雑感ノート 番外編
もともとこのHPは、「韓国徒然草」という
僕の気ままな随筆(?)で構成されていました。
現在、それらをジャンル別に並び替えて
載せていますが、そのジャンルに規定できない
雑多な文章をここで紹介しようと思います。
先日、本屋に立ち寄ったところ、一番売れている本のところに「ゾマホンのほん」があった(*1)。ぱらぱらっと見ただけだが、妙に納得させられてしまった。というのも、彼は最近独立国となったベナン共和国からの留学生なのだが、「アフリカには電気があるの?」とか「ベナンって国?」とかいう失礼な質問を何度もされたことが書かれていたのだ。「日本の人はアフリカを知らない」と言っているが、僕の実感としては、残念ながらその通りだという気がする。
要は何が言いたいかということなのだが、僕は決して韓国だけにしか興味がないわけではない、ということなのだ。韓日関係を最重視していることは確かだが、韓国好きに固まってしまうのではなく、もっともっと世界を知りたい。そう思っている。
ある留学生がいて、その人とは会えば挨拶も話もするし、ときどき英語でも会話をする。名前も英語だ。そして僕はその人をずうっとアメリカの人だと思い込んでいた。けれどもある日なにげなく出身を訊いたところ、「南アフリカ」という答えが。これはかなりショックな事件だった。英語=アメリカという貧困な発想。テレビでゾマホンが日本に向かって常々警告していることである。
そもそも僕が「世界」というものを初めて感じたのは小学生のときのことだ。第2次世界大戦、主として満州から日本の人が引き揚げてくる際に、経済的な理由などにより中国に残されていった中国残留孤児。そのうちの一人がなんと僕の田舎にやって来たのだ。しばらくは日本に滞在すると言うことで、地元の新聞でも取り上げられた。そしてある日曜日に、僕の地元では歓迎の意を込めてバスハイキングをしたのである。当然の如く僕も参加したのだが、お昼ご飯のとき、みんなが日本の歌を歌いはじめたので、そのお礼も兼ねて、その方の息子さん(当時中学生)が中国語の歌を歌ってくれた。当然僕には全く意味が分からず、きょとんとしてしまう。周りでは笑って聴いている人もいた。するとその人が突然泣き出したのだ。そのとき僕は笑われたことに対する恥辱意識から泣いたと判断したのだが、もしかしたら中国をなつかしく思ったのかもしれない。突然日本にやって来て、日本語しか話さない親戚や近所の人に囲まれたからかもしれない。
そして僕が高校を卒業する頃、今度は隣の家に中国の方が住むようになった。以前の経験もあって少しくらい中国語が話せるようになろうと、中国語の会話集を買い、そこに書かれたカタカナを読みながら話しかけた。そんな経験もあって大学では中国語を履修することにした。
中学のときにはアメリカとカナダに3週間行った経験もある。そのとき初めてホームシックを知った。自分がマイノリティーになり、会話すらままならないような状況に初めて置かれた経験だった。
そんなこんなで今では韓国語を勉強している。中国語のおかげで韓国語を勉強する際も「漢字語」が大いに役立っている。この論理で行けば将来的には東南アジアの言語も勉強するかもしれない。
もちろん海外志向ばかりが強いわけではない。バイトをしては鈍行列車で日本各地を旅し、貧乏生活に陥ってはバイトをしという悪循環(?)をだいぶ経験したが、それはそれで僕の楽しみ方だ。
今、世界がどんどんボーダーレス化している。国際化も進められている。そんなこと言われなくても分かっているだろうが、ただ海外に行けばそれでいいわけじゃないよって言いたい。片言の言葉で旅先の人と会話をし、自分の思い込みや常識をぶちこわされてしまう、そんな楽しい経験をして、もっともっと多くの世界を知りたいし、知ってほしい(*2)。
☆解説☆
*1 ゾマホン・ルフィンは上智大学の院生で、現在「ここがヘンだよ日本人」(TBS系)というテレビ番組に出演している。辛口で考え方に芯が通っていて、でも感情的な発言が多い人。この本は彼の出身地ベナンに小学校を建てるために書いたもので、印税は全部建設費用に充てるそうだ。
*2 僕はここで海外旅行を推進したいわけではない。経済的理由や仕事の都合で、行きたくても行けない人はきっといるだろう。かくいう僕も2回しか韓国には行っていないが、日本にいてもいろいろな経験は可能だ(過去の「韓国徒然草」参照)。自分にあった方法で国際交流を経験してほしいし、僕もどんどんしたいと思っている。
(1999 11/27 up)
日本の小渕首相のシンクタンクが打ち出した21世紀日本構想の中に、「英語を第2公用語に」という案があった。このニュースを聞いて耳を疑った人も多いのではと想像している。
現在、アジア諸国の中で日本は英語下手で知られている(*1)。そのことを克服するための手段として絞り出した案が「第2公用語」だろう。しかし果たしてその構想が実現した場合、正しい政策だと判断できるのであろうか。
アジア諸国の中でも英語を公用語に含めている国はいくつかある(*2)。しかし、それらは植民地などの結果として英語を用いているのであって、なぜ今になって日本でも英語を採用する必要があるのだろうか。
確かに、僕が韓国旅行をした際、コミュニケーションの手段として英語は大変役に立った。英語の重要性は子供の頃から分かっているつもりである(*3)。しかし、日本語自体正確に使うことのできない人が多いこの日本で、英語を公用語にしたら、どうなるのであろうか?
幸いにも日本は漢字を用いる言語であるので、中国や韓国はもちろん、東アジアの言語を知る上では大変役に立っている。韓国では漢字を排除して、殆どの文章をハングルで表記する運動があり、ハングルこそ韓国の英知とされている。しかし、最近の韓国では若者の漢字離れがひどくなることを嘆いている(*4)。けれども、少なくとも東アジアの根っこには漢字文化があり、日本語を知ることによってアジアとの交流がより容易になる下地が備わっているのだ。
にもかかわらず英語の公用語。これは現段階での日本政府の外交姿勢を窺う格好の材料であろう。つまり、21世紀になってもなおアメリカに追随しようとする姿勢。
もちろん、ネット社会の発達で、英語が重要な位置を占めていることは、この文章を読んでいる誰もが感じているだろう。けれども、英語が公用語になった場合、他の言語がより排除されてしまうのではという危機感がどうしても頭をもたげてしまう。
韓国の教育部が打ち出した2000年度主要業務計画によれば、韓国の小中高校では、週1時間程度英会話を中心とする授業を盛り込んでいく方針だそうだ(*5)。僕にとってはこちらの方がより実践的な方法だと思う。言語は読み書きはもちろん、耳と口が重要となる。多少文法が間違っていても、自分の言おうとすることを伝えればコミュニケーションは成立する。それに日本の場合、英語を勉強する環境は本来充分すぎるほどあるのではないだろうか。
21世紀に向けて考えていく場合、僕は日本語をより重要視した方がいいと考える。日本語を知ることがアジアを知ることになるからだ。他の言語を学ぶことは決して楽なことではない。けれども、苦労して覚えたほんの一言が、気持ちをとても嬉しくさせる魔法を持っている。僕は英語不用論を提唱しているわけではない。英語も含めて、より多くの言語に興味を抱いて欲しい。
☆解説☆
*1 それと肩を並べているのはお隣韓国(失礼)。
*2 たとえば、シンガポールや香港などがそのはずである。
*3 「僕の国際経験」参照。
*4 「正直なところ、僕も韓国で広く漢字が使われるようになったらいいと願っている。元々韓国語の半分くらいは漢字に置き換えられるのだ。
*5 2000年2月20日付「朝鮮日報」
(2000 02/21 up, 2001 01/13 revised)