めていた。
さて、最も北のニューヨーク州でも、決して急峻とは云えないものの、初期の植民者たちの西進を妨げるには十分なアパラチヤン山脈が北から南へ切れ目亡く続いていた。そこで考えられたのが、ニューヨーク市を河口とする水深の大きなハドソン河を北へさかのぼって、更に西へ続くmohawk谷は、大西洋岸と五大湖地方とを結ぶ然の通路であるように見えたのである。このルートを経てナイヤガラの滝の上流の水面の拡がるエリー湖にまで至る全長360マイル余の長大な運河を開削する計画を進める人がニューヨークにいた。1817年アメリカ土木技術の父と呼ばれたWRIGHT氏の下で工事が開始され,9年間の長い歳月を掛けて全通したのである。その登り下りの高低差は676フィート、18箇所の河や谷を越える運河橋の大工事を克服して完成した運河がもたらした経済的効果は計り知れず、交通時間の短縮、コストの低減のみならず、運河沿いの町々に文化と工業をもたらし、河口のニューヨークの今日の繁栄の基礎を作った。合わせて、この大土木工事で育った多くの土木技術者は、次に来る鉄道や道路の建設などの建国の担い手として活躍したに違いない。
この遠大な計画を疑いの目で見る人々を説得し、莫大な資金を調達した推進者は知事となるDewitt Clintonであった。このエリー運河の大成功は、他の州の中西部へのルート開発に狂奔においやったのは事実であろう。特に馬車軌道をアパラチヤン山脈の奥深くに延伸していたボルチモアの資本家たちは馬車に替わって蒸気機関車を導入して、その輸送力を増強したB&O鉄道を作り上げて、アメリカで最初の公表鉄道と云う栄誉を勝ち得た。
これに刺激をうけたのであろうか、早くも1831年には運河交通の運行スピードが最も遅くなる区間の便をよくするため、運河に沿って鉄道が初めて開通した。それがアメリカで第3番目の栄誉を得ている MOHAWK & HUDSON鉄道であって、アメリカ製の原始機関車“Dewitt Clinton号”が牽引する駅馬車風のワゴンを数輛連結した旅客列車によって、西部への旅行を急ぐ人々の便を助けたのであった。この評判がエリー運河の西のターミナルであるバッファローに伝わると鉄道熱は運河沿いの地域に広がった。
このエリー運河の隆盛は その各中継点に都市の発展をもたらし、西のターミナルのパッファロー、“KDAK”の根拠地で知られるロチェスター、Uttica、Syrucus、Schenectady(スケネクタデイ)、東のターミナルAlbany( おーばにー)などが繁栄した。その経済力をバックにして各都市間に鉄道が建設され始めたのであった。しかし、それぞれの鉄道は、軌間も車輛も運転方法もバラバラで運営されているため、通してオーバニイからバッファローまで汽車の旅をすることは大変不便であった。1853年になって、オーバニィでの製鉄事業家であり、Uttica & Schenectaday鉄道の社長であった Corning氏が、それらの多数の鉄道を一つに大団結させたのがNew York Central鉄道であった。
所で、エリー運河の大成功は、ューヨーク〜オーバーニー間のハドソン河の蒸気船運航のの事業を繁栄させ、それを一手に支配していた実業家 Vanderbilt(パンダービルト)は鉄道の将来にタイする先見の明を持っていた。そして、先ず最初に運河沿いの小鉄道を大団結させて生まれたNYC鉄道の買収と、ハドソンカ河畔をニューヨークからエリー運河の起点のAlbanyに至るNY &HUDSON鉄道を手中に納めて、NYC&H鉄道としたのが1867年であった。
そして、巨大な資本を投じて路線の改良と強化を実現して、“WATER LEVEL ROUTE”と称した勾配の少ない平坦な直線ルートを武器として、距離の長い欠点をカバーした高速度で走るNYC&H鉄道を作り上げて、既にニューヨーク〜バッファロー間を開業して大西洋と五大湖を結ぶ最初の鉄道の栄誉を得ていた NY& LE(ny & le(New York and Lake Erie)鉄道の独壇場に勝負を挑んだのであった。
この良き競争相手であった Erie鉄道はA&A鉄道の産みの親ではあったが、育ての親ではなかったことは前のページで述べた。
このエリー運河の大成功によって交通の便に恵まれ発展してきた北部ニューヨークに比べ、ペンシルバニア州との境を接した南部ニューヨークは、山地であることもあって全く後進地に甘んじていた。そしてこの地方の人々の願いをこめた New York &
Lake Erie 鉄道が1835年に創立され、
株や債券が公募され資金が集められた。この時強いリーダーシップをとったE.Load社長の下で建設が始められた。彼は強固な鉄道を作り将来の競争にも負けないために費用の掛る6フィート軌間の超広軌を採用し、その土木工事も築堤は樫の杭を打ちこんだ念の入った建設方針であった。1851年には全長336マイルに達するハドソン河岸からエリー湖岸
に至る当時最長の鉄道が完成し、大西洋と五大湖を直接結んだ最初の鉄道となった。
その発展過程では、NYC鉄道との激しい競争、そして標準軌への改軌の大事業への出費などの苦難を乗り越える一方、南部ニューヨークの地方鉄道としての創業の使命を果して来たのであった。
ここで起こった両者の競合は熾烈を極めた。Erie鉄道では、NYC鉄道をを「Narrow Gauge」とあなどる宣伝をする一方、コスト競争に入っていくことになる。
Vanderbiltの政治力と資本を動員してErie鉄道の支配をを企てたが成功せず、また運賃競争はついに労賃の切り下げに及んでストライキに発展、1877年の全米の鉄道を巻きこむまでに発展する単著を作った。
その後N YC は西部への展開に精力を集中するようになり、シカゴ〜ニューヨーク間の特急列車サービス競争の時代に入ってゆくのである。 NYCは運河沿いの線路を直線化する短縮ルートの建設を積極的に進めている。
一方、エリー湖岸をシカゴに向けて有力鉄道を買収しながら高速鉄道ルートを作り上げた。
一方の Erie鉄道ではバッファローへ直通するルートは支線としてどくりつさせ、6フィートゲージのATLANTIC & GREAT WESTERN鉄道と結んで西へ伸展し、シカゴに到達し大陸横断ルートとしての位置を確保した。しかしニューヨーク〜 シカゴ間の競争では地の利が悪いこと、それは 6フィート軌間のために、既存の大都市を出入りする鉄道を買収して延伸することがふかのうであったからであり、そのため大都会を経由していないと云うための一流とはなり切れずに、単なるユニークな姿を歴史に留めている。
そのためNYCの相手は、“世界の鉄道の規範”と豪語するPRR(ペンシルバニア鉄道とのニューヨーク〜シカゴ特急の争いとなったのであった。
撮影:1978年
発表:「レイル」誌・aD18、1984年10月発行。
・ Arcade & Attica Railroad (A&A RR.)を訪ねて 関連リンク
119.ターン オブ センチュリー(1世紀逆戻り)の旅客列車の旅
117.A&A鉄道の苦難の歴史を訪ねる
118.「A&A鉄道の復活とニューヨーク〜バッファロー間の鉄道戦争
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