雑感ノート2
もともとこのHPは、「韓国徒然草」という
僕の気ままな随筆(?)で構成されていました。
現在、それらをジャンル別に並び替えて
載せていますが、そのジャンルに規定できない
雑多な文章をここで紹介しようと思います。
韓国にもバレンタインデーはある。こんなことを書いても、ちっともびっくりしないかもしれない。日本よりクリスチャンの割合が高いので、それは当然なのかも知れない。しかし、日本でバレンタインデーと言えば、クリスチャンでなくとも心躍る(かもしれない)日だろう。実は韓国でも同じなのである。
バレンタインデーに女性が意中の男性にチョコレートを贈るのは、日本のチョコレート業界の戦略だと聞いたことがあるが、定かではない(*1)。とにかく韓国にもバレンタインデーがあるのである。
2回目の韓国旅行のとき、僕らは2月15日に日本に戻る予定を立てていた。プサンの学生の部屋で(*2)、みんなで歌番組を見ながらいつの間にか話はバレンタインデーになった。例によって僕の語学力の低さ及び記憶が曖昧になってしまっているので、以下の話には嘘があるかも知れないが、思い出しながら書いてみたい。
ジョの話では、韓国のバレンタインデーも日本と同じように、2月14日に女性が好きな男性にチョコレートなどを贈るらしい。僕らがプサンにいたのはそれ以前だったので、ジョはすごく楽しみにしていた。「みっちゃんはチョコをもらわないのか?」と訊いてきたので、僕は強気に「その日はソウルにいるからもらえなくてもいいんだよ」と答えた。しかし、彼はそれを負け惜しみだと言って笑っていた。ここらへんは韓日共に同じようである。
更に彼は3月14日の話をしてきた。まさかとは思ったが、当然のように韓国にもホワイトデーがあるのである。ジョが何を贈ろうか考えていたことを考えると、特に決まっていないのかも知れない(*3)。
しかし驚きはその続きにある。なんと4月14日にもイベントがあるのだ。その日は「ブラックデー」と呼ばれ、名前からして不気味な感じがする。なぜブラックデーなのかを考えてみると、いかにも韓国らしい気がする。
ブラックデーとは、バレンタインデー・ホワイトデー共に縁がなかった男性が集まって、チャージャン麺を食べに行くらしい。なぜ「ブラックデー」かと言うと、チャージャン麺にかかっているソース(スープ?)が黒いからだ。
ここまで来ると日本の負けである。1個1個のイベントを確認し合った結果、韓国の方がイベントが多かったのだ。
ただ僕は邪推をしてしまう。もしかしてブラックデーとはチャージャン麺業界が売り上げを伸ばすためにしかけたイベントなのかと。真相は分からない(*4)。
☆解説☆
*1 今回の内容は特に取材もせずにふと思い出したままに書いているので、どこまで本当なのか分からない。ただ、韓国にもバレンタインデーがあり、日本と同様のイベントと化している背景には、ロッテの作戦なのかもしれないなあと漠然と思った。実際どうなんだろう。
*2 このメンバーに関しては、「韓国旅行記2」の前半にいろいろと書いてあるので、参考にして欲しい。
*3 ただ、もしかしたら白い物を贈るというルールがあったかも知れない。今回は自信のない内容ばかりで恐縮である。
*4 更に「イエローデー」なる記念日もあるそうな…。
(1999 08/13 up)
今日、日本は54回目の終戦記念日を迎えた。日本は第2次世界大戦において敗北を宣言したのである。しかし同じ8月15日を祝う人たちもいる。他ならぬ韓国のことだ。韓国ではこの日を「光復節」と呼んでいる。すなわち光が戻った記念日であるが、ということはこの日まで韓国には光が降りそそがなかったと言うことになる。それは一体どういうことだろうか。この日を境に韓国では何が変わったのか。知っている人にとってはごくごく当たり前の話になるかも知れないが、簡単に紹介してみたい。
「日帝36年」という言葉があるが、これはつまり大日本帝国による韓国支配が36年続いたことを意味する。韓国という国が世界地図から消滅したのは1910年のことだった。もちろん、突然1910年に日本軍が侵出して国をなくしたわけではなく、それ以前から既に動きはあった。1904年に始まった日露戦争を契機に、日本はどんどん韓半島に侵出し、国王を退位させたり韓国軍隊を解散させたりして徐々に骨抜きにし、1910年の併合に踏み切ったのだ。現在のソウル中心部に朝鮮総督府を置き、韓国支配をスタートさせたわけだが、その内容を一言で言うと、初代総督寺内正毅(まさたけ)の言葉が表している。
「朝鮮人は服従か死かのいずれかである」
この後、日本は次第に韓国内の改革を押し進めていった。彼らは日本帝国臣民と位置づけられることになる。しかし実際には「内鮮人」として差別されたそうである。
1919年には有名な三一独立運動が起こるが、その際に弾圧され死亡した人は7600人以上とも言われている。こうした日本の植民地支配は日本と中国との戦争が進んでいく中でエスカレートしていく。彼らは日本人として生きることを強要され、1940年には日本名を名乗らせるという「創氏改名」が実施され、翌41年には韓国語教育が廃止される。既に必修科目から外されていたが、こうして身も心も「日本人」になることを強いられたのであった。
光とは何か。民族として独立し、国家を打ち立てたい。それが叶うようになって初めて光が注ぐ。しかし1910年に併合した段階では韓国国王が持っていた統治権を完全且つ永久に日本の天皇に譲ると取り決められてしまった。独立運動はすぐに弾圧される。先の見えない真っ暗闇だったのだ。
そこで迎えたのが1945年8月15日だ。「日本人」になってしまった韓半島の人にとっては形の上では敗戦してしまったわけだが、彼らにとってはこれが光の戻った日となった。翌日から早速各地で独立万歳を叫び、歓喜の声をあげた。ソウルでも朝鮮建国準備委員会が開かれた。
しかし一方で、「日本人」として位置付けられた彼らは、自分たちの意識に反し、海外からは敗戦国の民と見られた。BC級戦犯として殺されていった人たちも多くいたのである(*1)
現在、日本のマスコミでは韓日のパートナーシップが叫ばれる反面、朝鮮民主主義人民共和国が仮想敵国扱いされて報道されているが、南北分断の直接的原因を作ったのは、日帝支配である。これを単に資本主義国と共産主義国の争いで捉えるのは責任回避ではないだろうか。朝鮮民主主義人民共和国側が日本に対して、謝罪と脅威となる日本の武力解放を求めている。これとても報道されるほど朝鮮民主主義人民共和国側の勝手な言い分ではないと僕は思う。日帝36年の記憶は今も生き続けているのである。
ごく簡単に当たり前のことを書いたが、もう一度考えて欲しい。日本は第2次世界大戦の敗戦国意識があり、結果として勝戦国に頭が上がらないかも知れない。けれども日本は韓国をはじめアジア各地の人やグァムなどを巻き添えにして敗れたのである。だから、日本よりももっともっとつらい目にあった人たちがいたことも絶対に忘れてはいけない。
戦争を知り、韓国の方と接したとしても決してマイナスにはならない。寧ろ相手の歴史を理解した上で、これからの関係を構築していく方が、僕の経験上、生産的だと思う。
今年の3月1日、僕はお世話になったプサンのジョからメールをもらった。今日は韓国の人にとって大切な日なんだよ。そう書いてあった。たぶん今日はもっともっと大切な日なんだろう。今回は僕の方からメールを書こうと思う。
☆解説☆
*1 ここまでの歴史に関する記述は、主として、朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史 新版』(三省堂、1995年)、キムヤンギ(金両基)監修『図説 韓国の歴史』(河出書房新社、1988年)を参考にした。どちらも読みやすい概説書なので紹介しておきたい。
(1999 08/15 up)
今回、いるかのホームページの運営者であるソクチューが、京都観光を兼ねてうちの下宿に来ている。そこで宿代と引き替えに(^^;)、僕のホームページのためにインタビューをさせてもらうことになった。ここに来る人のニーズに答えられるかどうか分からないが、僕の独断と偏見で、質問させてもらった。ちなみに彼は9月まで交換留学で日本に1年間滞在している。
みっちゃん(以下「み」):まずはじめに質問なんですが、どうして日本に興味を持ちましたか?
ソクチュー(以下「ソ」):一応一番韓国に近いから。
み:それは日本から見ても同様ですよね。でも、どうして日本語を勉強して留学しようとまで考えたのでしょう?
ソ:軍隊を除隊して、復学まで10ヶ月あったんですよ。それでその時間を利用して、東京に住む姉の家に3ヶ月お世話になったんです。そこで行くからには日本語も勉強しておきたいと思ったのがきっかけです。留学は僕の大学校が日本の大学と姉妹校提携していたので、この機会を理由しようと思いました。僕の学生生活を有意義にしたかったんで。
み:でも、やはり日本では「韓国の人は反日感情が強い」と思われているので、反対者もいたんじゃないですか?
ソ:そんなことないですよ。基本的に。反対どころかみんなうらやましがったり喜んでくれたりしたんです。それに反日感情が強いと言いますけど、みっちゃんは韓国で反日感情の被害にあったことがありますか?
み:そういえばありませんねえ。逆に興味深げに話しかけられたことが多かったです。親しげな印象もありました。あ、でもナムデムン(南大門)市場でぼったくられたことがありましたけど。
ソ:それは日本の人に限らず、韓国の人でも同じです。やっぱり知らない人に対してはぼったくることもあると思いますよ。ただ、韓国の人は一所懸命まけてもらおうとするからそんなに被害はないと思います。
み:そうなんですかあ。僕ももう少し交渉できるだけの語学力があればよかったですねえ。ところで、最近日本から韓国へ旅行する人が増えていますが、そのことについてどう思いますか?
ソ:いいんじゃないですか。僕の考えでは、やっぱりとりあえず相手の国にお互い行ってみないと、距離が縮まらないと思うんですよ。
み:そうですね。では日本の人が観光で韓国に行くときにぜひ行って欲しいところ、やって欲しいことがあれば教えて下さい。
ソ:とりあえず韓国の人と知り合ってから行って下さい。ちょっと努力すれば必ず見つかりますし、その方がより韓国を知ることができると思います。しかも、できれば同性・同年代の人とお友達になった方がいいと思います。だってこれからのパートナーとなるべき相手じゃないですか。
み:ということは僕は一応成功したのかな?そうそう、それと気になるのは食べ物なんですけど。どんな食べ物がお薦めですか?
ソ:焼き肉です。みっちゃんはどんな焼き肉を食べましたか?
み:プルゴギ(すき焼き風焼き肉)、タッカルビ(鶏のプルゴギ)、スプルガルビ(牛肉の炭焼き)・・・。他にもまだまだありますよね?
ソ:はい。一番僕が好きなサムギョプサル(三層の豚肉)はお薦めです。安いしおいしいし、ソジュ(焼酎)に一番合う。それにポッサム(キムチに煮た豚肉を入れる)、そしてトェジプルゴキ(豚の焼き肉)です。
み:豚肉が好きなんですね(^_^)。それとソジュの話が出たんですが、お酒を飲むのならやっぱりソジュなんですか?
ソ:そうですね。焼き肉とソジュは相性がいいんです。肉を食べたら脂っぽいので、すっきりしたくて辛いソジュを飲みたい。そしてソジュを飲んだらつまみとして焼き肉を食べたくなる。ソジュも日本酒と同じように、地域によっていろんな種類があるんです。
み:それではお薦めのソジュはありますか?
ソ:一番ポピュラーなのはチルロ(真露)ですね。苦くないので。でもチョンジュ(清州)の地酒も飲んで下さいね。僕の地元なんで。
み:それでは僕も今度は挑戦してみます。どうも今日はありがとうございました。
(1999 08/31 up)
戦争体験を聞いた。僕の親戚にあたるおばあさんからだ(以下「おば」)。「たまには遊びにおいて」という話を真に受けてお邪魔したときのことである。
もちろん、戦争体験談を聞き出すために行ったわけではない。全くの偶然だ。それでもいつの間にか話は戦時中のことになった。
おばは19歳で終戦を迎えた。直接戦禍に遭ったわけではないので、戦争などどこ吹く風と思っていたらしいが、それでも挺身隊として戦争に動員された経歴を持つ。行き先は現在の朝鮮民主主義人民共和国にあたるウォンサン(元山)である(*1)。
そこには朝鮮石油という会社があったそうで、おばは当時総務課のようなところで事務系の仕事をしていた。職場には日本だけでなく、(当時の)韓国や満州の人が働いていたそうである。もちろん言葉は日本語である。ただし工場の中では日本語で書かれた表示板の下に小さくハングルが足されていたそうだ。年輩の方はあまり日本語を分からなかったからだ。また、同じ部署に二人の韓国男性がいたが(*2)、いつもは流暢に話すのにときどき韓国語を話したということだ。「あれは悪口を言うときだったんだよ」。おばはそう教えてくれた。
おばは1944年4月からまる1年だけウォンサンにいたそうだが、その年はとても寒く、気温はマイナス35度になる日もあったそうだ。ストーブだけでは決して追いつかないほどだったらしい。
「たった1年しかいなかったけれども、私には10年以上いたような気がするし、昨日のことのようによく覚えている」
その言葉通り、語る口調にはよどみがなかった。
会社の近くにはときどき行商のおばあさんがやってきて、果物などを売っていたそうだ。行商のおばあさんは言葉が不自由だったのか、物を差し出しての物々交換だったそうだ。日本の男性が煙草の箱を差し出し、中身を見せて交渉を済ますと、行商のおばあさんが見ていない隙に違う箱を胸から取り出し、素知らぬふりで渡していたところをおばは何度か目撃した。「あれは空箱だったろうね。悪い日本人もいるもんだよ。もちろん何も言えずに目撃していた私も悪いんだけど。だから(半島の人が)日本に補償を求めてくる度にあの場面が思い出されてくるよ。すまなかったってね」。
職場ではこれといって目に見えるひどい差別はなかったそうだ。けれどもおばの意識の中では明らかに「朝鮮人」に対する差別意識があった。そう話してくれた。
それでもおばは韓国の人にいろいろと優しく接したようだ。日本に帰ることを周りの人に話すと一人の韓国男性が「それじゃあ餞別に僕が実家に戻って、朝鮮飴を取ってきてあげるよ」と申し出た。おばは自分の風呂敷を彼に託した。彼はひとっ走りして日曜の夕方にやって来ると言ったが、おばの帰省は急遽早められ、日曜の昼に船出をすることになってしまった。
「今でもときどき思うよ。あの人はまだ私の風呂敷を持っていてくれているか。会社に戻った頃にはもう私はいなかったんだからね。あの人も残念だったろうね」。
結局おばは彼の餞別を受け取らずに帰った。おばは今でも風呂敷の柄まで覚えており、言葉で僕に表現してくれた。
そんな体験もあって、おばは戦後ずうっと朝鮮民主主義人民共和国のニュースを探しては、いろいろと考えていたそうだ。
「死ぬまでにもう一度行ってみたいけれども、一番遠い国だからねえ」。
そう語ったおばの目にはクムガンサン(金剛山)が映っているようだった(*3)。
☆解説☆
*1 現在、日本から直接朝鮮人民共和国に行く方法はたった一つ。新潟港からマンギョンボン(万景峰)という客船に乗り、一泊二日でウォンサンに着く。おばが日本に帰ったときには、ウォンサンから敦賀までの船に乗ったそうである。場所は地図でご確認を。
*2 やはり日本名を名乗っていたそうだ。
*3 標高1638m。おばのいたウォンサンからもその姿が見えたそうだ。おばの話では、当時戦地に赴く前に韓国の人たちはその山に登ったそうである。ウォンサン辺りの人だけかもしれないが、その話がおばには大変印象的だったそうである。せめてこの山の写真だけでもおばに見せたいものである。
(1999 09/14 up)