雑感ノート
もともとこのHPは、「韓国徒然草」という
僕の気ままな随筆(?)で構成されていました。
現在、それらをジャンル別に並び替えて
載せていますが、そのジャンルに規定できない
雑多な文章をここで紹介しようと思います。
僕はあまりテレビが好きではない。ただ、それでも毎週欠かさず見たい番組がある。その一つが水曜夜10:00から放送されている(TBS系)『ここがヘンだよ日本人』だ。海外から日本に来ている人が、日本に来て何を感じ、何を言いたいのかを知る上では、いささかうるさいが、毎回為になると思う。本当にいろんな国から来た人が参加しているので、国名を聞いてそれがどこにあるのか分からないと、「まだまだ不勉強だな」って思ってしまう。
その番組には、韓国の人が3人参加していると思う(*1)。どの方も日本語が上手で、頭が良く、それでいて冷静沈着なので、いつもその意見には考えさせられてしまう。
さて、その番組の今週の内容は、上半期日本の重大ニュースというものだった。テーマは4つあったが、一番多く時間を割いたテーマが、北朝鮮と推測される不審船に自衛隊が威嚇射撃をしたことであった。
そこで討論された内容を大まかに要約すると、「日本の自衛隊がなさけないので、日本は軍隊を持つべきだ」という意見に始まり、日本は軍を持つべきか否かで議論された。しかし日本が軍を持つとアジア諸国に対して過去の問題があるため、それはかなわないことだと論が展開したところで、議論の中心は「過去の問題」に移った。
はじめ、コンゴの方が「いつ中国や韓国の人は日本を許すのか」と質問し、韓国の方と中国の方が反論。過去の歴史は消すことのできるものではなく、また日本自体も第二次世界大戦での被害者であるので、平和主義を貫くのはいいことだという意見が出された。しかし、アフリカはヨーロッパによる700年の支配に対してなんの保証も求めないのに、いつまで中国や韓国は日本を追い詰めるのかと再確認したが、中韓ともに歴史の重みを尊重し、日本が謝っても精算できる問題ではないと強調した。
この番組史上最も白熱した議論であり、いつも冷静であった韓国人出演者が大変熱くなっていたことは印象的である。
この問題は大変根が深く、ここで僕の意見を押しつけるようなことは避けたいが、中韓の人々が常にそうした意識で日本を見ているという現状は確認できたと思う。日本は戦後50年を経て、その間平和主義を貫くという様相を呈しているが、それで日本による植民地支配の罪をあがなったわけではない。1965年に韓国と日本の国交正常化が取り決められた段階で、韓国政府は植民地支配に対する補償金請求は今後一切しないことを約し、日本も5億$の資金を韓国政府に渡したが、韓国の人の傷付けられた精神は金銭でいやせる問題でもない。
2回目の韓国旅行に際し、僕は同年齢の大学生とじっくり話す機会を持った。その際、僕は「どうすれば韓日はもっと仲良くなれるか」という質問をした。彼は当然のように日本政府の謝罪と補償が必要と答えた。また、「もしも60年以上前に僕らが知り合ったら友達になれたか」と質問すると、「絶対になりたくない」と言われた。僕はもっと違う答えを期待していたが、これが現実だろう。僕は「韓国人だから」「日本人だから」ということにこだわらず、一人の人間として見てほしいと思った。彼にもそう答えてほしかったのだ。
僕は歴史を忘れろとは決して思わない。それはきっと不可能だと思う。ただイメージの中で作られた日本を以てして、「君は日本人だから」と言われるのはいやだ。理想を語っているに過ぎないかも知れないが、僕の望みは両国の人がもっともっと相手を知って、よき友としてよきライバルとして進んでいくことを21世紀に期待している。そのためにはまず交流の機会が必要である。もっともっと日本の人が韓国に興味を持ってほしいと思う。
☆解説☆
*1 この文章を書いた当時。人数はときどき増減している。
(1999 07/03 up)
「韓国」という名前を聞いて、キムチや焼き肉を想像する人も多いだろうが、「垢すり」を連想する人もいるのではないだろうか。昨日はちょっと堅苦しい話をしたので、今回はなじみやすいテーマで書いてみようと思う。
大学での僕のクラスメートが、ある夏に母親と二人で垢すりツアーに参加したという話をしていた。日本ではよく垢すりグッズというものが売っているが、僕の身近で垢すりを体験した人は彼女が最初の人物だ。彼女の話では、「恥ずかしいほど垢が出てびっくりした」というのが彼女の感想だ。
そして僕が実際に韓国に行ったときにはぜひ垢すりを経験しようと考えていた。しかし、男でも垢すりできるかどうか分からず、言葉も通じないので正直戸惑っていた。にもかかわらずそれを敢行したのは、韓国女性にその理由がある。僕らが1回目の韓国旅行で行ったのは、ソウル・キョンジュ・プサンと、どちらかというと都市部だったためかもしれないが、街を行き交う女性の多くは、細身で色白だった。これは3人の共通見解である。
発想が貧困な僕らは、細さの理由を唐辛子(*1)、色白の理由を垢すりと結論付けた。そこで、色が黒い方である僕は「生まれ変われるかも」という勘違いをして、垢すりに挑戦したのである。
友達の持っていた観光ガイドには、女性向けに大々的に垢すりが取り上げられている。料金は9千円くらいで決して安くないというのが、貧乏学生にとってネックだった。それ以上の問題として、僕らの泊まったホテルはソウル市内の北西部にあり、やや中心部を離れているので、どこで垢すりをしたらいいのかも分からなかった。
僕はホテルのフロントの人に(*2)、「垢すりはどこでできますか」と会話集で見た韓国語で話しかけると首をかしげられたので、日本語で尋ねたところ、「このホテルでできる」とのこと。料金は千円もしなかったと思う。いつ利用できるかと訊くと、今なら間に合う、準備して下さいと言われ、着替えとタオルを持って再びフロントに戻った(*3)。
フロントの人はその大きな腕で僕の腕を取り、非常口のような扉を開けたかと思うと、地下へ行く階段に引っ張られた。そこにいたおばあさんに「5千ウォン渡して」と言われ、そのまま扉の中に連れられた。今度は体格のいいお兄さんがいて、その人にもお金を渡すように言われた。フロントのお兄さんは、体格のいいお兄さんに韓国語で何かを話し、再び自分の仕事場へと戻っていった。
今度は選手交代である。僕はその体格のいいお兄さんに身振り手振りで指示されるままに服を脱いで入っていった(*4)。そこは日本の銭湯のようだった。僕がゆっくり湯船に使っていると、お兄さんは僕の腕に触り、少しうなずくと、またも引っ張って今度はサウナに入れられる。サウナの中は僕ら二人きりなので、お兄さんは一所懸命僕に話しかけてくれた。当然韓国語で、試しに「英語は話せますか?」と尋ねたが、やっぱりNo。僕は諦めて、貧困なボキャブラリーで対応した。分からないところはとにかくうなずき、一部でも分かるところは韓国語で答えてみた。「ハングゲ(韓国で)」と「オディ(どこ)」が聞き取れたので、どこを見てきたのか聞いているのだろうと推測し、それまで行ってきた地名をひたすら挙げた。
しばらくしていいあんばいに汗をかいてきた。するとお兄さんはまた僕の腕を確かめてうなずき、サウナの外に。そして湯船にはいるよう指示した。こんなことを繰り返していると、今度は別の場所に連れて行かれたのである。
そこの風景は日本の銭湯と変わらないのだが、一箇所違う点がある。風呂場に手術台のようなものがあるのだ。僕はそこに寝ころぶように指示され、言われるままにした。お兄さんは日本でもよく見かける垢すり手袋をはめ、体をこすりはじめたのだ。
なんと言うことだろう。その浴場には、何人かの老人が湯船につかったり体を洗ったりしていることが目の悪い僕でも分かる。そんな日常の景色の中に手術台の上で体を洗われている非日常的な姿。垢すりは個室のような場所ではなく、堂々と衆目の前で展開されるのだ。ご丁寧にお兄さんは、本当に体の隅々までこすってくれる。そんなところまで!と突っ込んでいるヒマはない。早く逃げ出したい僕をよそ目に、親しげに韓国語で話しかけてくるお兄さん。もちろん僕には分からない。作り笑いの仮面の下ではひたすら逃避願望の固まりがそこにあった。周りのおじいさんたちは全く気にとめずのんびりしている。なれていない僕だけが恥ずかしい気持ちに包まれていた(*5)。
後日、留学生の友人ができたので、その体験を話してみた。こうこうこんなことがあったと。するとあっさり返事をされた。「韓国人の女性でも人に垢をすってもらったことはないよ」。・・・・・・。
☆解説☆
*1 実際、唐辛子の主成分カプサイシンはダイエットにいいようだ。「辛い」という感覚は「痛い」に近く、辛さを感じた瞬間体に発熱作用が起こる。これが脂肪を燃焼させるらしい。また便秘にも効くそうだ。
*2 このフロントの人は一人ぼっちの僕に話しかけてくれた人である(「韓国旅行記1−2」参照)。ちなみにテレビハングル講座に出てくるキムヨンジュン(金暎中)さんに似ている。だから僕はハングル講座を見かけるたびに、またあのホテルを思い出す。
*3 このとき残りの二人は急に行かないと言い出した。よってこの話は僕だけの体験である。
*4 このお兄さんは普通に服を着ていたが、僕を引き取ると競泳用海パン姿になった。念のため言っておくが、女性が垢すりするときには女性が垢をすってくれる。
*5 観光ガイドに載っているような高い所はエステサロンらしい。僕はこの経験以来、韓国で垢すりに挑戦しようとは思わなくなったが、もう少し韓国語が話せたら、また恥をかくのもいいかもと思っている。個室での垢すりでは韓国の日常風景や人々は見えないような気がするからだ。
(1999 07/04 up)
突然だが、昨日僕はコリアン・ナイトという催し物に参加してきた。これは市内のある教会での企画だが、大学で偶然発見したビラに、韓国の伝統的な結婚式や音楽と書いてあったので、友達と行ってみることにした。僕はクリスチャンではないが、特に問題はなかろうと思い行くことにした。
夜7時から始まり、一通り挨拶が済んだ後、突然賛美歌が始まった。それは日本語であったが、当然僕は賛美歌を知らない。自分が場違いなところにいるのではと今更ながらに気付いた。
歌が終わると、伝統的な音楽の始まり始まり。小さなドラといった感じのクェングァリ、大きな鼓という感じでばちで両面をたたくチャング、そして和太鼓のようなプクによる演奏。いずれも打楽器である。サムルノリには一つ足りないが(*1)、いずれにせよ本物を見るのは初めてなので感動した。
そしてピアノによる「アリラン」の伴奏に導かれながら、韓国の伝統的な婚礼儀式の一部が目の前で展開された。綺麗なハンボク(韓服)に身を包んだ男女がおごそかに儀式をする(*2)。詳しくは語らないが、終始女性は顔を見えないように隠すことだけ紹介しておく。これもビデオでしか見たことがなかったので、嬉しくなった。
韓国文化の一部に触れ、いい気分に浸っていると、次は牧師さんによる説教が始まった。・・・そうか、これはやっぱりあるのか。かといって聞かないのも申し訳ない。そして、聖書の話をたっぷりと聞いたのだ。
このとき分かったのだが、楽器演奏や婚礼式を見せてくれた人たちは韓国の大学生で、夏休みを利用してキリスト教を日本の同年代の人に布教しに来ているそうである。6〜7人くらいいたが、みな日本語は殆ど話せなかった。
説教が終わると楽しい夕食タイム。メニューはピビンバプ、サムゲタン(参鶏湯)、プルゴギなどなどである。僕は友達と二人でそれらの料理を小さな部屋で食べていた。今更に紹介するが、彼は英語を勉強しており、韓国語は殆ど分からない。この「殆ど」がみそで、最近僕が韓国料理屋さんに彼をよく連れていくので、自然言葉にも興味を持ち始めたところである。
早速二人の所へおじさんがやって来た。英語で話しかけるので、不思議に思っていたところ、なんと韓国の人であった。韓国語でも話しかけてくれるが、正直聞き取りにくく、自分のリスニング能力に自信をなくしたが、あとで聞くとテグ(大邱)から来たことが分かった。以前にテグの言葉は訛りが強いと聞いたことがあったので、少し自信を取り戻した。
狭い部屋にたくさんいすぎて、なかなか韓国の学生さんと話す機会がなく、手持ちぶさたでいたが、自己紹介の時間に一応韓国語で自己紹介したおかげか、徐々に僕らのところにも韓国の学生さんが近付いてくるようになった。この催し物には僕ら同様にビラを見て来た大学生ばかりだったので、殆どの人は韓国語を知らない。一体どうやって会話するのだろうと思っていたが、都合のいいことに韓国からの留学生の方、そして在日の方が通訳として大活躍していた。留学生の方が積極的に僕らに話しかけてくるが、日本語で話したのでは僕にはあまりおもしろくない。僕はわざと席を外しては韓国の学生さんに話しかけた。
夜だったこともあり、ふと気付くと人数がだいぶ減っている。ゲストである日本の学生は僕らを含めて10人くらいになり、部屋全体が見渡せるようになった。僕は一人で行き場を失っていそうな男の子を見つけ、友達を誘って彼に近付いていった。彼は日本語も英語も苦手だそうだ。安心したことに、彼の韓国語は比較的聞き取りやすく、僕にはいい勉強になる。もちろん僕の友達には、何を言っているのか全く分からない状況だろうから、僕には通訳という称号が与えられるのだ。役立たずではあるが。
その男の子の話では、今回参加している殆どの学生さんは21歳(数え年)であり(*3)、彼自身は大学1年生。日韓・韓日辞書片手に会話をはずませる。仲良く住所交換をしたり、失礼かも知れないが「オッパ・センガク」を一緒に歌ったりと、和気あいあいとやっていた。本当なら韓日の友好を深めるような話でも展開したかったが、僕の語彙では当分無理。とにかくお互いに質問し合って交流することからはじめるしかない。そう思っていた。
するとどうだろう。いつの間にか牧師さんが来て、キリストの話をしてくるではないか。その彼も教会に通うように僕らに語り始める。僕が分からないふりをしていると、通訳登場。もうそろそろ帰るしかないなと思った。ひどい話だが、僕は自分がクリスチャンになる姿が想像できない。意識の根底ではきっと仏教徒だと思い込んでいるが、決して「敬虔」ではない。もちろん彼らとより打ち解けていくためには宗教を共有し合うことも大事であろうが、どうしても僕にはその気がなかったのだ。別にキリスト教だからではない。たぶんどの宗教でも一緒だろう(*4)。常にいくつかのポケットを用意しておいて、交流に際し共有しあえるものを探す。そのために僕は歌も歌い、韓国の歌手の話もした。その際、言語も共有しあえるように務めた。しかし今回はこれまでということである。
帰る頃には時計の針も11時を回っている。まあ、収穫もあってこれでよしと思っていた。僕らが玄関に行くとリーダー格の女性が登場する。今更になって自己紹介。今度はさっきの男の子が楽しげに通訳を務めた。かたことながら僕も韓国語を話す。すると彼女は「イルボニニエヨ?(日本人?)」と聞いてきた。これが意外と僕にはこたえたのだ。僕は「イェ、イルボンサラミムニダ(はい、日本の人です)」と答える。韓国語を知らない人には説明がいるだろう。「イルボニン」は漢字でそのまま「日本人」。「イルボンサラム」は「日本の人」であり、「サラム」には漢字はない。僕の中では「イルボニン」という言葉は国籍を臭わせている気がして、あまり好きではない。もしかしたら大して意味が違わないのかも知れないが、僕は今まで「イルボニン」と言われたことはないのだ。ここでは僕が在日の人でないことを確認したかったのだろうが(*5)、そこに壁をうち立てられたような気がした。考え過ぎなのだろうか。
韓国の人は自分のことを決して「韓国の人」とは言わない。「ウリナラサラム(我が国の人)」と言う。これが不思議なもので、僕のあった人は十中八九この言葉を英語にしたとき「Korean」と言う。しかし、「韓国」の場合はどうだろう。たいてい韓国語で「ウリナラ(我が国)」と言い、英語でも「Our Country」と言うのだ。僕らはどうだろうか。海外に行って日本を指すとき、英語でなんと答えるだろうか。こうした国民意識が日本に比べて強いことも知っておいた方がいいだろう。そしてその原因の、少なくとも一端が日本の支配にあることも考えておいた方がいいかもしれない。国籍を相対化したいと考えている僕には、まだまだ韓国は手強く、そしてやりがいのある相手である。時間はたくさん必要だが、僕が韓国を好きと思っている以上頑張っていきたい。
最後に。この日記には文句が多いかも知れないが、今回の企画は楽しく、また為になったことを強調しておきたい。お会いした皆さん、ありがとうございます。
☆解説☆
*1 サムルノリはハングル講座のおかげでテレビで何度か見た。この3つの楽器にチンという大きなドラを含めた4つの打楽器で構成される伝統音楽である。
*2 日本では韓国女性のまとう民族衣装を「チマ・チョゴリ」と言うが、直訳すれば「スカート・上着」。少なくとも韓国ではこの言葉は使わないはずだ。「ハンボク(韓服)」が普通である。日本も「和服」って言うでしょ。
*3 韓国では数え年で年齢を言う。生まれた年は1歳で、旧正月が来るたびに年を取る。日本でも以前は数え年を採用していた。因みに21歳ということは、79年生まれ。日本だと19か20歳にあたる。
*4 このあたりの感覚が、僕も日本人だと言う結論になってしまうんだろうか。韓国の人は大半が何らかの宗教を信仰しており、一番多いのは仏教。キリスト教はカソリック・プロテスタント合わせると、人口の4分の1くらいを占める。韓国の大都市の夜景は、妙にクロスのネオンが多く見られる。
*5 韓国の人は日本の人が韓国語を勉強するにはそれなりの理由があると思うのだろうか。この手の質問は韓国でもさんざんされた。表現は「キョッポ(僑胞)ですか?」。因みに違うと答えると、「じゃあ留学生?」という質問がパターンであるようだ。付け加えておくと、僕は決して在日の人と思われることを嫌がっているわけではない。
(1999 07/05 up)
去る7月25日に「統一マダン京都」という催し物に参加してきた。今回はその内容をレポートしたい。
「マダン」とは韓国語で「ひろば」を意味する。ここではだいたい「お祭り」のような意味で捉えていいだろう。今回のマダンでは屋台が立ち並び、芸能が催された。僕の知る限り、京都で行われるマダンは2回あり、11月に開かれる東九条マダンは比較的盛大に行われる。しかし今回の方は祖国統一汎民族連合(汎民連)の主催で、主に在日の方々のために催されたものであったようだ。
催し物の内容を紹介する前に、主催者側の意図するところを伝えよう。汎民連とは、日帝時代、朝鮮戦争という悲劇を通じて、分断されてしまった南北の統一を政府に委ねるだけでなく、南北の人や海外のコリアンたちの手によって一日も早く統一を目指そうという組織である。今年の主なテーマは、韓国側での自由な発言や行動を制限する「国家保安法」という法律により投獄された政治犯を釈放し(*1)、この法律を撤廃するための運動をしようという呼びかけであった。
次にプログラムを簡単に紹介すると、サムルノリで幕を開け、和太鼓が打ち鳴らされたあと(韓日の打楽器の競演といったところ)、テコンドーの演舞(*2)、民族舞踊などと続いていった。僕は最初から会場に行って、順次催し物を見学していた。初めは人もまばらであったが、やや暗くなってきた頃にはいいあんばいに人も増え、見物者用のテントの中もいっぱいになってきた。大変暑いので、僕は缶ビール片手の見物。うちわを動かす手はなかなか休めない。
見に行きながらいうのもなんだが、僕はこの企画がどういった性格のものか分からずにいた。僕と同じようにテントの中でたくさんの人が見学しているが、もちろん見回したところで在日の方かどうか区別つくものでもない。そう思っていたところ、僕の知っている在日の学生さんに会ったので(*3)、少し話を聞いてみた。どうやら今回の企画は、在日の方のための企画らしく、基本的には在日の方ばかりが集まっているらしい。そう聞くと、こんな僕でも少し弱ってしまう。僕は国籍上「日本人」ですが、と自己紹介をしてから在日の方に話しかけていいものかどうか、と。チャンスはいくらでもあふれていた。例えば、屋台でクェンガリという打楽器が売っていたので、せっかくのチャンスと思い買い求めたが、そのときにお店の人に話しかけることもできた。しかし結局は和太鼓を演奏したグループの人と打楽器の話をするだけで精一杯だった(*4)。実際問題何を話したらいいのかという悩みもあったが、正直なところ自分の素性を明らかにすることにまずためらいがあったと言って間違いないだろう。
そうこうしているうちに、あたりも真っ暗になり、最後の催し物であるプンムルノリが始まった。この日のために練習を重ねてきた在日の学生さんらが打楽器をたたきながら自由に踊り出す。マイクのアナウンスに心躍らされ、見物の人たちも自由に参加して一緒に踊り出す。日頃踊り慣れない僕もここは実際に輪に混ざった方がいい。そう判断して適当なステップで踊り出す。シャワーのような小雨が降りはじめる中、みんなが嬉しそうに踊っていた。気がついてみればテントの中には殆ど誰もいなくなり、老若男女問わずみんなが踊っている。
そしてフィナーレを迎える。みんなで肩を組んで、「ウリエ ソウォン(私たちの願い)」を歌う (*5)。幸い、テレビハングル講座のおかげで僕も歌うことができたので、大声で小雨を浴びながら一緒になって歌った。これでやっと溶け込めたような錯覚を覚えたが、結局のところ形だけ模倣したのではというむなしさが僕の中に残ってしまった。
混ざってしまえばいい。そういう問題ではないだろう。僕は日本で生きていく上で、国籍上マジョリティーに含まれている。そしてもし在日の方と接するような機会があれば、その素性を明らかにした上で対話したいと思う。しかしいったん自分がマイノリティーに転じると、自分の素性を語ることを避けてしまう。言うは易し、行うは難し。この日はそんなことを感じた。
☆解説☆
*1 当日いただいた資料からもう少し説明させてもらうと、「国家保安法」とは戦前日本の「治安維持法」をもとに、1948年12月、韓国初代大統領イスンマン(李承晩)政権によって制定されたもの。北朝鮮との接触などを罪とし、政府に批判したり反対したりした者が弾圧されてしまうもので、かつて政治犯という烙印を押され、死刑囚にまでなったキムデジュン(金大中)現大統領政権期に入っても、拘束者は増え、昨年だけでも709名が投獄されたらしい。
*2 半島で盛んに行われている武道の一つで、今度のシドニーオリンピックから正式種目になる。板を割るだけでなく、型もいくつか紹介されたが、「ファラン(花郎)」「トンイル(統一)」という型もあるそうである。
*3 僕は残念ながら子供の頃から周りに在日であることを明らかにしてくれる人、あるいは在日の人そのものに接する機会が皆無だった。今関西にいるので比較的機会は増えたが、実際に話したことがあるのは、バイト先で知り合った人と、この学生さんらだけである。この学生さんとは在日に関する研究会に参加したときに知り合った。彼らは今回傍観者側であるが、東九条マダンでは主催者側に回るそうである。団体が違うらしい。
*4 この和太鼓グループの人は、今回主催者側から招かれた人たちで、国籍上「日本人」である。
*5 この歌は祖国統一を願う歌である。実際の歌詞も「私たちの願いは統一 夢にまで見る統一」で始まる。ちなみに朝鮮民主主義人民共和国には「我らの願いは統一」と日本語に訳される歌があるそうだが、どんな歌なのか興味がある。
(1999 08/04 up)