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・「“銀河鉄道の夜”と“洋式製鉄発祥”の里/釜石線」
286.  洋式製鉄発祥の谷 ・山田線 & 釜石線 /両石-釜石〜陸中大橋

〈0001:2-8-3-2:山田線〉
朝の陽光を浴びるC582

〈写真の撮影メモ〉 さて、写真の撮影メモを紹介しよう。
釜石漁港の近くで朝飯にありついてから、先輩格の路線である山田線に敬意を表して、釜石駅を出発する山田線の上り列車を手っ取り早く狙うことにした。この辺りの三陸海岸は岬のある半島と入り江が複雑に入り組んだリアス式海岸が続いていた。この奥深い釜石湾の北側は馬田岬(まだみさき)のある半島によって北の両石湾と区切られていた。釜石の銀色の煙突を瀬に、両石湾へ抜ける小さな峠に向かってダッシュしてやってきたC58の引く列車が早朝の低い斜光線を浴びているシーンを捕らえた。

〈0002:2-8-5-6:釜石機関区で憩うD6051号〉
釜石では珍しい二つ目玉のD60がいた

〈撮影メモ〉
釜石機関区をちょっとのぞいたら、予想もしなかったD60がりゅうちされていた。ここには延長して来た山田線の開通時に転車台が設けられていたが、昭和24年にD51が転向できる大型の下路式転車台に置き換えられていた。

〈0003:2-8-3-3:陸中大橋駅構内スナップ〉
背後に見える建物は鉱石積み込み場であろ

〈撮影メモ〉
陸中大橋の構内のスナップである。ここでは350mレベルの選鉱場で選鉱された銅,鉄の鉱石がベルトコンベアでこのホッパーに運ばれ鉱石貨車に投下積載される所が写っている。この駅のシンボル的な存在である鉱石積み込み場のホッパーを格納している4階建てほどの建物が異彩を放っていた。私が訪ねた前年の昭和40年3月まで運行していた軌間762oの富士製鉄鉱石貨物専用線は釜石市街路を通過していたことから、道路の拡張に支障となった理由で廃止されてしまっていた。かっての終点の大橋駅は現在の陸中大橋駅とは異なる位置にあって、スイッチバック式の終着駅であったと云われており、鉱石列車の運行風景をみたかったのだが遅かった。

〈0004:bP31012:重連貨物通過〉

〈撮影メモ〉
実はこの写真は撮影が昭和43年5月なことは確かなのだが、撮影場所が判らず仕舞いである。当時のD50の運用から取りあえず釜石線に展示の場所を借りた次第です。
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〈紀行文〉
 ここでは「日本の洋式製鉄発祥の地」である釜石湾に注ぐ甲子川(かっしかわ)の谷に係わる風景を取りあげた。
この北上山地の遠野から釜石に掛けて山々から流れ下る河川の上流は鉄資源に恵まれていた。それは遠野盆地を流れ下る猿ケ石川、そして北から大槻湾に注ぐ鵜住居川(うのすまいかわ)・釜石湾に注ぐ甲子川(かっしかわ)・陸前高田で太平洋に注ぐ汽仙川などの上流部では良質な砂鉄や餅鉄(砂利のように丸くなった磁鉄鉱)などが採取できた。それに、製鉄用燃料としての黒炭の原木に適した「ナラの木」が豊富にあり、そして、高炉に空気を送り込むための鞴 (ふいご) の動力源に使える河川の急流が手近に存在していたことから、戦国時代以前から「たたら製鉄」が盛んに行われ、南部鉄器の鉄材として利用されていた。時代が下って、1727年(享保12年)に江戸幕府の採薬使の役人が釜石街道の仙人峠(標高 887m)を越える道中で磁針に狂いが生じたことに気が付いて、磁鉄鉱の露頭を発見し、近くで豊富な鉱脈を発見する端緒となった。続いて峠から甲子川の谷を挟んで対岸にそびえる片羽山(かたばさん)の雌岳(標高 1291m)で磁鉄鉱の鉱床が発見され、その麓の大橋で1822年(文政5年)に南部藩では盛岡青物町の理兵衛に鉄鉱石の試掘の許可を与えている。やがて、発掘した磁鉄鉱を原料とする製鉄が試みられるようになり、これによって作られた鉄は大砲にも使える強靱さを持っていることが判ってきた。そして遂に、1857年(安政4年)になって南部藩の手で築かれた洋式高炉(反射炉の操業により銑鉄(せんてつ)」の生産を日本で初めて成功させたから、この釜石湾に面した甲子川の谷は洋式製鉄発祥の地となった。これを基に、大橋とは山一つ西の鵜住居川の上流にある橋野でも鉱山と高炉が営まれた。幕末最盛期には、大橋に3基を初めとして、橋野に3、佐比内(遠野市)に2、栗林(釜石市)に1、砂子渡(釜石市)に1の合計10基の高炉が操業されて、鉄鉱石から「強い鉄」(銑鉄)が年産約100万貫(3750トン)造り続けられ、各地へと出荷され、大砲などの鋳造に重用されたと云う。それからの釜石は近代製鉄法による鉄づくりの一大集積地であり、日本における近代製鉄発祥の地となったのである。そして、オリジナルの大橋高炉は釜石鉱山の近代化のために失われてしまったが、隣の谷の橋野高炉は産業近代化遺産として現存していることは素晴らしい。
  この日本初の洋式製鉄発祥の地である大橋の地はリアス式三陸海岸の中でも指折りの良好な入り江である釜石湾の奥に注いでいる全長 24.2kmの甲子川(かっしかわ)の最上流部に位置しており、背後の山は雄岳と雌岳の双耳峰である片羽山(片葉やま)がそびえていた。その南手前にある雌岳には鉄や銅の豊かな鉱床の存在が明らかになりつつあった。それに釜石街道の仙人峠を下った谷底にも当たっている交通の要所でもあった。
 明治時代に入ると、政府は大橋で営まれていた鉱山と高炉による製鉄の事業を買収して官営の鉱山と製鉄所を運営する官設釜石製鉄所を1874年(明治7年)に創立した。
そして、6年の歳月と現在の貨幣価値にして数千億円を越える資金でドイツ人技師エル・ビヤンヒーの指揮のもとで、海外より機械類を輸入して鉱山の近代化と、旧式高炉の跡地に選鉱場を設け、鈴子(今の釜石)に大規模な高炉2基を、鉱山と精練みょの間に鉄道などの設備を揃えて、官営釜石製鉄所は1880年(明治13年)に操業を開始した。
特に工部省釜石鉄道が釜石桟橋−大橋間18kmの本線と小佐野−小川山間4.9kmの木炭製造所への支線、精錬所への支線を含めた延長24qの軌間 838oの鉱山専用鉄道として開通した。これは日本で二番目に着工された鉄道なのであった。
しかし、操業はわずか97日間の操業で頓挫した。原因は諸説あるが、小川の製炭場の火災が大きな要因とされている。その後、1882年(明治15年)に製鉄高炉の操業を再開したのであったが、今度は200日目で再び中止してしまった。原因は燃料となる木炭が不足したことと、代替燃料となるコークス使用の目処が立たなかったと伝えられている。官営製鉄所の操業停止と鉱山閉山により、この鉱山と製鉄所は政府御用鉄材商である田中長兵衛に払い下げられた。また鉄道はレールは撤去され、機関車2両と共に大阪の阪堺鉄道(現、南海電気鉄道)へ売却されてしまった。
そして、田中の娘婿であった横山久太郎が鉱山再興に着手して、1887年(明治20年)になってやっと高炉による連続出銑に成功したことから、釜石鉱山田中製鉄所が設立された。これは日本で初めての洋式高炉による製鉄の発祥であり、その後は順調に発展して行った。やがて、
1894年(明治27年)になると、撤去された釜石鉄道の跡に釜石鉱山馬車鉄道が釜石−大橋間に軌間 762oで敷設され、鉱石輸送に活躍する。そして1911年(明治44年)に馬車鉄道から蒸気運転に切り替えられ、旅客も取り扱う地方鉄道の釜石鉱山鉄道となった。
時代が戦時下の1934年(昭和9年)には日本製鐵が設立されて、釜石製鉄所は同社の経営となり、釜石鉱山は独立した。戦後は富士製鉄釜石製鉄所となり、釜石鉱山は日鐵砿業の経営の下で銅鉱床を開発に成功した。出荷される鉱石の優れた品位と44.7万トンにたっした出荷量を誇った。そして役目を終えた現在は経済産業省の奨める近代化産業遺産に登録される一方、ミネラルウオーターの採取と、研究用磁鉄鉱の最高が続けられているようだ。
なお、目の前にそびえる山は★雌岳(標高 1291m)で、釜石鉱山の全長のような山だ。ここの鉱床の特徴は、地下で石灰岩などの割れ目にマグマが貫入してきて生じた熱水の作用で、その接触部分にできた有用金属の鉱石層を”スカルン鉱床”と呼び、ここの雌岳では磁鉄鉱と黄銅などが主体であった。これらを求めて150年間に掘られた坑道は南北6q、東西2q、標高は500mから980mの範囲に広がっており、その総延長は約 1000qを越えると云うすざまじさであった。
 釜石の地が近代製鉄の拠点として発展し始めた頃の1890年(明治23年)の末に青森を目指して建設が進められていた日本鉄道の東北線が内陸を北上して盛岡まで開通した。それまでの釜石との物資の交流は専ら近海航路の海運に依存していたので、地元では三陸海岸と東北本線とを連絡する鉄道の建設運動が高まった。
そして、1892年(明治25年)になると、国が建設すべき幹線鉄道の予定線を規定する「鉄道敷設法」が公布されることになり、これに現 山田線に相当する路を採択させることに成功した。それは、『一 岩手縣下盛岡ヨリ宮古若ハ山田ニ至ル鐵道』である。やがて、予定線のルート選定の測量調査が行われたものの、盛岡−宮古間に横たわる標高 1,000m を越す北上山地(区界峠:標高 751m)を越える点が検討されたが、建設は具体化しないまま時が過ぎてしまっていた。そして地元代議士の原敬が首相となった1920年大正九年)になってやっと建設線に格上げできた。その後15年掛けて昭和10年に開通を果たした。その先の釜石までは、国が建設すべき地方の予定線を規定した「改正鉄道敷設法」に採択されていた三陸縦貫鉄道の一部である
『7. 岩手縣山田ヨリ釜石ヲ經テ大船渡ニ至ル鐵道』の釜石までの区間を前述の区間に引き続いてけんせつすることになって、1939年(昭和14年)に開通したのであった。その後の戦時体制下で釜石製鐵所や釜石鉱山を抱えた釜石と東北本線とを直結する山田線の日夜を通しての貨物輸送に大いに貢献を果たした。しかし、戦後の1946年(昭和21年)9月の風水害により平津戸−蟇目間が長期運休となってしまった。この復旧に8年間を要した大災害であったことから、その代替えルートとして、戦時中に建設が中断していた釜井氏線の元岩手軽便鉄道の改軌と、仙人峠越え区間の新線建設がGHQ(占領軍司令部)の指示により促進された。そして釜石線が全通すると、釜石から内陸への貨物輸送のメインルートは山田線から釜井氏線に移った。山田線がC58しか入線できなかったのに比して、釜井氏線はD51が活躍したから輸送能力も格段に増強されている。
撮影:昭和41年11月

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・〈“銀河鉄道の夜”と“洋式製鉄発祥”の里/釜石線〉シリーズへのリンク
284. 仙人峠とオメガカーブ・釜石線/陸中大橋→上有住
285.遠野盆地の岩手軽便鉄道の追憶・釜石線/宮守〜仙人峠