韓国旅行記2

韓国旅行記は僕の韓国旅行の体験を綴った文章です。

当時つけていた日記をそのまま起こしたものですので、

分かりにくい表現や間違っていることには解説をつけました。

また、地名や大切な言葉は太字にしています。

都市の場所が分からない方はここをクリックして下さい。

韓国の地図を用意しています。

それでは、お楽しみいただければ幸いです。

韓国旅行記2 序章
韓国旅行記2−1
韓国旅行記2−2
韓国旅行記2−3
韓国旅行記2−4
韓国旅行記2−5

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韓国旅行記2 番外編へ

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みなみの韓国旅行記へ

韓国旅行記2 序章

 今日から「韓国旅行記2」の連載をスタートすることにした。訪問者の足跡から察して、どうやら旅行記が一番人気があるようだし、実際に韓国に行ったときの様子を伝えないことには、他の文章も書きづらい。本当は僕の韓国旅行はたった2回しかないので、これを書くとネタ切れになってしまうが、この際そんなことにこだわらず、始めさせてもらう。ただし、今回の旅行は前回と趣が違う。なんの説明もなしに突然「2」を始めると、何のことか分からないだろう。よって、今回はまず旅行前の話から始める。

 京都は学生の街だ。しかも国際都市である。よって留学生は豊富にいるが、幸い僕にも韓国からの留学生の友人ができた。その人の存在抜きには今年の旅行は語れないだろう。

 その人とは研究会で知り合った。彼女は日本近代史を専攻しており、韓日関係を語る上では下地のしっかりした話しやすい相手だ。僕はその段階で自分が考えていることをぶつけ、できるだけ相互理解をしようとした。途中彼女が僕のことを「日本人」と見ているという疑いが起こり、ぶつかり合いもしたが、韓国語を教えてもらったり、こっちも日本語(どちらかというと漢文)を教えたりと、大変勉強させてもらった。

 2回目はその彼女の紹介で、韓国第二の都市プサンにある、プサン国立大学校の学生(もちろん男)の下宿に住むことになった。宿泊費が浮くというだけでなく、同年代の男子学生とともに生活をするということは、僕には大変魅力的だった。実際その時点で僕の知っている韓国の男性はみんな年上だったのである(*1)

 彼女から紹介してもらった男性は寮生活をしていたため、彼のところに潜り込むことはできなかった。代わりに彼の友人の下宿にお世話になることにした。ただし長期間だと迷惑だろうと思い、トータル4泊である。

 今回の韓国旅行にはいくつかの目的があった。一つは同年代の男子学生との交流、一つには田舎に行く、そしてなるべく歴史的なところに行く、韓国語を話しまくる。

 今回も同行者を伴った。年下の後輩で、韓国語は全くの素人。海外旅行自体初めてであった。突然韓国語を勉強しろと言っても無理なので、旅行前に英語を少し復習することを勧め(*2)、出発した。

 2回目の旅行に行くまで、僕はいろいろな方面に手を伸ばして韓国に関する勉強をしてきたので、実際に韓国の人と生活し、議論した今回の旅行は貴重な経験である。以前の旅行記よりもその分内容がディープなので、多少手を加えさせてもらうが、「韓国旅行記2」を始めさせてもらいたい。

☆解説☆

*1 その理由は至極簡単である。韓国には徴兵制があり、男性は2〜3年間軍隊生活をしなければならない。そして多くの男性は、大学入学前や在学中に軍隊にはいるので、日本に留学してくる頃には若くても25歳くらいである。軍隊生活は本当に苛酷なようであるが、ここでは特に何も書かないでおこう。

*2 かといって韓国で英語が通じるというわけではない。「韓国旅行記1」にも書いたように、英語と日本語だけを引っさげて韓国を旅行するのは想像以上に大変だった。韓国の高校では英語が必修とは限らない。また、日本と韓国では英語に関する独特の発音が存在するので、カタカナ英語では大変苦しむ。今回、同行する彼に英語を勧めたのは、あくまで一緒に生活する韓国の学生が英語も勉強しているということが理由である。韓国に行ってみたいと思う人は、願わくば韓国語を勉強してほしい。日本でも英語で話しかけられたら多くの人は困るでしょ?

(1999 07/16 up)

韓国旅行記2−1

'99.2.7

 今日、2回目の韓国旅行に出かけた。同行者はMくん。彼にとっては初めての海外旅行だ。

 キメ(金海)空港に着くと2人の男性が我々に近付いてきた(*1)。どっちがジョなのか全く分からず、韓国語で話をしたが、よく分からない。英語で話したところ、どちらもジョではないことが分かった。彼らはジョの友達のイーとハンだった。バスにゆられてプサン市内に行った(*2)

プサンの市場の赤 その後、ハンの部屋に行って荷物を置き、CDショップに行く。そこで初めてジョに会った。彼は想像したほど怖い顔ではない。それどころか楽しい人だった(*3)プサン大学のすぐ近くで夕食をとる。メニューはチッチゲ。辛いけどおいしい。その後、部屋でお土産を渡す。10時くらいまで僕らの旅行のスケジュールを考えて、外に遊びに行く。ビリヤード。4ボールというやつ。他にはゲームセンターで遊んだり、セルフサービスバー(?)でビール(HITE)を飲む(*4)。みんなプサン大学校の学生で頭がいい。イーは日本語を勉強し始めて2年。ハンは1ヶ月。どちらも独学らしい(*5)。けれども、おかげで韓国語、日本語、英語がごっちゃになりながらの会話。頭の中がうに状態だがなかなか楽しい。Mくんも日本にいるときよりも積極的に英語を話している。いいことだと思う。ジョは少しだけプサン大学校の図書館を案内してくれてから寮に帰った。1時半くらいまでいろいろ話したが、個人的には日本人の韓国観を伝えることができてよかった。せまい部屋で4人が寝る(*6)。初日が終わった。

☆解説☆

*1 キメ空港とは、プサンに最も近い空港。言い忘れていたが、僕はジョとメールのやりとりをしていて、多少親しくなっていた。旅行前に友人にデジカメで僕の写真を撮ってもらったので、それを送っていたので、僕を探すのには困らないと思っていた。しかし、ジョは都合で向かいに来ることができなかったので、二人は僕の顔を知らずに迎えに来たわけだ。目印は僕の大きなバックパックだった。

*2 日記には書いていないが、このバスの中で僕らが座った席の近くに、韓国の女性二人が座っていた。母と娘という組み合わせだったが、母親の方が日本の貿易関係の会社で働いているため、韓国語や日本語を話す僕らに注目し、話しかけてくれた。僕らは今日初めて会うが、韓日の大学生同士の交流だと説明すると、大変喜んでくれ、道中の安全を願ってくれた。

*3 これは説明なしでは分からないだろう。僕の旅行前の情報では、「ジョは優しいが目つきが怖い」ということだった。明るい好青年である。

*4 「4ボール」とは、2人一組でチームを作り、2チームが4つのボールを打ち合う方式。僕はあまりビリヤードに詳しくないので、このルールが日本でも適用されているかどうか知らない。ビールについては「韓国旅行記1−4」参照。セルフサービスバー(?)とは、お菓子やお酒を商品棚から取り出し、その場で飲食するというもの。普通の居酒屋より安いらしい。

*5 どうやらハンとイーは、ジョが僕らのために用意した通訳スタッフだったようだ。しかし二人とも日本人を相手に話すのは初めてだったらしい。語学力は僕の韓国語より上だと思う。ちなみに二人が日本語を勉強している理由は、就職のため。不景気が理由で、英語や日本語を話せないと就職が苦しいらしい。

*6 僕らが連れて行かれた段階で、ハンが「ここは僕の部屋」と言っていたが、実はハンとイーが二人で住んでいることが後で分かった。韓国では親しい友人同士相部屋に住むのは珍しくないらしい。ちなみに広さは、台所とトイレを除けば6畳くらい。床はオンド(床暖房とでも言うのだろうか)なので、冬と言っても毛布1枚で寝ることができる。電気式のオンドで、昼間はスイッチを切るので、朝になると寒くて自然に目が覚めるが、余熱で2度寝も可能である。

(1999 07/18 up)

韓国旅行記2−2

'99.2.11

 今朝は9:30ぐらいに起きて、ジョと昨日知り合ったキと大学の食堂で朝食をとった後、大学のテニスコートでテニスをした(*1)。久しぶりなので、ちょっと勘が狂っていたようだ。ジョ&Mくんvsキ&自分で試合をしたが、力がちょうど釣り合っていたようで、タイ・ブレークまでもつれた挙げ句、7対5で勝つことができた。しかし、とても時間がかかってしまい、急ぎながらはんこを買う。さすがにハングで見る自分の名前は変な感じはしたが、それだけに喜びもひとしお。買いに行く前にジョの寮にも行った。相部屋だが相方は帰省中とのこと。食事も付いて月々20万ウォンは安いだろう。

金首露王陵 その後、キメ(金海)に行くために、プサン大学校前からバスに乗る。今日もジョの彼女が一緒らしい。キメは思ったほど田舎ではなく(*2)、寧ろ奈良市くらい栄えていた。お昼はトックを食べたが、これは餅入りスープ。韓国ではに食べるらしい(*3)。キメでは、スロワンヌン(金首露王陵)国立キメ博物館王妃陵クジボン(亀旨峰)に行った。キメは金官伽耶(クグァンガヤ)の都であり(*4)、少し研究が立ち遅れているようであるが、それなりに勉強になった。特にキスロワンヌンで見たキ(金)氏族譜、ホ(許)氏族譜という膨大な本には驚かされた(*5)

 プサン行きのバス(130-1)に乗り、ジョの彼女と別れてプサンに着くと、卒業式とあって(*6)、多くの人がプサン大学前にいた。夕食のポック(韓国風チャーハン)は自分たちで焼かなければいけなかったが、とても楽しかった。

 ジョが門限のために帰った後、イー&ハンとマッコを飲みながら、民族性、国民、国家などについて熱く語った。とても嬉しい。いい最後の夜になった。せまくても楽しい部屋に帰る。そう言えば生まれて初めてハング'97を使った(*7)。プサン国際映画祭のCD−ROMをイーからもらった。

☆解説☆

*1 プサン大学には、世界にも珍しい国際貿易学部があり、キはそこの学生。彼は初めて会う日本の人(つまり僕ら)に感動して、政治や経済の韓日比較といった話をしてきた。生活実感の上ではともかく、僕自身まだまだ日本のことを知らないなと感じさせられた。ちなみにこのキはキメ出身で、キスロワンの子孫だそうだ。

*2 今回、旅行の目的の一つとして「田舎に行きたい」と僕は考えていたが、ジョが紹介してくれた「田舎」が、彼の出身地キメである。日本の観光ガイドには殆ど載っていないようだ。

*3 「ソ」とは旧正月のこと。'99年の旧元旦は2月15日で、前後の日と合わせて、韓国では3連休となる。日本と違い、韓国では旧正月を盛大に祝うが、僕はわざとその時期に近い頃を選んで韓国に行った。本当なら元旦当日もいたかったが、お店が閉まるかもしれないので、旅行者には厳しいのではと判断。ちなみに、旧正月が近いだけあって、誰にあっても「日本の旧正月はどんなですか?」という質問をされた。

*4 クグァンガヤとは、韓半島の三国時代にあったカヤ(伽耶)諸国の一部である。5世紀くらいまでにコグリョチェの3つの国は早くに成長していたが、それらに取り込まれなかった諸国がカヤである。カヤは結局まとまらず、滅ぼされるわけだが、カヤ諸国で最初に成長した国がクグァン(金官)である。キスロワンはカヤを創世したと言われる始祖である。ついでではあるが、日本史で言われる「任那(みまな)」とはこのクグァンの別名である。「研究」云々と言うのは、確かかどうか分からないが、古代韓半島の歴史研究は三国が主流であったのではないだろうかという考えから来ている。それは国立博物館をいくつか見た上での私見だが、韓国での研究動向を知らないので詳しくは分からない。

*5 韓国では先祖を同じくする人とは結婚できないという話を、誰もが聞いたことあると思う。「族譜」とは、先祖を同じくする人が書かれている系図。僕はこの2氏しか見なかったが、それだけでも6畳くらいの部屋の本棚は埋まってしまう。残念ながら中身は見なかったが、その量を見ただけでも圧巻だった。

*6 韓国の学校は、日本よりも一月早いサイクルで回っている。だから、卒業式は2月、入学式は3月になる。

*7 「ハング'97」とは、韓国のワープロソフトの一つ。その頃の僕は、ハングをどうやって打ち込むのかという疑問があり、ぜひ一度触ってみたかった。今では記号以外、だいたい打ち込めるようになった(気がする)。ハングのキーボード配列は、日本のひらがな配列に比べて、ずいぶん合理的だと思う。逆に、この配列になれてしまうと、アルファベットでは入力できなくなる。

(1999 07/29 up)

韓国旅行記2−3

'99.2.12

 今朝は筋肉痛で体が動きづらい。昨日のマッコのせいか、ハン&イーは起きないので、ひげをそってからMくんと一緒に銀行に行く。が近いせいもあって人は多い(*1)。どうにかお金を両替してCDショップを探しに行くが場所が分からない。考えてみれば電話以外では初めての自由行動だった。みんなのおかげでいろいろな経験をすることができるが、特にジョは一挙手一投足まで何をしたいか教えてくれと言う。やっぱり僕の韓国語がまだまだ未熟なのだろうか。部屋に戻って4人でCDを買いに行く。2枚で19,500ウォン。やっぱり安い。昼食をとった後、プサン駅へ。昨日はお腹を出して寝たせいか、マッコリのせいか、お腹の調子が悪い。イーが手配してくれたおかげでムグンファホのチケットはある(*2)。駅へ行く途中、僕はイーとだいたい話していたが、「みっちゃんの顔を忘れたくない」という片言の日本語が印象的だった。

 13:00に改札に入る。僕は「日本でまた会いましょう」ということを韓国語で伝えた。手を振る彼らを振り返り振り返りするうちに涙が出てきた(*3)。この6日間はやっぱり楽しかったんだ。今朝ちょっとだけ大学校でジョに会ったときは大丈夫だったのに・・・。

 ムグンファホは約5時間でソウに行く。その間、北韓(朝鮮民主主義共和国)ツアー体験の本を読み終わった(*4)。こっちも違った意味で行ってみたい。

 ソウはめちゃくちゃ寒い。観光案内所はソルラルの人混みで話ができない。あっちこっち迷いながらヨンシンネに行き、去年泊まったホテルに行ってみる(*5)。やっぱり部屋があったので、とりあえず1泊。夕食はもちろんあの焼き肉屋へ(*6)。けれどもチャンさんはシカゴにいるそうだ。残念。

 Mくんはさっさと寝た。ついに彼のことを一所懸命心配しなければならない(*7)

☆解説☆

*1 韓国では旧正月は祝日なので、今のうちにお金をおろそうということだろう。ちなみに、町のあちこちに警察官がいて、警備をしていた。こんなところにも年末の慌ただしさが窺える。日本で約1ヶ月前に正月を迎えた僕は不思議な感覚になった。

*2 何度か書いたと思うが、韓国の電車には「特急」「急行」といった呼び名ではなく、このような名前が付いている。「ムグンファ(無窮花)」とは韓国の国花・ムクゲのこと。特急電車に該当する。去年はその上のセマウに乗ったので、比較してみると、ムグンファの方が座席間隔がせまく、足の置き場に困った(新型はゆったりしているらしい)。セマウ・ムグンファとも全席指定だが、去年セマウは空いていたのに対して、今回のムグンファは満員状態だった。これもソのための帰省ラッシュだろう。ハンとイーも僕らを見送った足で帰省していった。

*3 2回韓国に行ったが、泣いたのはこれ一度きり。一人だけ感傷に浸っていた。他の誰もが笑顔でお別れだったのがうらめしい。

*4 「この本読んで!」参照。韓国では朝鮮民主主義共和国のことを「プッカン(北韓)」と呼び、朝鮮民主主義共和国では韓国のことを「ナヂョソン(南朝鮮)」と呼ぶ。ちなみに今日たまたま台湾の雑誌を見たが、そこでは「南韓」「北韓」という言葉を用いていた。韓国寄りだなあと思っていたら、半島のことは「朝鮮半島」と書いてあった。おもしろい。

*5 僕らは当初、安い民宿に泊まる予定だった。その理由は、韓国語を話してみたかったこととオンドで寝たかったことにある。しかし、結局ソウでの宿泊先は去年と同じホテルだけだった。このホテルに関しては「韓国旅行記1−2」などを参照。

*6 この焼き肉屋さんの話は、「韓国旅行記1−1」参照。チャンさんはスチュワートで世界中に飛び回っている。

*7 今まではプサン大学校の人たちが通訳としてがんばってくれたが、これからは僕が彼の専属通訳になってしまうわけである。彼らは僕に対して口々に「Mくんをよろしく」と言っていた。おいおい、僕はどうでもいいのかい?

(1999 07/29 up)

韓国旅行記2−4

'99.2.13

韓国の遊び(ユンノリ) 今朝はゆっくりしすぎた。旅の疲れか、11時に目が覚める。さっさと支度してヨンシンネをぶらぶらして、ブランチを食べて、地下鉄でキョンボックン(景福宮)へ行く。国立中央博物館へまず行く(*1)。さすがに中央博物館だけあって広い!図録もちょっと大きい。これで3ヶ所の国立博物館にいったことになる(*2)。キョンボックンの方はやはり日本の人が多い。同じ敷地内にある国立民俗博物館にも行く。ソが近いせいか、伝統的な遊びを外でやっている。特に凧揚げの高さには驚いた。5:00に博物館を追い出されたあと、KBS(韓国国営放送)のニュースレポーターのイーさんにサインをもらった(*3)。写真も撮ったが、うまく映っているかどうかはあとのお楽しみ(*4)

韓国の遊び(コマ) そのあと、デムン(南大門)市場に行ったが大失敗。Mくんがだて眼鏡を買ったが、ぼったくられてしまった。2つで13万5千ウォン。更に屋台で、Mくんは焼き鳥を5本、僕はパジョン(チジミ)を食べたが、初め1万4千ウォンと言っていたのに、支払いのときに1万8千ウォン取られた(*5)。腹が立ってしょうがない。やはり日本の人はお金に見えるのだろうか。悔しい。

 その後夕食はもう食べずにホテルに行く(*6)。途中、去年眼鏡を買った店に行くと、まだ僕のことを覚えていてくれた(*7)。レンズが古くなって少し見えにくいので、交換してもらった。今年は日本語を話せる店員がいたので、だいぶ楽に交渉できた。

 夜は特に何もせずにヨンシンネで散歩をしただけ。Mくんはさっさとダウンしたので、一人でゆっくりと日記をつけた。

☆解説☆

*1 一応説明しておくと、キョンボックンという宮城の中に、中央博物館や民俗博物館はある。だからこの日は基本的にキョンボックンの敷地内で観光したことになる。

*2 日本には、国立博物館は東京・京都・奈良の3つしかないが、韓国は確か二桁くらいの数はあったと思う。僕にはとても多いという印象があるが、その理由は自分で考えてみて下さいね。たまには。もちろん、僕がこれだという答えを持っているわけではなく、僕なりにはそう解釈しているというレベルの考えはあるが。

*3 このあたりの記述は、本人が分かる程度にしか書かれていないので、きっと分かりにくいと思う。要は民俗博物館前の広場で、ソに合わせて伝統的な遊びに興じている子供たちをニュースで紹介していたようだ。その撮影が終わった後、子供たちが一斉にレポーター(女性)にサインを求めていたので、僕らもその列に加わった。韓国の人はどんなサインを書くのかという比較文化研究という強引な理由で自分を正当化して。いざ、僕らの番になったとき、僕は「日本から来ました。サイン下さい!」と韓国語でお願いしたが、あっさりと日本語で「いいですよ」と言われてしまった。彼女は日本に留学したことがあるらしい。いやそうなそぶりもせず、サインをくれたので僕ら二人にはとても幸せな気分になった。サインにはソに合わせて、「新年の福をたくさん授かりますよう」という韓国語が書かれた。

*4 うまく映っていた!(^^)!。しかもMくんと僕それぞれがツーショットで。

*5 僕はできるだけ韓国語で話しかけていたのに、その屋台の人はわざわざ日本語で答えていた。しかし、注文する前に値段を訊くときだけ韓国語で答えてきた。しかし4千と8千はいくらなんでも聞き間違えようがない。それとも、何か別のものに付加価値があったかも知れないが、なんの説明もしてくれなかった。納得行くまで話ができない自分の語学力を恨めしく思った。眼鏡の相場に関しては「韓国旅行記1−2」参照。

*6 お互いぼったくられてへこんでしまっていたので、夕食をとる気がしなかったからである。

*7 やはり「韓国旅行記1−2」参照。ちなみに、去年は受取人の名前を書くときに、「ハングかアルファベットか?」と僕が英語で尋ねると、店員はあきらめて「日本人」と書いてしまったが、今回の僕はすらすらと自分の名前をハングで書いた。ちょっと成長(^^)。

(1999 07/30 up)

韓国旅行記2−5

'99.2.14

 大事件発生。Mくんが風邪を引いてしまった。昨日から頭が痛いと言っていたが、やはりソウの寒さが効いたらしい。それに今朝から雪も積もっている。大変だ。「みっちゃんは一人で行きたいんでしょ」と言うので心苦しいが、かといってホテルに釘付けでは最後の日なのに勿体ない。しょうがなく、当初の予定通りスウォン(水原)に行った(*1)。途中、電車を乗り違え、時間がかかったが、スウォンに到着。無料バスを探しに案内所に行くと、雪でバスがないので、日本の方2人と一緒にタクシーで行けとのこと。外資系企業の男性とその妻のようで(*2)、兵庫から来て、3泊4日。明日帰るそうだ。

 韓国民俗村は寒いため、催し物は一切なし(*3)。7,500ウォンはちょっと高い。それでも韓薬店のおばさんたちと(*4)インサタン(人参湯)を飲みながら、ゆっくり話せたのは嬉しい(*5)。どこへ行っても「留学生?」と聞かれる。民俗村に来る日本の人はたまに韓国語を話せる人もいるそうだが、多くは話せないそうだ。そういえば日本語を話す韓国の女性が、日本のおじさんと腕を組みながら案内していた(*6)

 その後さっきの夫婦とまた一緒になり、イテウォン(梨泰院)まで行ったが、(欲しい物が)何もないので、バスでデムン市場まで行ってから地下鉄でミョンドン(明洞)に行き、CDや本を買った。

 ホテルに戻るともう7時。結局Mくんは一日中いたらしい。ヨンシンネポック(チャーハン)を食べ、風邪薬を買いホテルに戻る(*7)。今日はもう寝ることにする。

 去年よりは(当然だが)韓国語が分かった。けれどもやはり聞き取りや実際に話す練習をもっともっとしなければならない。いい勉強になったと思う。

☆解説☆

*1 これだけ読むと無責任に思われるので、若干言い逃れをしておくと、僕が一人で出発する前にコンビニで水と食料を購入し、ホテルのフロントの人にお願いをしてから出かけた。スウォンは韓国民俗村を見るためだけに行った。

*2 少しだけこの方の話を書いておく。男性の方は外資系だけあって英語が堪能だそうで、旅行中はひたすら日本語と英語で話すらしい。韓国語は文字が読めるくらいだそうだ。そして、この方は韓国での交通手段として常にタクシーを利用する。僕は一度タクシーでぼったくられたことがあるので、2度と乗らないようにしていたが、この人にとってはそんなのお構いなしだそうだ。

*3 韓国民俗村は李氏朝鮮時代の家屋を移築し、普段は農楽や婚礼行列、綱渡りなどが時間ごとに広場で催されている。だから普通ならば丸一日いてもおもしろいところらしい。しかしこの日は一切の催し物が中止された。

*4 韓国では漢方のことを「韓方」と漢字で書く。だから「韓薬店」とは「韓方」を扱っている店。民俗村の中では茶店も兼ねていた。

*5 韓国民俗村で働く人は、仕事の合間を見て日本語を勉強していた。どうやらみんなにテキストを配って勉強させているようである。おばさんたちの話では、日本語が話せないと商売にならないらしい。僕はそのテキストを見せてもらったが、接客用の日本語テキストだった。勢い僕はにわか日本語教師となり、発音を教える羽目になってしまった。「いらっしゃいませ」などなど。

*6 このことはあまり書きたくなかったのが正直なところだ。見ていてすごくイヤな感じがした。男女2対2の組み合わせで一緒に行動していたが、個人ガイドだということを聞いた。僕が見た男性はマナーが大変悪く、見ていて恥ずかしくなった。お金を払えば何をしてもいいのだろうか。こういう現状があるから、日本人は韓国でぼったくられるのだろう。

*7 僕らが入った韓国の薬局は、韓(漢)方薬を扱っていた。こういう薬局は韓国では多いらしい。ちなみにこの薬のおかげか、翌日にはMくんも快復し、無事日本に帰ることができた。

(1999 07/31 up)

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