韓国旅行記2 番外編

韓国旅行記は僕の韓国旅行の体験を綴った文章です。

しかし、2回目の旅行ではなかなか日記を

つける時間が見つかりませんでした。

そこで、旅行中の出来事を後で思い出しながら

書いたのがこの「番外編」です。

分かりにくい表現や間違っていることには解説をつけました。

また、地名や大切な言葉は太字にしています。

都市の場所が分からない方はここをクリックして下さい。

韓国の地図を用意しています。

それでは、お楽しみいただければ幸いです。

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キョンジュのハモニ

 旅行の3日目('99.2.9)に僕らはキョンジュに行った。「韓国旅行記1」でも書いたが、キョンジュは韓国一の観光地である。そのため、観光地に行くと必ずと言っていいほど人が近寄ってくる。中には無料で観光案内すると言って近付いてくる土産物屋さんがいるくらいだ。

仏国寺 さて、キョンジュは僕にとって2度目であったが、今回はジョの勧めで、僕とMくんとジョの3人でキョンジュに泊まることにした。だから一日目はじっくりと国立慶州博物館などを見て回った。その後、観光地であるサ(仏国寺)の近くで民宿を探すことになったが、バスを降りるやいなやおばさんが近付いてきたのである。

 僕は内心「またかあ」と思って呆れていたが、ジョがそのおばさんと話し始めたのである。おばさんはまるで喧嘩しているような口調で喋り続けた(*1)。僕には一体何を話しているのか分からない。しかし、いつの間にか数字を二人で言い合っているので、値段交渉だと分かった。結局僕らはそのおばさんのところで泊まることになったのである。

 ジョの話では、だいぶまけてもらったとのことである。僕らは部屋に荷物を置き、この旅行に来て初めてゆっくりと風呂に入ることができた。

 夕食は別のお店で食べることになった。民宿のおばさんの知り合いがやっている店だそうだが、行ってみてびっくり。1年前にキョンジュに来たとき、お昼を食べた食堂だったのである。料理が来た後で、僕はジョにそのことを教えると、ジョはそのお店のおばあさんにそのことを伝えた。

 そのとき食堂にはお客は僕らの他に誰もおらず、お店のおばあさんとその友達のおばあさんの二人がいただけだった。しかもおばあさんたちはお酒を飲んでいる。ジョが大声でおばあさんに僕の話を伝えると、赤らんだ顔で近付いてきた。おばあさんは嬉しそうに何かを話していたが、日本語は全く喋らなかった(*2)

 その後、おばあさん二人は僕らのテーブルで煙草をふかしながら話し始めた。僕らもトンドンジュを傾けながら話を拝聴した(*3)

 そのおばあさんの話したことを大体要約すると次のようになるような気がする(*4)

 わざわざ何かの縁でまたこの店に来てくれてありがとう。しかも韓国語を勉強しているなんて嬉しいねえ(*5)。私が若い頃は好き嫌い問わずに日本語を話させられたのに時代は変わったねえ。あの頃は本当ひどかった。そもそもある民族が他の民族と同化するには最低百年はかかると私は思うんだけど、日帝はそれを強引に36年間も続けたんだ(*6)。絶対に無理なことを無理矢理強要したんだ。時代が変わってよかったねえ。私は日本に行ったことがあるよ。友達のお見舞いに行ったんだけど。えっと、なんて言うところだったかなあ。☆*◎?えっ、そんなところない。まあ、いいさ。行ったんだから。日本の看護婦さんは優しいねえ。すごく親切な態度にびっくりしたよ。今私の娘が日本に留学しているんだけど、本当時代は変わったねえ。あんた、日本に帰ったらうちの娘に会うといいよ(*7)

 こう要約すると大したことないかもしれないが、実際には約1時間半余りそのおばあさんが必死になって語っていた。「日帝」という言葉が出てくると、すまないと思うことしかできない。けれども、時代は変わって、こうして韓国と日本の大学生が一緒にお酒を酌み交わしている。これからの韓日は友好関係でなければいけないよ。そう言っては、目がしわで消えてしまうくらい満面の笑顔で話していた。僕らもだいぶ酔っぱらってしまった。

☆解説☆

*1 もちろん喧嘩をしているわけではない。韓国語には「激音」と言って、端から見ると喧嘩でもするような発音がある。そうでなくても、日本語より激しい印象はあるが。

*2 戦前(日帝時代)生まれなので日本語が話せると思ったが、僕らの会話を聞いていても全く分からないようだった。

*3 「トンドンジュ」とは韓国の濁り酒「マッコリ」の上澄み部分。体にいいらしいが、だいぶ度数はかなり高く、韓国の若者は好きではないと聞いた。このお酒は大きなサラダボールみたいな木の器に入っていて、それをおたまのようなものですくって杯に注ぐ。僕はこのお酒が大好きだ。

*4 僕は韓国でコミュニケーションするときには、「日韓・韓日辞典」を片手に話をしていたが、このおばあさんは辞書を引く余裕すら与えない。酔っていたせいもあるだろうが、立て板に水でひたすら喋る。この会話はおばあさんの韓国語を僕が耳で聞いたり、ジョが英語に訳してくれたものを要約している。ちなみにMくんはわけも分からず見ているだけだったが、ときどき僕が日本語に訳して彼に伝えていた。きっとすごい光景だったろう。

*5 そのおばあさんは決して「韓国語」とは言わない。「ウリナラマ(我が国の言葉)」と言っていた。どうも僕はこの言葉を聞くと胸が痛くなる癖がある。それだけでなく、そのおばあさんは「日本語」のことも「日本の国の言葉」という意味の韓国語で話していた。

*6 ちなみに民族同化に最低百年と僕が要約したが、本当はそのおばあさんは50年と言っていた。その隣のおばあさんが「何言っているんだい、百年だよ!」と訂正したので、いつの間にか百年に固定したのである。ちなみにこのおばあさんも明瞭な日本語で「朝鮮人」と言って、その差別意識を力説していた。このときはジョが韓国語でおばあさんに解説してくれた。

*7 ついでではあるが、その娘さんにはまだ会っていない。連絡先も教え合っていないので、そうそう会えるわけはないだろう。酒が入るとこういうところでダメである。

ちなみにこのおばあさんの話は「酒の席では御用心」でも紹介している。

(1999 07/27 up)

キョンジュの観光スポット

 そして旅行の4日目('99.2.10)。この日はキョンジュ観光である。真っ暗なうちに起きて、日の出を見たことは既に書いたとおりだ。

韓国で見た日の出 午前中にはソックラ(石窟庵)サ(仏国寺)というメジャーどころを見学したが、僕にとってはいずれも昨年行った場所。午後はもっと変わったところに行くことにした。プサはキョンジュ市街地からだいぶ離れているので、そちらに向かいながらの古墳見学。ひたすら田舎道を歩く。そして途中「ファラン(花郎)の家」に行った(*1)ファランラ(新羅)が誇る少年教育施設であったが、今なお韓国中から青少年が集まっているところ。僕らが行ったときには残念ながら春休みであったが、「ファランは三国統一、われらは南北統一」という大きな横断幕が一番印象に残っている。

統一殿 そのファランの家からさほど遠くないところに「トンイジョン(統一殿)」がある。ここは三国統一に寄与したシラのムヨワン(武烈王)らを顕彰するために建設され、その精神を現代人にも受け継ぎ、南北統一を成し遂げようという意識を高めるために、チョンヒ大統領の頃に造られたものだ(*2)。ジョがすごく神妙な面もちで「次は彼女を連れてきたい」と言っていたのが印象的である。

 そして一路市街地へとバスで向かい、簡単な食事をした。韓国の食堂でラーミョン(ラーメン)を食べたのはこれが初めてであった。

 ここからはバスで長距離移動。僕の中では今回の旅行で最も行きたいと考えていたムンムワン(文武王)水中陵に向かう。約一時間バスに揺られ着いたところは、東海(日本海)に面した町だ。海と魚のにおいが印象的なその町にその大王陵は存在する。ムンムワンとはシラ第30代の王で、先ほど名前の出たムヨワンの息子である。父の代にから押し進めていた三国統一(676年)を遂げた後、唐(当時の中国王朝)が半島に干渉しようとしたが、その勢力を破ったのがこの王である。その王は生前、国を守る龍となり、仏法をあがめたいと話していたことから、東海に浮かぶ岩の間に葬られた(*3)。なぜ国を守るために東海に葬られたのか。それは他でもない、日本から韓(朝鮮)半島を守るためである。壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)のときに大活躍したイスンシン(李舜臣)将軍像がソウとプサンにあるが(*4)、どちらも日本の方を向いている。それを眺めている僕は何を考えるべきなのだろうか。もちろん、これらのところを僕らと一緒に見ているジョの感覚もまた違ったものがあるだろう。その不思議さが今回の旅行で最も印象深いものとなっている。

 今回もキョンジュに足をのばしたが、おもしろいことにソックラとプサを除けば、全く日本からの旅行団体と会わなかった。確かに一箇所一箇所を結ぶ交通網はキョンジュではさほど発達していないような気がする。このような強行日程を実行できたのは、他でもなくジョがいたおかげであるが、僕は日本からの旅行者にこういうところも見てほしくなった。この貴重な体験を人に勧めたい。

☆解説☆

*1 「ファラン(花郎)」の説明が必要であろう。古代の韓半島はコグリョ(高句麗)チェ(百済)・シラという3つの国が多くを占め、南の方にカヤ(伽耶)諸国があった(三国時代)。これらの諸国が互いに競い合い、最終的にはシラが半島統一を成し遂げたが、シラが統一を成し遂げた原動力の一つとなったのが「ファランド(花郎道)」である。これは氏族の青少年による組織であり、日常生活の規範や教育、伝統、軍事などを学び、お互いが切磋琢磨していく組織で、シルラの人材育成に大いに役立ったものである。そうしたファランで学んだ先人を見習い、青少年の教育を進めていこうという施設が現在の「ファランの家」である。

李舜臣の像(プサン)*2  こうした民族意識の高揚を目指す政策を、積極的に推進したのがパチョンヒ大統領である(在任1963〜1979年)。今韓国を観光すると、どこにいっても綺麗に整備されているが、多くはパチョンヒ政権期に整備されたようだ。ちなみに韓国の急行電車は「トンイホ(統一号)」という名前であるが、これも確かパチョンヒ大統領の頃に付けられた名前だったと思う。

*3 このような水中陵という形式は世界的にも珍しいようである。それこそ海の中にあるので、近くで見ることはできない。ボートでも借りれば、もっと近くで見られるのだろうが、そんな気にはなれなかった。

*4 参考程度に書くと、ソウの像はキョンボックン(景福宮)正面の道路(世宗路)にあり、プサンではヨンドゥサン(龍頭山)タワーの前にある。

(1999 07/28 up)

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