自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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にある送付先へドウゾ。)
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・北関東の葛生の明治生まれの「ピーテン」と「ネルソン」
318.
葛生の“ネルソン” #1080
・日鉄鉱業羽鶴専用線
〈0001:bO90341:羽鶴鉱山駅構内にて〉
〈0002:bO90442.上白石駅通過下り貨物列車〉
〈0003:bO90515:仙波川橋梁を渡る下り貨物列車〉
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〈紀行文〉
東武鉄道最後の蒸気牽引の貨物列車の無煙化けが佐野線で行なわれてから約1年半ほど経った昭和42年の秋のことである。この東武鉄道 佐野線の終点である葛生駅と山奥の日鉄鉱業羽鶴鉱業所とのあいだには羽鶴専用鉄道羽鶴線が活躍していた。ここで常にDLの予備機関車として待機していた明治生まれの蒸気機関車 “ネルソン”こと#1080がしばらくぶりに12月3日に稼働することが鉄道趣味誌上に報じられた。
この日は本線のDLの代役として3往復の貨物列車の牽引の仕業にあたるとのことであった。
何と休日に当たる当日に、このようなイベントを催してくれた日鉄鉱業に敬意を払いながら、早暁に早起きして家族総出でクルマで出かけた。埼玉南西部の朝霞からは国道246号の川越街道で北上し東松山から熊谷を経て両毛地方へ向かった。途中で両毛線の発車風景をスナップして、佐野から葛生へ向かった。
広い構内では、明治生まれの甲高い汽笛をひぎかせながら、足なら死の運転をしている姿を確認した。そして沿線をロケハンしてから三往復で撮るべき場所を定めて、1日を過ごした。その後、専用線が廃止になってからも再度訪ねている。その時は、羽鶴鉱山駅から山裾へ伸びる築堤のレールの先には帰還者用の車庫らしい建物が見られた。ここは鉱業所の施設からやや離れた所であった。車庫の中へは自由に入れたのは幸であった。最初に目に映ったのは赤い「1080」のプレートであった。ここで心ゆくまで眺め回してフイルムを使い果たして引き上げたのを思い出している。
この歴史のある葛生の石灰岩埋蔵地帯に日鉄鉱業が進出して葛生鉱業所を設けたのは1951年(昭和26年)のことで以外に新しい。この日鉄鉱業とは昭和14年に旧日本製鐵(株)が石炭、鉄鉱石、石灰石などの製鉄原料の総合開発と定供給を目的として、同社の鉱山部門が独立して誕生している。当初は二瀬、釜石、倶知安、赤谷(新潟県)などの各鉱山の操業を引き継ぎでスタートしている。昨今(2014年)は、の鉱山部門の主力製品は石灰石、砕石などとなっている。この内、石灰石は国内年間生産量は1億3千万トンに達しており、その内当社の年間生産量は約2千万とんで業界トップクラスを誇っており、その一部は海外に輸出もしていると云う。その主力鉱山は、国内最大規模である鳥形山鉱業所(高知県)を初め、尻屋鉱業所(青森県)、大分事業所(大分県)、それに葛生の栃木鉱業所(栃木県)などである。
さて、昭和26年に開設された羽鶴鉱山は、栃木県西部の足尾山地南東部に当たる安蘇山地から流下る秋山川と永野川との間の尾根続きの東南端にある鍋山とも呼ばれている三峰山(標高 605m)の西側に当たる鶴地区に設けられた。この位置を行政市名で云えば、栃木市北西のはずれ、鹿沼市と、一部佐野市(旧葛生町)の飛び地である羽鶴(はねつる)にまたがっている。葛生の町からは直線距離で約6qの位置にあった。
この鉱山の解説と同時に製品の出荷輸送のための専用鉄道線が羽鶴鉱山駅−東武鉄道会沢線(東武佐野線葛生駅を起点とした貨物支線)の上白石駅間の6.2kmが敷設されて、日鉄鉱業羽鶴鉱業所羽鶴専用線が開業した。
この前年に国鉄から#3073号を譲り受けて準備した。この機関車は元・足尾鉄道の4号であって1911年(明治44年)に汽車製造会社で製造された車軸配置2-6-2(1C1)型で整備重量 37tの2気筒単式飽和式タンク機関車であって、足尾鉄道の国有化後は3070型となって桐生機区から鶴見線の浜川崎区に移り、ここで廃車となったと云う経歴の持ち主であった。その後間もなく、昭和27年(1952年)新三菱重工製の272号、昭和28年(1953年)新三菱重工製の273号のDLが続いて導入されると、老骨の区3073号は引退した模様であるが、確かなことは判らない。
その後に、日鉄鉱業の赤谷工業所で1080号と973号の二輛の蒸気機関車が廃車となった際の日鉄鉱業社長の持論である「将来に来るであろうエネルギーショックを見越しての『スエズ運河が封鎖になれば、DLは動かない。この二両のSLを羽鶴へ移せ。』」の指示により、解体を免れて、1957年(昭和32年)に栃木県にある葛生工業所の羽鶴専用線へ転籍し、予備機となって、年4回ほど訪れるDLの検修の際に使用されることになった。
やがて、昭和36年(1961年)に、新三菱重工製のB-B凸形のDD401号が登場した。これによって、より老兵である973号が引退したものと思われる。そして1080号が唯一のSLとして残され、DLの検査、修繕時の予備機として、また時にはメンテナンスのために、火が入って試運転されることがあった。
続いて昭和44(1969年)になると三菱重工製B-B凸形DD451号が増備されると1080号は完全に予備機となってしまい、メンテナンスのための試運転のみとなってしまった。その間も、国鉄の大宮工場、郡山工場、福島の協三巧業などでの検査修繕が着実に行われていた。そして1979年6月に 日鉄鉱業羽鶴線での現役引退(最後の自力走行)が行われて永い眠りの時代へ入って行ったのだった。
その後、年を経て石灰石の生産は増加するものの、道路の発達と消費地へ直送できるトラック輸送に傾きつつあるなかで、昭和61年には東武 大叶(おおがの)線、東武 会沢線の貨物支線が廃止され、上白石駅から延びる日鉄鉱業の羽鶴専用線だけが残ってDLが主役を務めていた。そして、1991年(平成3年)に東武鉄道の貨物取り扱いが廃止となると、羽鶴専用線も廃止となってしまったが、残された#1080は非公開で大切に保存され、奇跡的状態を保ってきた。その後に関東地方で新設計画が進んでいた東武鉄道博物館ヤ大宮の鉄道博物館を通り過ごして、1080号の原型であったテンダー機関車の時代に関西で活躍していたことにちなんだのであろうか、関西の京都にある梅小路蒸気機関車館へ迎えられることになる。それは、2008年7月 日鉄鉱業よりJR西日本へ1080号の寄贈を申し入れた所、梅小路蒸気機関車館で受け入れることに決まったからである。
この1080号が持って生まれた強い幸運にも驚かされるが、日鉄鉱業の経営者から現場の人々までが一貫した支援を与えてきた賜であると思う。
ところで、羽鶴に転属して来た日鉄鉱業 赤谷鉱業所であった#1080号も973号のいずれもが、元国鉄時代には東海道線などの幹線で活躍していたが、時代が進み余剰となって来たことから、ローカル線でも使えるタンク機関車への改造を受けると云う経歴を持った機関車であることを知って大変驚かされたのだった。
それは、#975号は元は5300型で“ピーテン”と呼ばれた元祖的な機関車であり、一方の1080号は6200型系の“ネルソン”と称された東海道本線での旅客用機関車だったのである。なお、明治時代の蒸気機関車の系譜についてはプロローグで述べたので、ここでは#1080んの来歴について略説しよう。
さて日本の官設鉄道から50両もの大量受注をしたネルソン社では納期を確保するために、一部の車輛の製造をダブス社 グラスゴー機関車工場に委託した。最終的に官設鉄道からの注文も合わせて1900年には24両の“ネルソン”を納入した。この一群は6270型と呼ばれた。その中の1両が後に葛生にくることになった#1080の前身の#6289号であった。この6270形からテンダーを外して、タンク機関車に改造したものなのである。
この機関車は関西地区で活躍した後に、
1926年に浜松工場で2B1タンク機へ改造され、1070形の1080号に生まれ代わった。これは車軸配置:4-4-2(2B1)二気筒単式飽和タンク機関車で、全長:11,381mm、整備重量:48.0t、動輪軸重(第1動輪上):12.0tであって、かなりの大型であった。
このタンク式への改造は、後部に台枠を延長し、レールへの追従性の良いやや大きい従輪を追加し、後部に付加された炭庫と水槽の重量負担とバック運転性を確保している。キャブ前のボイラー両脇にタンク機としてサイドタンクを装備し、小回り性の良い機関車へと変貌している。
そして、ボイラー前部とフロントビームから先台車にかけての傾斜したランボードが“ネルソン”の高速機関車のイメージを保っている。そして動輪は我が国最大であったこともある直径 1524mmを保っており、サイドタンクとエアータンクに1/3が隠れてしまってはいるが、これも昔の高速機であった証(あかし)を見せていた。それに、煙突の先に装着した化粧煙突冠や時計の針のような煙室扉ハンドルも残っていて往時のテンダー機の時代の様式を残した名改造が浜松工場で行われたのであった。
そして名古屋、岐阜の各機関区で活躍。
1933年 6月末の機関車配置表によると美濃太田機関区に配属中であった。そして、1938年に廃車され、1940年に新潟県の赤谷線の終点、東赤谷駅から延びていた日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道へ払い下げられて、鉄鉱石や2軸客車を牽いて活躍していた。その後、1957年1月 赤谷専用線廃止に伴い、同月24日付けで羽鶴鉱山(葛生)へ配置転換されたと云うのが長い来歴である。そして、20世紀初頭の東海道線旅客機の主力、“ねるそん”こと、6200型系列の唯一の生き残りなのである。
最後に、葛生駅から終点の羽鶴鉱山駅までの昭和40年代の沿線風景を描写してみよう。
葛生駅は東武鉄道佐野線の終着駅であって、今でこそ特急「りょうもう」の終点でもある。ここから東武鉄道の会沢貨物線が伸びていて、次の上白岩駅から東武大叶(おおがの)線・日鉄鉱業羽鶴専用鉄道線の2つの貨物線が分岐しており、また駅の側線が住友セメント栃木工場へも伸びていた。これらの支線から葛生駅まで石灰石、セメント、ドロマイト、砕石などを満載した貨車が送られ、ここからは佐野線の館林を経由して、セメント・砕石などは東武鉄道の業平橋(なりひらばし)駅へ、石灰石・ドロマイトなどは東海道貨物線経由で浜川崎駅方面へ送られ、鶴見線と専用線で京浜工業地帯の日本鋼管などの工場へ送られた。
このような貨物列車輸送の全盛期である昭和36年頃の葛生駅には駅員が80名在籍し構内には旅客用も含め20本の側線があり、東武鉄道で最大、日本でも屈指の貨物ターミナル駅であった。
この広いヤードを出た会沢線は葛生市街の北部を回りながら抜けて約0.8qほど進むと上白石駅となる。ここから右へ分岐するのは大荷主の住友セメントへの東武鉄道の短い側線であった。その先の踏切から先では、左右に分岐する。左が大叶線、そして・日鉄鉱業羽鶴専用線、左が会い沢線である。
羽鶴鉱山への線路は秋山川方面への県道200号秋山万町線に並走し、線路上の三相の送電線が線路の行く手の目印となっていた。やがて中間駅の常盤(ときわ)駅へ到着する。この常盤駅では葛生からの貨物列車を分割して羽鶴へ送るための中継点で、列車を分割しなければ登れないほどSLにとっては厳しい急坂であった。従って山を下る葛生行きのSLはバック運転を行なってボイラー缶水の移動による火室側の空焚き(からだき)を防止していた。
常盤駅構内には転車台も備えていたらしい。
この常磐駅を出た線路は右手にカーブしながら県道200号秋山万町線を越えて県道20に号仙波鍋山線に並行して、いよいよ羽鶴の山を目指して登り始めた。この羽鶴鉱山は奥に見える山の裏に位置しているようだった。この辺りからは地形を巧みに利用しすす山腹沿いにコンクリートや石積された築堤をSカーブを描きながらの登りが続いていた。この急な上り坂は33‰と云う物凄い急勾配でSLにとっては難所の一つであった。この先には秋山側の支流の仙波川の谷へ山の尾根から突きだした二つの丘陵の間の広くて深い谷間を跨ぐ鉄橋が架けられていた。この専用線随一の好撮影ポイントを恵んでくれていた。この両側の巨大な高い橋台と高いは橋脚に架けられたプレートガーター桁の下の谷間には、細い山道に沿って一軒の農家と畑地が覗かれた。この鉄橋を過ぎれば、ここ1kmほどで終点の羽鶴鉱山駅に到着するはずであった。
やがて、羽鶴へ向かう県道を跨ぐと、築堤は大きく右にカーブを切りなががら開けた鉱山の敷地へ向かっている。
鉱業所の山と積まれた石灰の砕石の山を横目に右に大きくカーブしながらひたすら坂を登って行く。やがてカーブの向きが左方向へ、この先が羽鶴鉱山駅であろう。
終点である羽鶴は、山に分け入った狭い地形と、鉱山施設との配置から、専用線は折り返し型の終着駅となっている。それは、葛生方面から進入して来た貨物列車は、先端に設けられた長さ10mほどの“突っ込みトンネル”の引き上げ線に一旦入った上で、
下り列車から見て右後方にある荷の積み下ろし線や転車台も設けられていると云う機関区へ、または下り列車から見て左後方にあるドロマイド工場への引き上げ線にバック運転で入っていく。すなわち、本線を挟んで両側に構内が形成されているのであった。
当日の午後の陽光が西に傾いた頃、最後の下り列車を撮り終わってから、県道202号仙波鍋山千を鉱山の脇をすり抜けて北へ登り詰めると、標高約300mほどの羽鶴峠を越えた。この先には関東八十八ヵ所観音霊場で名高い出流山満願寺のある出流(いずる)の集落へ出た。ここは満願寺の門前町をなしていて、仙波蕎麦(せんばそば)の名所として知られており、さらに下れば栃木市内へ通じていたのだった。
撮影:昭和42年12月3日。
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・「北関東の葛生の明治生まれの“ピーテン”と“ネルソン”」キリーズのリンク
316. プロローグ:葛生の石灰石を運ぶ・東武鉄道佐野線と専用線たち
317. 名残の東武鉄道“ピーテン”・佐野線/館林機関車庫、葛生駅