自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・北関東の葛生の明治生まれの「ピーテン」と「ネルソン」
316.  プロローグ:葛生の石灰石を運ぶ ・東武鉄道佐野線と専用線たち

〈0001:bO30466:斜めのシリンダーとランボードが特徴のスタイル〉




〈0002:bO30514:“ピーテン”の代表、東部  B1型 7号〉


『この7号機関車は東武鉄道が1907年(明治40年)にイギリスのベイヤー ピーコック社から久喜〜足利間開通に備えて2両輸入した“ピーテン”のいちりょうである。昭和41年3月6日に館林駅の機関車庫内に廃車留置されていたのであった。』

〈0003:bO90415:最後の“ネルソン” #1080号〉


『これは明治の「貴婦人」との敬称が付けられていた“ネルソン”の名残を残す葛生の日鉄鉱業羽鶴鉱業所専用線の#1080号が単機で葛生駅に向かう途中のスナップです。昭和42年11月3日のDLの代行紙業の最中です。なお、現在は京都の梅小路にある蒸気機関車館に保存されています。』

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〈 紀行文〉
 東北自動車道を北上すると左手に、また東北新幹線に乗って小山駅が近かずくと左側のしゃそうには、あるいは渡良瀬川の土手を散歩していれば北西方向に日光連山が遠望できた。その手前に横たわる山山は、奥日光の皇海山(すかいさん、2,144m)を北端とする群馬/栃木県境沿いに連なる山々と、その県境の栃木側の前日光山地、
それに中禅寺湖から流出る大谷川以南から鹿沼市まで広がる山山を含む足尾山地が近ずいて見えた。特に栃木川南部の関東平野に向かう山地は安蘇山塊と呼ばれ、高さは南に行くほど低くなっていた。その安蘇山塊の南東のはずれに位置する三峰山(標高 605m)の西麓が「葛生(くずう)」(現在は佐野市)の地なのである。
そこは首都圏の北へ約70km圏内にある佐野市の北東のはずれにあって、東は栃木市、西は足利市、南は渡良瀬川を挟んで群馬県館林市、北部から北東部、北西部に掛けては安蘇山地に当たる山々は濃い森林地帯となっている。そして、この山塊の東北先には鹿沼市、西南には群馬県桐生市と接していた。また
鉄道で云えば、東武鉄道伊勢崎線を北上し館林駅から佐野線へ、JR両毛線との接続駅である佐野市駅の先の終点である葛生駅に到着する。
 ここで、石灰石を埋蔵する安蘇山塊の地形や、そこから掘出された石灰石の江戸や、その後の京浜地域への輸送の変遷について考察を試みた。
 奥日光での群馬/栃木県境を南下して、利根川の大支流である渡良瀬川の中流東側の県境に連なる足尾山地の南武に連なる標高が千mを越える山々、根本山(1,199m)や氷室山(1,120m)などから、南東方向に緩やかな傾斜が続いている。この緩斜面に北から栃木市の街を通って渡良瀬川へ流れ下る永野川、葛生から差野の街を通って渡良瀬川へ合流する秋山川、それに渡良瀬川の支流の旗川・彦間川などが並行して切れ込んだ谷と尾根を作り、その尾根筋の山々が足尾山地の東南部に当たる安蘇山地なのであった。この地域の地質は、中生代の放散虫などの遠洋性堆積物である層状チャートと、陸に起源を持つ砂泥堆積岩から成っており、その間に石灰岩層を挟んでいる地帯が存在している。
その秋山川と永野川との間の尾根続きの東南端にある鍋山とも呼ばれている三峰山(標高 605m)は栃木市北西のはずれ、鹿沼市と、一部佐野市(旧葛生町)の飛び地である羽鶴(はねつる)にまたがる山であって、その西側に羽鶴地区が葛生石灰石を産出する中心地であった。
この巨大な葛生の石灰・ドロマイト鉱床は延長30km、直径8kmの南西に開いた馬蹄形をした赤見から戸室地域、白岩から葛生地域にまたがって分布していた。今から2億5千万年前の二畳紀中期に形成された鍋山層と呼ばれる地層に属しており、熱帯の海でサンゴ虫類や紡錘虫(フズリナ)類などの生物が光をいっぱいに浴びながら、ミネラル分や炭酸ガスを素にして、石灰質の骨格を育て、その遺骸が海底に堆積して石灰岩を造ったのである。この石灰岩層は、層理がよく発達し、フズリナや海ゆりの化石を多く含んだ暗灰色ドロマイト質石灰岩の下部石灰岩層、灰色塊状を呈する中部ドロマイト層、石灰藻やサンゴなどの化石を多く含み灰白色で塊状石灰岩を産する上部石灰岩層の三層から成っている。このドロマイトとは、石灰石中の炭酸マグネシュームが50%を越える含有率の鉱物であって、昭和初期に発見された。
色は灰色か白色で、石灰石に似ていて、鉱物としては苦灰石、白雲石とよばれている。これは製鉄業において鉄鋼精製用に必須な鉱物としての用途の他に、セメント・ガラスの原料、土壌改良剤、肥料、電子部品原料、食品添加(カルシウム、マグネシウム強化)があり、葛生は全国の90%の生産を占める特産品となった。これらの推定埋蔵量は約15億トンと見込まれている。その採掘の歴史は360年以上前、江戸時代の慶長年間に始まった「石ばい製造」からだと云われ、ここで産出する石灰は「野州石灰」の銘柄で建築用や肥料用として関東一円に広く知られており、産出した石灰は秋山川の下流にある越名河岸へ人馬の力で運ばれ、船に積み替えられて渡良瀬川から利根川を下って江戸、東京方面に運ばれていた。時代が下がって明治に入るとセメントやガラスの製造が東京で始まると石灰石は重要な原料として求められてきた。そして明治15年頃になると、この運送の効率を高めるために馬車鉄道を敷設しようとする動きが大きくなってきた。やがて明治21年(1888年)には両毛鉄道が日本鉄道の東北線の小山駅から栃駅、佐野駅を経て足利駅まで開通しており、それを経由して石灰を出荷する動きも始まった。その翌年には安蘇馬車鉄道が葛生〜(旧)佐野町間を開業し、さらに翌年初めに越名河岸まで全通した。やがて3年後の1903年(明治26年)になると、輸送力増強のため蒸気機関車を使う佐野鉄道へと社名を変更し、ドイツのクラウス社からウエルタンク式の整備重量 8.62tの小型蒸気機関車を3両を輸入して1894年(明治27年)に葛生〜(旧)佐野町〜越名河岸間を軌間 1,067mmで開業し、かっての馬車軌道を廃止している。
 さて、この葛生の地を、「知る人ぞしる」と云う人々の間で有名にしている話題があるのでご切ろうしておこう。
実は、この地は古代の都から東北地方へ向かう東山道(ひがしやまみち)ろ呼ばれた官道がつうかしていたからこそ生まれた話題である。
この東山道とは古代の律令制(りつりょうせい)のもとで設けられた官道のひとつであって、近江(おうみ:滋賀県)を起点に、美濃(岐阜県)、信濃(長野県)、上野(こうずけ:群馬県)、下野(しもつけ:栃木県)を経て陸奥(むつ:東北地方)の各国国府を通る幹線道路であった。ここには30里(約16km)ごとに駅馬(はゆま)10匹を備えた駅家(うまや)が設けられていた。
当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、利根川・多摩川・富士川・安倍川・大井川・木曽川・長良川・揖斐川と渡河困難な大河が続く東海道よりも東山道の山道の方がむしろ安全と考えられていたから、大変賑わっていたと云う。
その関東地方の通過点を現在の地名で示すと、
→上田(信濃)-〈碓氷峠〉-高崎(上野)-足利(下野)-“葛生”-宇都宮-白河関(陸奥)→となる。
葛生の町から少し谷を登った所に“常盤(ときわ)”と云う地名がある。この常盤地区の山間部に源義経(みなもとのよしつね)の母親である「常盤御前(ときわごぜん:1138年- 没年不詳)の墓である五輪塔があることが地名の由来であることを聞いた。御前は、あの源義経が兄頼朝に追われて奥州に逃げたのを追って、都から奥州へ向かう途中で人目に付かない山道を越えて、今の栃木市の山奥に当たる出流(いずる)へ出ようとして葛生の大釜の先の山道で、馬が足を滑らして谷へ転落死してしまったことから、仕方なく当地に留まって時を過ごしてしまったとのことであった。この地方は鎌倉から関東平野の山すそを経て奥州街道へ繋がる街道筋に当たっており歴史自責の散在している谷間でもあった。
もう一つ有名な話がある。
この葛生の山本の里で大雪に遭い、途方に暮れた旅僧は、落ちぶれて貧窮にあえいでいた古武士の家に停めてもらった。この家の主人は僧に暖をもてなそうとするが燃やす薪が欠乏してしまっていた。そこで大切に育んでいた盆栽の鉢植えの3本の樹木を引き抜いて、旅僧に暖をとらせたのであった。そして僧が主人にその素性をたずねると、佐野源左衛門常世のなれのはてと名乗り、零落はしたが、いざ鎌倉という時には、いの一番にはせ参ずる覚悟であると語った。
その後、かの旅僧(実は最明寺入道時頼(鎌倉幕府第5代執権・北条時頼)は鎌倉に帰ると、常世の言葉の真意を確かめようとして諸国の士を招集した。果たせるかな常世はやせ馬に鞭打ってはせ参じた。そこで時頼は常世の忠節を賞し本領をもとに戻した。
この話は、“鉢の木”と題する謡曲、浄瑠璃、講談などになり、全国的に有名となっている。その舞台が葛生の秋山川の谷間に残っているほとでも有名であったのだった。ちなみに旧葛生町(現佐野市)鉢木町の願成寺には常世のものといわれる墓がある。
その三番目は、私が高校を卒業する昭和28年頃のことである。日本には旧石器時代はなかったと云う定説がくつたえって大センセーションを巻き起こしたからである。それは葛生で発見された人骨により、50万年前の「葛生原人」の存在が明らかになったからである。この詳細は、1951年(昭和26年)5月3日に足利第2中学校の生徒、松村、秋葉、長谷川の3少年が葛生町の吉沢石灰採掘場から人の大腿骨らしいものを発見した。そして1952年(昭和27年)に早稲田大学の直良信夫教授が、左大腿骨下端部の調査により、約50万年前の旧石器時代の人骨と考えられるとし、「葛生原人」と命名した。これが葛生原人の存在を世に広まった始まりで、学校の教科書にも「日本にも、50万年前に人が住んでいた証拠」として記載されるような「大発見」ともてはやされた。
ところが、2001年(平成13年)、お茶の水女子大学の松浦秀治教授が葛生原人を新技術の「フッ素年代測定法」で調査したところ、人骨は室町時代程度のものである事が判明したことから、葛生原人は幻と消えてしまった。しかし、葛生の「葛生人発見現場」に行くと、「葛生原人」の旧説明と中世「葛生人」の新説明が肩を並べており、毎年8月に“葛生原人まつり”が催されていると云う。
 さて、最後に、タイトルに掲げた明治時代の旅客用蒸気機関車の代表である“ピーテン”と“ネルソン”の一族の系譜をたどって置きましたので御付き合頂ければ幸いです。
明治時代の初期の東海道線では主にタンク機関車がイギリスから輸入されて活躍していた。その頃、高崎線・東北線を建設しつつあった日本鉄道の使用する機関車は、当初は官設鉄道が発注・輸入を代行しており、一旦官設鉄道籍に入ってから日本鉄道に振り向けられていた。その日本鉄道の開業用として、1882年(明治15年)に二両の2Bテンダー機関車をイギリスのベイヤー・ピーコック社に発注し輸入した。これが後に“ピーテン”(ピーコックのテンダー機関車の意)と愛称されるようになる2Bテンダー機関車の一族の元祖である。これらは官設鉄道では、R形(31, 33)となったが、1893年(明治26年)に正式に日本鉄道に譲渡され、Pbt2/4形(2,1(2代目))となった。
一方、官設鉄道では、1888年(明治21年)に東海道線全通への対応として“ピーテン”を12両を注文し、翌年に輸入した。官設鉄道では、先に日本鉄道用に振り向けたものと同じR形に編入し、106-128の偶数)に付番した。これは日本鉄道のものよりも蒸気圧力が上げられて、9.8kg/cm2となっていた。これらは1898年(明治31年)の鉄道作業局の形式称号規程では、D5形となっている。
また、山陽鉄道では、1890年(明治23年)に“ピーテン”を10両を輸入し、形式3(9 - 18)とした。これらの日本鉄道と山陽鉄道の“ピーテン”は国有化により1909年(明治42年)に鉄道員の5300形に編入されている。
そのごは、入換専用や地方へてんしゅつしていたが、1914年(大正3年)には東武鉄道に2両が譲渡され、同社のB2形(27, 28)となっている。そして残った22両は当時急速に開業しつつあったローカル線で使用するため、1921年(大正10年)から浜松工場で4-4-2(2B1)型のタンク機関車960形(960 - 981)に改造された。
次に、初期の“ピーテン”の継続機の話に入る。
その後、官設鉄道では東海道線の増強用としてベイヤー・ピーコック社に6両の“ピーテン”を発注した。これは前に導入された機関車に比して大2動輪の位置がキャブの真下にのびて、ボイラー火室が動輪の間に位置して設計の自由度が広がり、安定感を増し、ボイラー圧力も増加すると云う進化を遂げていた。官設鉄道での形式番号は形式AF (142 - 147)となった。そして東海道線中部の静岡機関庫などに配置された。1898年(明治31年)には鉄道作業局形式規定ではD6形に改められた。
一方の日本鉄道では、1894年(明治27年)に同形機をPbt2/4形として12両を輸入した。こちらはボイラーの仕様が官設鉄道のものと若干異なり、整備重量も重かった。日本鉄道では、1897年(明治30年)に36両、1898年に12両を増備している。
私鉄の東武鉄道では、伊勢崎線北千住 - 久喜間の新規開業用として、1898年(明治31年)に10両の“ピーテン”を輸入して、B1形 (3 - 12)とした。しかし経営上の都合から1899年(明治32年)頃に計6両を総武鉄道に譲渡している。そして、残った4両(3 - 6)が使用し続けられていた。やがて1907年(明治40年)に久喜から北の足利への延伸開通に伴い機関車の不足が見込まれたので、同年に“ピーテン”を2両(製造番号5089,5090)を輸入し、14, 15とした。この二両は1915年(大正4年)に7, 8(いずれも3代目)に改番されて最晩年まで活躍した。これらは、日本鉄道のものと主要寸法は同一であったが、使用圧力が9.8kg/cm2と、官設鉄道や日本鉄道の11.2kg/cm2より低かった。
その後、国鉄から5両の“ピーテン”を譲受し、東武鉄道では54 - 56, 59, 58(2代目)として使用した。これにより、東武鉄道プロパーの6両を合わせて計11両のB1形と、2両のB1型の“ピーテン”が活躍することになった。
一方では、官設鉄道が6両、日本鉄道が60両、総武鉄道(東武鉄道からの譲渡車)が6両の計72両である。そして、1906年に日本鉄道と総武鉄道が国有化され、両社に所属した66両が官設鉄道に編入された。その後の鉄道員の形式制定では、官設鉄道のD6形及び旧日本鉄道のPbt2/4形、旧総武鉄道の16 - 21は5500形と定められた。
 この“ピーテン”と動径の機関車がイギリスの他の機関車メーカーでも作られている。たとえば、
日本鉄道では1893年(明治26年)に「ニールソン(ネルソン)社 」で5両が製造され、Nbt2/4形 (72 - 76) となった。これは後の鉄道員の5630形となる。
また、官設鉄道でも、1896年(明治29年)に「ニールソン(ネルソン)社 」製の6両をゆにゅうし、AF形 (174 - 179)とした。鉄道作業局でも同形式のD6形に分類されたが、鉄道院の形式称号規程では旧日本鉄道所属機と合わせて形式5530となった。
 それとは別に、日本鉄道では1898年(明治31年)にシャープ・スチュアート社から6両を輸入して、SSbt2/4形 (207 - 212) となった。その後の国有化により官設鉄道に籍を移し、鉄道院の形式称号規程では、5650形 (5650 - 5655)となった。形態的にはヒーテンの3次車とほぼ同等で、大型の砂箱を装備しているが、第1動輪スプラッシャーの飾り枠がなく、シンプルな外観となっている。1922年(大正11年)に全機が東武鉄道に譲渡されて同社のB4形 (35 - 40)となって、その一部は最後まで生き残った。
 まとめると、官設鉄道では、ピーコック社製とニールソン社製をあわせて12両の導入にとどまり、以降の増備は動輪直径が152mm大きくした後の6200型系へ移行したのに対して、日本鉄道では標準型として、ピーコック製が実に60両もの大増備を行なっており、その他にネルソン社とスチュアート社製の11両が活躍していた。やがて、大正期に入ると新鋭の旅客用機関車の8620型が投入されると、ピーテンは地方幹線から入れかえ作業へと移って行った。
そして、1929年(昭和4年)から翌年にかけて、10両はB10形2B1タンク機関車に改造されてローカル線で活躍することになった。
 次いで、日本鉄道では“ピーテン”(Pbt2/4形、後の鉄道院5500形)の改良型をイギリスのピーコック社に18両を発注した。それは1899年(明治32年)に6両(製造番号4038 - 4043)が輸入され、続いて1902年(明治35年
)に12両(製造番号4479 - 4490)の計18両が輸入され、形式は5500形と同じPbt2/4形、番号は213 - 230となった。1906年(明治39年)に、日本鉄道が国有化され、その後の鉄道院の5600形となった。
これは設計変更により、“ピーテン”の代表格である5500形とは大きく異なる形態となったが、基本的な性能、寸法は同一である。最題の特徴は、ベルペヤ火室(Belpaire firebox)の採用である。ベルペヤ火室は、ベルギーの機関車技術者A・ベルペヤの開発した火室の形式で、内火室と外火室がほぼ同じ形状をしており、内火室を支えるステイの形状を簡単にでき、缶水(ボイラー水)の循環が良く水垢の付着が少ないという利点があり、角ばった外観が特徴であった。
また、ボイラー中心高さが5インチ(178mm)高められたため、ランボード(歩み板)の高さも上がり、ランボード前端部の屈曲が始まるのもシリンダ(気筒)の直後となった。また、運転台の囲いの密閉性が上がり、側面にも引き違い式の窓が設置された。5500形ではランボード上にあった砂箱も、ボイラー上に円筒形のものが設置され、近代的な外観になっているが、従来のピーテンにあった軽快さは失われてしまったと云われる。
また、その中の鉄道連隊に移った5605は終戦後に東武鉄道に入線(入籍は1952年)し、B7形(3(2代))に改番され、1957年(昭和32年)まで使用され、廃車解体された。
一方、東武鉄道でも上と動径のテンダー機がピーコック社に発注されている。それは東武 佐野線開通に備えて、1914年(大正3年)ベイヤー・ピーコック社で6両(製造番号5836 - 5841)が製造輸入され、B3型、29 - 34となっている。
その動輪径が1524mmに拡大された以外の基本寸法は国鉄5600形と同一であるが、ランボード前端部の処理が変わって、屈曲を設けず直線のまま乙型に段差を設けた形となり、多少垢抜けた印象となった。
これは日本で最後に輸入された2B型テンダー式蒸気機関車である。
 最後は“ネルソン”2Bテンダー機関車の登場である。
1889年(明治22年)に東海道線が全通し、新橋〜神戸間の直通旅客列車の大増発とスピードアップに対応するための“ピーテン”の後継機の160輛の増備が求められた。この候補機には、イギリスのネルソン社とアメリカのボールドウイン社が選ばれた。先ず、1897年(明治30年)にネルソン社から2Bテンダー機関車を動輪直径を大きくした18輛を輸入した。これは後の鉄道員の「6200型」となる機関車である。次いで、アメリカのポールドウイン社から18両を輸入した。これは後の鉄道員の「6150形」となった機関車である。そして、1898年(明治31年)8月のダイヤ改正から東海道線に全機が投入され比較運転が行なわれた。その結果ネルソン社製が増備社となった。それを踏まえて、鉄道院は1899年(明治32年)にネルソン社に50両を追加発注した所、ネルソン社では納期に間に合せるために、後の1903年に合併してノース・ブリティッシュ・ロコモティブ社になってしまうスコットランドのダブス社 グラスゴー機関車工場に18両の製造を依頼したのであったが、後に好評であったことから6輛の追加発注があり、合わせて24輛のダブス社製の「ネルソン」、後の“6270形”が生まれたのであった。
この“ネルソン”は先輩の“ピーテン”に姿が似ているが、動輪径が大きくなり、スピードが向上し、イギリス流の洗練されたスタイルは人気があり、当時の鉄道ファンは「明治の貴婦人」と呼んだと云われている。この機関車は全長14.25m 整備重量32.00t 動輪直径1524mm 最高速80キロであった。このネルソンはすべて東海道線に投入され、東部にネルソン社製、西部にダブス社製が配置され、当時の花形列車である直通列車や急行列車を牽いて活躍した。そのご、鉄道国有化法の施行後には、全国に分散して配備された。
やがて年が下って、国産新造の8620形蒸気機関車が登場するに及んで、余剰となった。そして、東武鉄道では 15両の“ネルソン”を国鉄から払い下げをうけて、本線の貨物列車用として使用していたが、やがて電化に伴って余剰となり全車が廃車されている。
元に戻って、国鉄では前例にならって、“ネルソン” 109両を2B1タンク機
に改造することに決まったのである。冒頭の二枚目に展示した“ネルソン”をタンク機に改造して生き残った一両の寫眞である。これはダグス社製の“ネルソン”の一族で、タンク機に改造されてからローカル線で活躍した後、日鉄鉱業に払い下げられ、これが最晩年に葛生の羽鶴鉱業所専用線に配属されてDLの予備機として命脈を保ち、今は京都の梅小路蒸気機関車間に保存されているのである。そのような次第で、葛生の北では日鉄鉱業の“ネルソン”の一族、南では東武佐野線には“ピーテン”の一族が同じ時期に東武鉄道の葛生駅で顔を合わせて稼働していた時代があったことにちなんで、このサイトを制作したのである。

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・「北関東の葛生の明治生まれの“ピーテン”と“ネルソン”」」シリーズのリンク
317. 名残の東武鉄道“ピーテン”・佐野線/館林機関車庫、葛生駅
318.  葛生 の“ネルソン” #1080 ・日鐵砿業羽鶴専用線