自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「“銀河鉄道の夜”と“洋式製鉄発祥”の里/釜石線」
284.  仙人峠とオメガカーブ ・釜石線 /洞泉-陸中大橋-上有住

〈0001:2-8-5-1:トレッスル橋脚の大橋橋梁を渡るJ51363号〉
向こう側の山肌に映し出された白煙の陰の造形が面白

〈0002:2-8-5-5:アンダートラスの鬼ケ沢橋梁〉
手前は洞泉から陸中大橋へ向かう線路、見上げる線路は陸中大橋から上有住へ向かってい

〈0003:2-8-4-6:重連上り貨物列車〉
撮したポイントは?

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 〈写真キャプション〉
  一枚目の写真はトレッスル形式の橋脚を高い谷間に掛けた大橋橋梁を陸中大橋駅へ入る手前の右手の斜面から望遠で狙ったショットである。低い朝の陽光が機関車の吐き出す煙の陰を山の斜面に写していて、一見すると重連の列車かと見間違えたのが面白かった。
二枚目も、さらに洞泉駅の方へ戻って、北側の斜面を登って撮ったショットである。大橋駅からオメガカーブを抜けて再び仙人峠の東側の中腹の斜面をはい登ってきた線路を見上げると、先ほど陸中大橋を出発した上り貨物列車がゆっくりと崖を登って来た。そこで、洞泉駅から陸中大橋駅へ向かう線路を前景にして、対岸の斜面を流れ下る深い沢に架けられた鬼ケ沢橋梁に差し掛かった列車を見上げるようにしてシャッターを切った。この橋は第2大橋トンネルと唄貝トンネル群の間にあって、全長105m、高さ55m、アンダートラス型鋼橋であって、JR東日本管内で最も高さのある橋梁だと云う。
三枚目は釜石線の重連貨物れっしゃである。撮影地点がはっきりしないが、釜石線の正規の重連仕業は陸中大橋→上有住→足ヶ瀬間であると聞いているのだが。

〈紀行文〉
 昭和40年の秋ころからSLを撮り始めて、足繁く東北本線の奥中山へ通っていた。ところが、D51とD50の活躍している釜石線の無煙化が昭和42年3月だとの情報を聞いて、あわてて今秋の東北行きの初日は釜石線を訪ねることに決めた。そして、11月4日の夕方にクルマ(スバル360)で出掛けた。一路国道4号線をひた北上して花巻から北上川に別れを告げて県道盛岡釜石線へと左折した。そして寝静まった遠野ゴン地をきたへ、ひっそりとした遠野の街並みを通り過ぎた。柳田国男著の遠野物語の情景が頭をよぎってきて、回りの闇が武器にに感じられた。やがて上郷から間もなく上り坂が始まったが仙人峠の前衛である新平田峠(標高 451m)のようであった。この先は早瀬川沿いを東南東へなだらかにさかのぼり、人家も途絶えて久しいが、ついに谷が狭くなり沢に沿って北東へと進むと、やがてナトリウムランプのオレンジ色に照らされた有料道路のゲートにたどり着いた。確か150円を払って、トンネルに入った。出口には公園があったので日の出まで小休止することにした。眼が覚めると、目の前の谷を挟んだ先にそびえている雌岳(標高 1291m)の上部だけに朝の陽光が当たって輝いている谷間の光景に驚かされた。10%の急坂注意の標識の現れた急坂を延々と下って、ループ大橋を廻って陸中大橋駅構内のホッパー車の列の手前に踊り出たのだった。そほでは貨車の入れ替えの汽笛がきこえてくるし、鉱石の積み込みの音が断続的に響いてきて、活況を保っている釜石鉱山の活気に触れて安心した。そこで、朝飯を探しに15qほどやまを下って釜石市内に入って、朝の早い漁港へ向かった。何しろ仙人峠への登りのドライブが夜中だったので、その厳しさは感じられなかったが、釜石側の景色には息を飲む厳しさが感じられた。改めて朝飯を食いながら、地形図を眺め尚したのだった。この三陸海岸に沿って宮古から盛岡へ通じている先輩格の山田線に経緯を表して、少々様子を伺ってから陸中大橋のループ線の前後での撮影を試みた。
手始めに、民話の豊かな遠野盆地から初の西洋式製鉄の発祥のちである釜石への地形と峠について触れておこう。
先ず、釜石線が東北本線の花巻駅を起点に、遠野を経て釜石までを延長 90.2qで
東西に横断しているのが北上高地の中央部であった。この山塊の形は北から青森県八戸市附近から岩手県の東半分を経て、宮城県牡鹿半島に至る南北 約260q、東西最大 75qの紡錘形をした高原地帯であった。その山系の最高峰は、中央山岳地帯に位置している早池峰山(はやちねさん/標高 1,917m)であって、東西に1,400-1,800m級の山々を従えた早池峰連峰を形作っていた。その
早池峰山から谷を挟んだ南には薬師岳(標高 1,645m)があり、その東には磁鉄鉱などに恵まれた地域の山々の主峰である片羽山(標高 1,313m:雄岳)があった。この辺りが北上山系で最もけわしい地域であった。その地域の南側に遠野盆地が開けていて、その周囲は北に早池峰山・薬師岳を、北東には片羽山が、東には六角牛山(ろつこうしやま/標高 1,294m)、東南に五葉山(標高 1,351m)、西には石上山(標高  1,038m)、南には物見山(標高 870m)を取り巻く種山ケ原なのであって、標高が約1,000m前後の山々が盆地の縁となっているのであった。遠野の市街は花巻との境の北にある薬師岳の南麓に発し山地を南に流れる猿ヶ石川が盆地の西端を西留する所に開けている。この川は早瀬川、来内川などを合わせて盆地底部を作り、田瀬ダム湖の下流で、宮守川、達曽部川と合流し、花巻市で北上川に注いで消えている。この遠野の語源はアイヌ語の「TO(トー:湖)・NUP(ヌプ:野原)」であろうとされ、民話の遠野盆地は太古、湖の底だったと云うのである。この町は遠野南部氏1万2千石の城下町であって、内陸部と沿岸部とお結ぶ交通の要所であったから交易と宿場の町として繁栄していた。
ところで、三陸沿岸の釜石と北上高地の中の遠野の間の山岳地帯は、片羽山の雄岳を主峰に六角牛山、雌岳、大峰山(標高 1147m)、岩倉山(標高1059m)などの地域には良質な鉄鉱石に恵まれていた。当地では戦国時代以前から河原から砂鉄や餅鉄(砂利の状になった磁鉄鉱)を集めて「たたら」製鉄を行って南部鉄製品を作っていた。その後山中から鉄鉱石を発見し、それに加えて燃料となる木炭の原料である豊富な森林資源、送風装置の動力源となる水流などの条件が揃っていたことから、盛岡藩では慶応元年(1865年)の最盛期には大橋に3基を初めとして、橋野などを合わせて10基の西洋式高炉(溶鉱炉)を操業して年間3,750トンの銑鉄(せんてつ)が生産されて、日本初の洋式製鉄の発祥の地となっていた。
〈仙人峠付近の地図〉

出典: 峠物語・仙人峠の変遷・釜石維持出張所  


 次に遠野の町を通る昔の街道は、先ず西から、宮古街道(今の国道340号)が遠野から立丸峠(標高 789m)を越えて閉伊川水系の谷を下って宮古へ通じていた。次は遠野から大槌・宮古へ通じる最短ルートでもあった大槌街道が六角牛山の北麓を笛吹峠(標高 819m)で越えて橋野川(下留は鵜住居川)に沿って下って釜石へ抜ける道(現在の県道35号釜石遠野線)は遠回りではあったが仙人峠より楽であったようで、早くも1924年(大正13年)にはバス路線が開業している。この峠直下の標高 560mの山間には幕末の製鉄遺跡である橋野高炉が現存していた。次は、釜石街道(後に県道盛岡釜石線、現在の国道283号旧道はトンネル)が仙人峠(標高 887m)を越えるけわしい山道を下って、鉄鉱山で栄えた陸中大橋を経て、甲子川(かっしがわ)の谷を下って釜石へ通じていた。先ず遠野側からは、登り口の沓掛から峠頂上まで約2kmの危険な崖もある狭い急な坂道を登ることになる。続く峠から登り口である大橋までは標高差が約630mにもなる九十九(つずら)折りの約4kmの急な下り坂であった。その道程には3時間は費やしたといわれ、途中には湧水もない飲み水が乏しかった難路の峠越えであった。その後に遠野側から軽便鉄道が仙人峠駅まで開通したものの、旅客の峠越えは相変わらずの徒歩が強いられ続けられていた。
戦後になって自動車が全国的に普及してきたが、当時の釜石街道は県道に認定されてはいたものの仙人峠を自動車で越えることはできず、笛吹峠を越える大回りをしていた。このままでは釜石の発展のネックとなってしまうことを意識した釜石市民の間から仙人峠トンネルの開通を願う機運が高まってきた。実は当時の日鉄砿業釜石鉱山では鉄鉱石・銅鉱の探鉱のために仙人峠の導坑掘削に着手していたこだったが、道路トンネルの開通を望む市民の熱意に協力することに決めて、探鉱用の導坑掘削を道路トンネル開削事業に転ずた。これらを契機として、昭和33年に日本道路公団により「有料道路仙人トンネル取付道路」の工事が起工され、そこにはループ線を設けるなどの難工事の末に翌 昭和34年にはついに、全長2,528mの仙人トンネルを含む約10.2qの「仙人有料道路」が開通したのであった。その後県が譲り受けて県道として無料化し、現在は国道283号の旧道として現役である。
この他に世田米街道(現在の国道340号)が遠野から赤羽根峠(標高536m)を越えて、仙人峠の南にある高清水山(たかすずやま)を源とする気仙川に沿って住田を経て三陸海岸の陸前高田へ通じている。
 ここからは東北本線沿いから釜石へ向かう鉄道の歴史入ってしまうが、おつきあい願います。この釜石の地が近代製鉄の拠点として発展し始めた頃の1890年(明治23年)の末に、大宮から青森を目指して建設が進められていた日本鉄道の奥州線が内陸を北上して盛岡まで開通した。それまでの釜石との物資の交流は専ら近海航路の海運に依存していたので、地元では三陸海岸と東北本線とを連絡する鉄道の建設運動が高まった。
実は製鉄所が設けられた釜石側では一足早く1880年(明治13年)に巧部省釜石鉄道が軌間 838oの蒸気鉄道として製鉄所と鉱山のあった大橋間に開通していたし、それの廃止後も1884年(明治17年)から再び釜石鉱山馬車鉄道(軌間 76o)が引き継ぎ、1911年(明治44年)には
昔からの鉱石と木炭を運搬するための鉱山鉄道から旅客サービスも行う蒸気動力による地方鉄道となっていたのだったが、それより先の仙人峠を越えて花巻まで延伸する見込みはなかった。
そして、1892年(明治25年)になると、国が建設すべき幹線鉄道の予定線を規定した「鉄道敷設法」が公布されて、次の路線が予定線として規定された。
『一 岩手縣下盛岡ヨリ宮古、もしくは山田に至る鉄道』
そして、第一期建設線をさくていするためのルート調査が行われたが、北上山地を越えるけわしいちけいのためのルート選定の難しさに加えて、財政難から建設線への移行は見送られてしまった。一方の花巻や遠野の人々は花巻〜釜石間の鉄道を国に建設してもらおうとする熱意はそれほど高まらず、請願もしていなかったらしく、この法律には取りあげられていなかった。

ところが、明治四三年になると、政府では地方での鉄道の建設を促す目的で、鉄道開設の規格を引き下げ、申請の手続きも簡略にした軽便鉄道法、続いて資金を援助するための「軽便鉄道補助法」を公布した。
その頃の1911年(明治44年)には岩手県では花巻から製鉄の町 釜石とを結ぶ県営鉄道の建設も考慮の上での調査を始めたのだったが、実現しは至らなかった。それを受けて、民間の資本を集めて岩手軽便鉄道の建設の機運が盛り上がり、1911年(明治44年)に花巻-遠野-上郷沓掛(仙人峠の西麓)間64.8kmの762o軌間の軽便鉄道敷設の免許を早くも取得した。この鉄道は当時、大橋まで間開通していた釜石鉱山鉄道に連絡する予定であった。そして、花巻 - 仙人峠間は1912年(大正元年)に両端から建設が開始された。建設の途中で水害に見舞われながらも順次延伸して、1915年(大正4年)には全通した。この先は標高560mの仙人峠駅と標高254mの大橋駅との間の距離約 4qに対して標高差が 300 m あり、加えてその間には標高887mの峠があることから、鉄道の延伸には長大な仙人峠トンネル、それにループ線やスイッチバックなどを設ける必要とすることがあきらかになった。これらの建設費の負担に耐えられないことから、鉄道の敷設を断念した。その代わりに索道(ロープウェイ)により郵便・新聞などを含む貨物の輸送することとし、旅客は同区間約5.8kmの山道を徒歩連絡することとした。この大正3年に完成した索道は玉村式単線循環方式で全長3.6kmであって、その輸送能力は峠か→大橋へは 100t、大橋→峠へは 40tであった。一方の旅客は仙人峠駅からは峠まで★2.1kmを上がり、
そこから九十九折の急坂を大橋駅まで3.4kmを下った。合わせて2時間半から3時間かかる道のりの徒歩連絡であった。
やがて、この軽便鉄道の時速 15qと云う輸送力の小さなことが将来の発展のネックとなることを危惧した地元では、東北本線とを直通できる鉄道への格上げと、釜石への全通を願った請願が繰り返された。
しかし、政府は長らく予定線であった盛岡から宮古を経て釜石に至る山田線の建設を優先する方針であった。やがて地元の代議士の原敬(はらたかし)さんが1918年(大正7年)に首相となってから、ようやく山田線にも“陽”が当たるようになった。そして1920年大正九年)にやっと第1期建設予定線に格上げされた。そしてその後15年掛かった難工事の末に順次開通して1939年(昭和14年)に盛岡−釜石間が全通した。その後の盛岡〜宮古間は満員で座ることができない位の混雑振りとなり、釜石からの日夜を通しての貨物輸送も多忙となった。
一方の花巻−釜石間の鉄道について、政府は1927年(昭和2年)に公布した「将来建設すべき全ての地方路線を規定した新しい「鉄道敷設法」の中で次の路線を規定した。
『第8号、岩手県花巻ヨリ遠野ヲ経テ釜石ニ至ル鉄道』
そして、1929年(昭和4年)には現在の釜石線となる路線の着工が決定し、1936年(昭和11年)に岩手軽便鉄道が買収国有化されて、釜石線となった。
この時に索道も買収されて、国鉄史上唯一の索道営業が行われることになった。そして、その岩手軽便鉄道は軌間 762oであったため、1067 oへの改軌が順次実施され、1944年(昭和19年)までには花巻−遠野が完成した。
またこれと平行して仙人峠を越える鉄道の建設が始められた。国有化前に岩手軽便鉄道から国鉄へ依頼して行われた検討では、足ヶ瀬駅と仙人峠駅の間に金山駅を設置して分岐し、仙人峠の下を長いトンネルでくぐって東側にループ線を設置し、北進してスイッチバック式の甲子駅を設置、大きく南へカーブして釜石鉱山鉄道の路線に並行して南東へ進み、唄貝駅で合流するという路線構想があった。再検討の後、1936年(昭和11年)6月に実際に国鉄が1936年(昭和11年)に着工したのは、仙人峠駅の一つ手前の足ヶ瀬駅から分かれて、栗の木峠の下を足ヶ瀬トンネルで抜けて、一旦は釜石より南に位置する陸前高田で三陸海岸で太平洋に注いでいる気仙川流域に出た上で、上有住駅を設けて、再び仙人峠よりかなり南にある土倉峠(標高 787m)の下を土倉トンネル(全長 2975m)で抜けて、仙人峠東側斜面を下ってから、大きく北へ向かってオメガループのトンネルを建設して陸中大橋に至るルートであった。
一方の釜石側の釜石東線が釜石鉱山鉄道と並行して陸中大橋まで昭和19年に開通した。昔からの釜石鉱山鉄道は貨物専用線として残り、1965年(昭和40年)まで存続した。しかし、建設中の釜石西線では、残った改軌工事は太平洋戦争の激化のため、仙人峠の新線建設工事と共に中断された。この時点でかなりの部分まで路盤工事もできあがっており、新線区間の土倉トンネルも貫通している状態であった。
しかし、戦後になっても中断した工事は再開されなかったのは、山田線の全通、岩手県道35号釜石遠野線の笛吹峠(ふえふきとうげ、標高 819m)の開通があったからである。
ところが、1946年(昭和21年)に来襲した“キャサリン・アイロン台風”による風水害で山田線の平津戸−蟇目間が壊滅的被害を受けて長期不通となった。これを憂慮した占領軍司令部(GHQ)の指示により釜石線の早期開通が促された。やがて1948年(昭和23年)に工事を再開し、翌年に柏木平 - 遠野間の改軌が完成した。1950年(昭和25年)には遠野 - 足ヶ瀬間の改軌が完成し、足ヶ瀬 - 陸中大橋間が新線で連絡して昭和25年10月に念願の花巻-釜石間の釜石線が全通した。そして、釜石から内陸への貨物輸送のメインルートは山田線から釜石線に移った。山田線がC58しか入線できなかったのに比して、釜石線はD51が活躍したから輸送能力も格段に増強されている。
なおこの際、新線建設ルートから外れた足ヶ瀬 - 仙人峠間は軌間 762 mm のまま、仙人峠 - 陸中大橋間の索道と共に廃止されている。
一方の道路に目を向けてみると、現在の国道283号は仙人トンネルの釜石側4.6kmの区間は急勾配(平均勾配6.2%、最大勾配9.6%)、急カーブ(R<100:21箇所)があり、それに仙人トンネルは車道幅員5.1mの狭隘で、大型車同士のすれ違いに支障が生じている難所であった。この
ネックを解消する目的で広規格の「仙人道路」が旧街道の仙人峠から南方約4.5kmの山中を、新しい仙人トンネル(全長 4,485m)により一気に抜ける新ルートで、現在の国道283号に比べて、距離にして約7.5q、時間にして約35分の短縮となって開通させている。
さて、ここから釜石線の陸中大橋からの仙人峠越えの話に入ろう。釜石を出た列車はやがて西に向き尾変えて正面にそびえる片羽山(雌岳、標高 1291m)の麓に開けた釜石鉱山の拠点である標高約255mの陸中大橋を目指してV字谷を刻む甲子川に沿って勾配を登り始める。やがて洞泉駅を過ぎると左手の山肌を反対方向に登って花巻へ向かう線路が認められるようになる。さらに進んで釜石鉱山鉄道の線路を乗り越えるとホッパー車のひしめく陸中大橋駅の構内へ入った。先を急いで、この駅を出て北に向かった線路は半径250mのオメガカーブを構成する第1大橋トンネル(全長約2q)を抜けて、すかさず全長115mのトレッスル形式の)大橋橋梁で深い谷を一跨ぎして続いて第2大橋トンネル(第二大橋トンネル(全長 1.28q)を抜けた時には線路は270度方向転換して東をむいていた。
この間に標高差は35mほど稼いでいた。そして
仙人峠の東側に当甲子川の左岸の山肌の急坂を登って行く。左手の車窓の眼下には陸中大橋駅と数分前に通ってきた線路が見えるのは、正にオメガループを通って来た証拠である。この斜面の途中では深い支流の谷を全長103mのアンダートラス形式の鬼ヶ沢橋梁で渡ると、続いて唄貝トンネル群を抜け、その先は土倉峠(標高 787m)の下を抜ける土倉トンネル(全長 2,975m)が待っていた。この陸中大橋から上有住 間の7.6qの間で標高差 225mを越えるのは釜石線最大の難所であって、重量貨物列車には補機が出動していた。

撮影:昭和41年11月

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・〈“銀河鉄道の夜”と“洋式製鉄発祥”の里/釜石線〉シリーズへのリンク
285.遠野盆地の岩手軽便鉄道の追憶・釜石線/宮守〜仙人峠
286: 洋式製鉄発祥の谷・山田線 & 釜石線/両石-釜石〜陸中大橋