自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・北関東の葛生の明治生まれの「ピーテン」と「ネルソン」
317.  名残の東武鉄道“ピーテン” ・佐野線/館林機関車庫、葛生駅

〈0001:bO30511:東武 39号と7号/館林の機関車庫〉


〈0002:bO30525:東武 31号の牽く貨物列車葛生駅到着〉


〈0003:bO30531:単機での機回し中、葛生駅〉


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〈紀行文〉
 信州の塩尻から関東へ転居して来たのは昭和36年の初夏であった。東京の板橋区に接している埼玉県南部の北安達郡浅香町に住んで、隣の大和町にあるホンダの埼玉制作所でオートバイのエンジン部品の高質クロームメッキの技術を支える一人として勤め始めていた。
ここへの引っ越し荷物は、どこお経由して来たのかは知る由もなかったが、巻頭の西側の山すその寄居から川越を経て都心の池袋に通じている東武鉄道 東上線の朝霞駅に到着しているとのことで、リヤカーを引いて受け取りに向かった。その途中で東上線の電車用の架線の張られた線路を短い貨物列車を引いた明治の古典SLが煙を吐いながら黒目川(荒川の支流)の谷に架かる築堤を浅香駅に向かって走り行くのを眺めたおぼえがある。長い煙突に二軸の先台車に大きな動輪が二個の機関車がシルエットに浮かんで見得た。
時が過ぎ、SL撮りが趣味となった二年目の昭和41年になって、しぶとく生き残っていた東武鉄道佐野線のSL運用が終わりになることを知った。大急ぎで3月に幼い息子を伴って館林駅にある機関車庫を訪れてから、入れ替えをやっていると云う佐野線の終点である葛生駅に向かった。何しろ駆け出しだったので機関車の特徴を捉えるようなところまでは気が回っていないのが惜しまれる。
 ここから、生き残っていた東武鉄道の蒸気機関車にまつわる話題をまとめて見ましたのでお読み頂ければ幸いです。
 この東武鉄道は1897年(明治30年)に北千住-足利間(約80q)の免許を受け、1899年(明治32年)に北千住 - 久喜間(約40q)を開業し、2時間間隔で1日7往復の旅客・貨物混合列車の運転を始めた。その後も北へ路線を延伸し、1903年(明治36年)に利根川の南岸に位置していた川俣駅に達したが、この頃東武鉄道は経営難に陥っていた。ここで東武鉄道は根津嘉一郎を招き、彼の経営手腕によって利根川を架橋することが断行され、1907年(明治40年)には館林駅を経て足利町駅(現・足利市駅)まで開業したのであった。
この北千住ー久喜間の開業にさいして、イギリスのピーコック社から2Bテンダー機関車を10両を輸入した。この機関車は後年に鉄道院(国鉄) 5500型と呼ばれることになる形式と同型で、官設鉄道が東海道線の増強用として1893年(明治26年)にイギリスのベイヤー・ピーコック社 (Beyer, Peacock & Co. Ltd.)に6両を発注輸入した機関車で、続いて東北本線の前身である日本鉄道でも動型が多数輸入されて主力として活躍し、好成績を挙げていたのであった。
この形式は前駆の5300型も含めて、名義初期の代表的旅客用機関車“ピーテン”と呼ばれていた。東武鉄道では、その後の増備には、この系列の形式の機関車が自社発注、それに国鉄からの払い下げにも引きつがれていた。
1907年(明治40年)の鉄道国有化を免れた東武鉄道は関東一円に鉄道網を広げるような延伸を勧めた。北千住から南へは東京市内のターミナル駅の設置、貨物線の国鉄との接続などが架かられる一方、北へは足利から桐生を経て伊勢崎へと延伸した。
続いて日光への進出の計画がすすめられていた。当初は館林から佐野、葛生、鹿沼を経由して日光まで結ぶ構想であったため、そのルートの重なる佐野鉄道を合併した。東武鉄道は佐野鉄道が持っていた鉄道敷設免許を利用して館林 - 佐野間を建設、1914年(大正3年)に館林-葛生間は佐野線(延長 22.1q)として開業し、館林-葛生間の直通運転を開始し、これにより館林を経由して浅草まで直行できるようになった。
一方、葛生付近における石灰石、ドロマイトなどの採取、それを用いたセメントの製造などの関連産業が盛んになりつつあった。そこで伊勢崎線へ接続してSL列車による本格的な石灰石などの輸送を始めた。
この時に東武鉄道ではイギリスのピーコック社に“ピーテン”の改良型に当たる『日本鉄道が1899年(明治32年)にイギリスのピーコック社で製造し輸入した8両のPbt2/4形(213〜220)』と道型を6両発注した。この6両(製造番号5836 - 5841)はB3型、29 - 34となった。
この形式は設計変更により、“ピーテン”の代表格である5500形とは大きく異なる形態となったが、基本的な性能、寸法は同一である。最も異なる特徴は、ベルペヤ火室の採用であることはプロローズでも述べた。ボイラーが高くなったことからランボードのデザインモへんこうされ、5500形ではランボード上にあった砂箱がボイラー上に円筒形のものが設置されたりして、、近代的な外観にはなったものの、従来の“ピーテン”にあった軽快さは失われてしまっている。
 話を元にもどしと、続いて石灰石鉱山地区と葛生駅とを結ぶ貨物支線(大叶(おおがの)線・会沢線)などを延伸した。また昭和26年になると葛生に進出して来た日鉄鉱業羽鶴鉱山が開かれると同時に鉱山から会い沢線に接続する鶴専用線が開業シテイル。そして葛生駅の取扱う貨物の量は東武鉄道最大となり、そこからの貨車は国鉄両毛線、東武佐野線に引き継がれて各地へ出火されて行った。
しかし、葛生から日光への延伸計画は、葛生−栃木の間に山越えのルートとなることが障害となって、館林の南に位置する杉戸(現在の東武動物公園)で分岐して北上す栃木を経由するルートに変更されてしまった。それで葛生駅は佐野線の終点駅となってしまった。
この佐野線の前身であった佐野鉄道は、1888年に設立され、1890年までに葛生 - 越名河岸間が開業した安蘇馬車鉄道である。その頃の明治21年(1888年)には両毛鉄道が日本鉄道の東北線の小山駅から栃駅、佐野駅を経て足利駅まで開通しており、それを経由して石灰を出荷する動きも始まった。それで安蘇馬車鉄道が設立されたのである。やがて3年後の1903年(明治26年)になると、輸送力増強のため蒸気機関車を使う佐野鉄道へと社名を変更し、ドイツのクラウス社から車軸配置 0-4-0(B)型のウエルタンク式の全長 5、029mm、整備重量 8.62tの小型蒸気機関車を3両を輸入して1894年(明治27年)に葛生〜(旧)佐野町〜越名河岸間を軌間 1,067mmで開業したのである。
 さて、関東地方に長大な路線を有した東武鉄道で走ったSLの総数は85両にも達していた。その主力蒸気機関車は2Bテンダー機関車であって、その大部分を“ピーテン”の一族と、その後継機である“ネルソン”の一族が占めていた。
その後者の“ネルソン”の始まりは官設鉄道が「ピーテン」と同形をイギリスのネルソン社にも6両発注したことがあったが、その後の増備には、そのネルソン製の「ピーテン」の動輪直径を125o増大させた機関車を多数増備したのである。このタイプは後に6200型と世バレた。これが世に言う“ネルソン”で明治の貴婦人ともてはやされた機関車である。この東海道線で大活躍していた“ネルソン”も次世代の新鋭の8620型の登場により地方へ転出するようになった。そして東武鉄道へも払い下げられるようになり、15両が東武本線での貨物列車牽引に活躍していたが、早い時期に電化により余剰となり廃車解体されてしまって、最後の辞典には残っていなかった。
 そして、東武鉄道で最後の昭和41年6月まで生き残ったのは佐野線の館林区の5両であり、その内訳は30・31・34号のピーテン 3両、それに39・40号の2両のシャープ・スチュアート社製の「ピーテン」の一族であった。
 私が訪ねた41年3月の館林機関車庫には、庫外に37号、倉内に7号が既に廃車として留置され、現役の39号が憩っていた。そして、葛生の入れ替えと支線への運用、それに葛生−舘林間貨物列車牽引には30、31、40号が当たっていたものと思われる。
この中の前のグループである29〜34号の6両は前述したように佐野線の開業に合わせて、1915年(大正4年)にピーコック社に自社発注された6両でB3型となった機関車である。外観は“ピーテン”の一族ではあるが、〜里異なった印象を与えている。
次の後のグルーブである35〜40号は、日本鉄道(今の東北本線・常磐線)が1989年(明治31年)にイギリスのシャープ・スチュワート社に「ピーテン」の増備として同型を6両発注した。これが後に5650型と呼ばれるようになった。そして1922年(大正11年)に6両の全てがが東部鉄道へに譲渡されて、B4型の35〜40号となったものである。
 一方、この車庫に留置されていた7号は東武鉄道プロパーの“ピーテン”の生き残りのいちりょうである。その生い立ちは、
1907年(明治40年)8月に久喜以北の足利への開通に伴い、現勢力の4両だけでは不足を来すこととなってした。そのため東武鉄道では、1907年(明治40年)、ピーコック社から同形の製造番号5089,5090を輸入し、14, 15号(1915年に、7, 8号、いずれも3代目)改番)とした。残念ながら6が東部鉄道の記念物として保存されていたからであろうか、その後まもなく解体されてしまったようだ。
  さて、ここで「ピーテン」の構造について受け売りをしておこう。この車軸配置は4-4-0 (2B)の2気筒単式の飽和式テンダー機関車で、動輪直径は1372mmであった。先行する5300形系列では、第2動輪が運転台の直前、火室の横に置かれていたが、
5500形では動輪の軸距を伸ばして運転台の直下に置き、火室を第1動輪と第2動輪の間に配した安定感のある姿となった。
ランボード(歩み板)の前部が斜めにはね上がり、シリンダがそれに沿う形で斜めに取り付けられているのも先行の5300形式と同様である。また、銘板は第1動輪スプラッシャー(泥除け)の装飾を兼ねた扇形の大きなものが取付けられており、機関車のスタイルに留意を払うピーコック社の姿が見られる。
・主要諸元
全長:14,021mm
全高:3,671mm
全幅:2,286mm
軌間:1,067mm
車軸配置:4-4-0(2B)
動輪直径:1,372mm
弁装置:スチーブンソン式基本型
シリンダー(直径×行程):406mm×559mm
ボイラー圧力:11.3kg/cm2、東武は9.8kg/cm2
火格子面積:1.33m2
全伝熱面積:80.3m2
煙管蒸発伝熱面積:73.0m2
火室蒸発伝熱面積:7.3m2
ボイラー水容量: 2.3m3
小煙管(直径×長サ×数):45mm×3,229mm×170本
機関車運転整備重量:34.07t
機関車空車重量:30.97t
機関車動輪上重量(運転整備時):22.34t
機関車動輪軸重(第1動輪上):11.62t
炭水車重量(運転整備時):24.55t
炭水車重量(空車):11.64t
水タンク容量:9.1m3
燃料積載量:3.46t
炭水車は3軸固定式
機関車性能
シリンダ引張力:5,990kg
ブレーキ装置:手ブレーキ、真空ブレーキ
・優れた耐久性
ベイヤー・ピーコック製の本形式は、80年もの間使用されながらも気筒とピストンの磨耗がほとんどなく、検査時にもに気筒のプッシングの必要がまったくなかったという。後年、国鉄研究所では、その材質を分析したが、リンの含有量が少し多いという以外、金属の材質からはその理由が全く解明できなかったという。
 “ピーテン”の生みの親である「ベイヤー・ピーコック(Beyer, Peacock & Co. Ltd.,)」はベイヤーとピーコックの2人によって創業され、1854年から1966年の間に8000両余りの蒸気機関車などを生産したギリス・マンチェスターに存在した鉄道車両メーカーである。ここが製造する機関車は専ら輸出用であった。この会社はイギリスのガーラット 
(H.W.Garratt)技師の考案した関節式蒸気機関車(ガーラット式蒸気機関車を実用化した特許実施権者として知られ、1909年から1958年までに、1,000両以上を製造しており、主にインド、南アフリカなど英連邦所属の各国で多く採用された。この機関車は2組の走り装置を別々の車体に設け、その両車の間に跨ってボイラーを搭載した主台枠が首振り構造で載る方式であり、走り装置上に水タンクが搭載されているから、常に死重となる炭水車が基本的に不要であった。その利点は、燃料・水の積載量が多く長距離を走行できる、ボイラー下が空間となるため、缶胴部や火室設計の自由度が高い、急曲線や勾配に強く高速化もマレー式以上に容易、車輪数が多くすることで1軸あたりの軸重を相対的に軽くでき、それでいて容易に牽引力の強化が可能となるなどであった。日本で強力な機関車を求めていた時期が第一次世界大戦後のイギリスから機関車を輸入が困難な時期に当たっていたことから、このガーラット式蒸気機関車の採用はなかった。このピーコック社は現在、シャープ・スチュアート社などと合併してノース・ブリティッシュ社となっている。
 最後に、現在(2014年)も東部鉄道のSLたちは各地で数多くが静態保存されていることは喜ばしい限りである。その所在を下記に記した。
5:1899年(明治32年)にB1形 (3 - 12)の10両の内。東武鉄道記念物に指定され東京・向島にある東武鉄道博物館に保管。
6:1899年(明治32年)にB1形 (3 - 12)の10両の内。東武鉄道記念物に指定され東京・向島にある東武鉄道博物館に保管。
31:1914年ピーコック社から国鉄5600形同型を6両の内。葛生町の喜多山公園に保存。
34:1914年(大正3年)ピーコック社から国鉄5600形と同型を6両輸入の内。東京大田区の萩中交通公園保管。
37:B4形(シャープ・スチュアート)6両の内。昭和40年廃車→埼玉県志木市の立教高校に保管。
39:B4形(シャープ・スチュアート)6両の内。三重県三岐鉄道丹生川駅、貨物博物館にて保存。
40:B4形(シャープ・スチュアート)6両の内。埼玉県宮代町の宮代コミュニティ広場で保管。
 話題を佐野線の終点の葛生駅から先に延びる貨物支線について触れたい。石灰鉱山への貨物線として、先ず会澤線(4.6 km)を開通させ、次いで葛生駅の次のの貨物駅の上白石駅から支線の大叶線(おおがのせん、1.6 km)を開通させている。

〈参考文献:東武鉄道の蒸気機関車については下記を参考にした。〉
青木栄一・花上嘉成著、「私鉄車両めぐり(東武鉄道)」、の中の「東武蒸気機関車一覧」、「鉄道ピクトリアル」誌、鉄道図書刊行会刊。
なお、著者の花上さまは元東武社員で東武博物館館長を務められておられます。

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・「北関東の葛生の明治生まれの“ピーテン”と“ネルソン”」シリーズのリンク
316. プロローグ:葛生の石灰石を運ぶ・東武鉄道佐野線と専用線たち
318.  葛生 の“ネルソン” #1080 ・日鐵砿業羽鶴専用線