ごめんなさい。

 韓国から帰国した僕を待っていたのは「28歳・無職・独身・取り柄無し」の現実でした。楽しかった韓国旅行気分を一気に僕から奪うこととなりました。この内容については、みっちゃんは知りません。また誰にも話すつもりはありません。旅行中お世話になった、ぴらみさんをはじめ、「みなみの韓国旅行記」を楽しみにしてくださってた人には申し訳ありませんが、心が落ち着くまで、しばらくの間、旅行記はお休みさせてもらいます。ごめんなさい。


 しかし、独立記念館・日帝時代については書かせてもらいたいと思います。なお、表現上正しくない事や皆さんの気持ちを害する表現があると思いますが、それは僕が思った事を率直に書きたいがためです。また、僕は韓国語が解りません。ご了承下さい。


 侵略戦争は、戦いに勝利し植民地としなければ意味が無い。僕は“戦争や貧しさを知らない世代”だからこんな事を言えるのだと思う。明治時代の征台論から第二次世界大戦までの戦争はまさに侵略戦争である。僕は旧日本政府の侵略戦争を擁護するつもりはないが、中国・韓国、その他アジア諸国に進出した行為は、日本の国益には必要だったと考えている。当時の世界情勢を考えると、日本には植民地が必要だった。韓国に対しての行為は知識として知っている。ただしそれは受験勉強用の知識であり、僕にはそれ以上に興味は無かった。しかし、現代の国際社会、とりわけアジアを考えると、旧日本政府の行為と戦争の爪跡は避けて通れない重要な問題であり、アジアの発展には重要な課題である。そういう意味で僕は、韓国人から見た旧日本軍の侵略に大変興味があった。

 日帝時代のフロアは、気のせいか今までのフロアとは入った瞬間から雰囲気が違った。それ以前の時代のフロアは単なる古いものの陳列のようであるのに対し、ここでは人々の躍動が感じられた。勝利を称えるかのようなデッカイ彫刻や絵画があり、僕はドラクロワの『民衆を導く自由の女神』を思い出した。そしてその迫力に圧倒された。

 当たり前といえば当たり前ではあるが、植民地時代の資料は少なく、当時の人の証言を元に制作された模型が多かった。ハングルや英語で説明はされているが僕には読めない。今振り返ると、資料が少ないのではなく、僕に衝撃を与える資料が少なかったのかもしれない。旧日本軍から拷問を受けている写真などは今の僕には何にも感じなく、展示品を見ながら平和ボケの自分を再認識していた。そして僕は死んだおじいちゃんを思い出していた。おじいちゃんは戦時中、満州にいた。おじいちゃんは当時の事を何も話さなかったが、その事が余計、僕の中で引っかかる。おじいちゃんは当時何をし、何を感じ、何を考えていたのだろうかと。

 中途半端に当時の事を知っている僕は“まぁこんなもんやろう”という感想しかなかった。そんな僕を驚かせたのが「従軍慰安婦」である。従軍慰安婦という言葉は小学生でも知っているのではないだろうか? しかし、言葉は知っていてもその実態を知っている日本人はどれほどいるのだろう? 僕が知らなかっただけか? 僕は大きな勘違いをしていた。従軍慰安婦とは性的奴隷であり、強制的に娼婦にさせられ、日々レイプされ続けた女性と思っていた。戦時下における虐殺や略奪は“嫌な時代やね”の一言で済ませてしまう僕ではあるが、慰安婦だけは旧日本軍に怒りを感じていた。しかし現実は僕の想像を超えていた。1人の女性に対し旧日本兵が列を作り、順番にヌイていくのである。何人も何人も。女性は休む間もなく1日12時間ヌク道具として使われる。いくら戦争とはいえ、こんなことが許されていいのか!? いくら狂った時代であったとしてもそれで許される問題じゃないやろ!!

 みっちゃんは何を考えているのだろう? 僕は、みっちゃんに話しかけようと思ったが、結局話しかけなかった。日本語を話したくなかったからだ。フロアにいる韓国の人が怖かった。ハングルを日本語訳してもらいたかったが、僕は言えなかった。凄く居心地が悪かった。

 夜、ベットに入ると再び従軍慰安婦の事を思い出した。慰安婦の事を考えると“悲惨”という言葉しか出ない。僕の語彙力にも問題があるが、とても慰安婦の気持ちを想像出来ない。彼女たちに何と謝罪すればいいのだろう? どうすればこの問題が解決するのだろう? 僕には解らない。



 独立記念館の館庭に『統一KOREA』の旗が掲揚されている。国民の意思と政府、国際世論が隔絶しているように思え、胸が痛くなった。

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