自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・「“銀河鉄道の夜”と“洋式製鉄発祥”の里/釜石線」
285.  遠野盆地の岩手軽便鉄道の追憶 ・釜石線 /宮守森〜仙人峠

〈「銀河鉄道の夜」の挿絵〉


900夜『銀河鉄道の夜』宮沢賢治|松岡正剛の千夜千冊 
http://1000ya.isis.ne.jp/0900.html

〈ボールドウイン製 bQ〉


〈客車〉
開業時の客車は大日本軌道鉄工部製造のイロ1-3とロ4-10であった


朝倉希一と高田隆雄と汽車の今昔 
http://ktymtskz.my.coocan.jp/asakura/kisya.htm
汽車の今昔 13:台車の問題

〈0001:レンガ アーチの宮守川橋梁・船坂さま撮影〉


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〈紀行文〉
 東北地方岩手県の盛岡の北方で運行されている東北本線のD51三重連を撮るために国道四号線をひたすら北上して、途中に通過する町々には目をくれずに盛岡まで一気に突っ走るのが常だった。ところが今度は無煙化を目前にした釜石線を訪ねるのが初仕事なので、寝静まった花巻の街並みに入ると花巻駅へ直交して一息入れたのだった。仙台バイパスを抜けて大崎平野を北上川に沿うようになると、右手に黒々とした北上山地が迫ってくるようになった。この山地は太平洋に面して青森県の八戸から宮城県の石巻辺りまで南北に 260q、東西に 75qの紡錘型の準高原をなしているのだが、この浜巻辺りに迫ってくる北上の山は、その中央山岳地域にある最高峰の早池峰山(はやちねさん)を取り巻いているけわしい山々が集まっていた。この内陸を北上している東北本線沿線と、日本の洋式製鉄発祥の地である三陸海岸に面する釜石とを直線的に東西に結んでいる鉄道が釜石線(前身は岩手軽便鉄道)であって、その起点となるのが花巻であったからである。花巻と聞けば、花巻温泉まで走っていた花巻電鉄の馬の顔のように縦長の馬面(うまづら)電車が、それに「雨にも負けず」・「銀河鉄道の夜」などの作者である宮沢賢治の故郷であることが浮かんでくる。ここでは岩手軽便鉄道にまつわる宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」との関わりを記した。
先ず掲載した写真のメモから始めよう。
そこで、「銀河鉄道の夜」をイメージさせる写真を探しても見付けることは難しかろうと思って、諸セ氏の挿絵(イラスト)を探すことにした。見付けた多くの作品の中から選び出したのは、「満点の星空の中を玩具(おもちゃ)のような小さなタンク機関車がバックでマッチ箱のような客車と貨車の混合列車を煙も吐かずに引いてゆっくり走ってきた姿であった。
この挿絵を見付けたのは、情報の編集工学の提唱で知られる松岡正剛さんが古今東西そのジャンルを問わず“名著”に値すると信ずる本を毎日一冊とりあげ、それに対する所感を3000〜5000字にまとめてウェブサイト上で次々に千夜にわたり発表する「千夜千冊」をアップロードしており、その中の第900冊に取りあげられた宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』(ポプラ社刊)の中に所載の一枚なのだが、挿絵画家の名前は判らずじまいである。ところで、この「千夜千冊」こそは現代の“ブック ナビゲーション”として20万アクセスの高い評判を得ているというのであった。この挿絵をよくよく眺めていると、天空に架かった鉄橋の上を渡っているように思われるのだった。
この「銀河鉄道の夜」は賢治が亡くなった昭和8年の病床でも推敲がおこなわれていたようで、未完の作品である。記録にあるのは1924年(大正13年)12月頃に宴会の席で友人たちに「銀河鉄道旅行」の草稿を語っているから、10年を越える制作が続けられていたのである。
この中の中核である「銀河鉄道の旅」は、銀河ステーションから始まる。この銀河ステーション、すなわち天の川に駅を作るという構想は「冬と銀河ステーション」、「岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)」などの詩の中にも見られることから、“鉄道”と“銀河の異なる二つのモチーフは賢治の心の中で密接に結びついていたようだ。
宮沢賢治の年表を見ると、1910年(明治44年)には15才の盛岡中学3年生で昔からの鉱物採集をつずけ、一法では短歌の創作を始めており、次のような鉄道を詠んだ歌がある。
『風ふけば岡の草の穂波立ちて遠き汽車の普もなみだぐましき (178)』
その翌年には岩手軽便鉄道が建設工事を始めている。やがて盛岡高等農林学校へ入学すると、休日は登山、鉱物標本採集に励んでいたとある。その年には軽便鉄道は花巻から遠野を経て仙人峠まで全通している。また、農林学校当時、土性調査のために花巻の東南に横たわっている物見山(標高 870m)を取り巻く標高 600から 800mのなだらかな種山ヶ原を訪れてから、この「種山ヶ原の星空」をこよなくあいするようになりしばしば訪れるようになった。今では賢治の心象的理想郷を表す「イーハトーブ」の風景地として国の名勝となっているほどである。
 さて、その挿絵に登場しているバック運転の機関車は岩手軽減鉄道が開業のために大正4年に南満州鉄道から購入した6輛のアメリカのボールドウイン機関車会社(BLW)で1904年(明治37年)
に製造された13t級、車軸配置 0-6-0(C形)のサイドタンク式機関車のようである。ここにはbQのポートレートを二枚目に掲げた。この機関車は日露戦争を前にして朝鮮半島を平癒して南満州鉄道沿線へ物資を輸送するための軍用鉄道の為に輸入され使われて居いたものが、戦後に南満州鉄道に移管されて標準軌へ改軌されたことから、軌間762oの軽便機関車は不要となり売却されて岩手の山里で余生を送っていたのであった。これと同時に購入された10輛の客車は大日本軌道鉄巧所製の2軸ボギー台車を履いた「ニロ」 1〜4と、「ロ」 5〜10であった。これらで編成された短い軽便鉄道の列車の姿は童話「銀河鉄道の夜」の原風景となったのであろう。
実際に、そのモデルになったのは花巻から遠野へ向かう中ほどにある岩根橋〜宮守間の達曽部(たっそうべ)橋梁であろうと云われており、その高い煉瓦積橋脚の上に掛けられたプレートガーターの長い鉄橋をゆっくりと渡っていた姿ではないかと言われているのだが、現在の姿は、その古い橋脚を包んでコンクリート アーチ橋へと昭和18年の改軌の際に改造されてしまっているから、銀河鉄道のイメージをたどることはできない。
そこで直ぐ隣の宮守−柏木平間にあって、国道283号と宮守川を跨いでいる宮守川橋梁が「銀河鉄道の夜」のモチーフになった場所の代役(?)として喧伝されるようになった。それは、国道283号からの展望も優れており、宮守駅からも近いこと、それに美しい高さ20mのアーチが5連も連なる全長107mのコンクリート アーチ橋(めがね橋)であったことと、それに加えて、アーチ橋の東側に煉瓦積みの古めかしい橋脚が3基も残っていることから、かろうじて賢治が生きていた頃のレンガ造りの橋脚に架けられた鉄橋を行く軽便鉄道の情景を想像する手がかりとなるからであろうか。
三枚目の写真は復活したD51498号による「SL銀河ドリーム号」が宮守川アーチ橋梁を渡っているショットである。これは船坂晃弘さまの「鉄道情景への旅」から転載させて頂いた。
http://homepage2.nifty.com/tetsudojokei/
(現在(写真の転載の許可を連絡なかです。)
さて、最後にこの釜石線にの駅には宮沢賢治が作品の中井多く登場させていた「エスペラント語」に親しんで、駅にはエスペラント語による駅の愛称が付けられている。例えば
宮守駅には「“Galaksia Kajo”:銀河のプラットホーム」となっている。
このエスペラント語は1887年にポーランドに住んでいたザメンホフが“エスペラント博士”のペンネームで発表した「世界語」であって、その目的は世界中のあらゆる人が簡単に学ぶことができ、すべての人の第2言語としての国際補助語をめざしたもので、現在100万人が使っていると云われている。私も昭和31ねんに大学のエスペラント研究会に出席していたことがあったので、60年振りのさいかいであった。

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・〈“銀河鉄道の夜”と“洋式製鉄発祥”の里/釜石線〉シリーズへのリンク
284. 仙人峠とオメガカーブ・釜石線/陸中大橋→上有住
286: 洋式製鉄発祥の谷・山田線 & 釜石線/両石-釜石〜陸中大橋