自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・北海道 夕張炭田の専用線を訪ねて
256.  運炭列車の通る炭住街 ・三菱砿業大夕張鉄道線 /遠幌駅付近

〈0001:30-47:SLの引く運炭列車が通る炭住の街〉
遠幌の住之江町の炭住のある風

〈0004:24−88:炭住のある風景〉


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〈紀行文〉
 大夕張を訪ねて泊まったのは大夕張駅前の旅館であった。閉山後僅か2ヶ月足らずしか経っていない宵闇の街へ散歩に出てみた。駅前大通りにはネオンの灯ひとつ見えず、ひっそりと静まりかえってしまっていた。哀愁を感じてたまらなくなり、宿に戻って直ぐに寝てしまった。
翌朝は一番列車の戻りを炭住街を点景に入れて撮りたいと願っていたので、朝食を急いで済まして、いったん清水沢まで戻ってから、再び沿線を一通り眺め直して見ることにした。
清水沢の街外れの踏切を過ぎ、線路は大きく左にカーブを切っている。右手に大きな構築物は北炭清水沢発電所で、白い煙を吐き出していた。この辺りは北炭清水沢炭礦の領域であった。清水沢ダムの水面を眺めているうちに、家並みが現れると清水沢起点4kmの遠幌駅となった。ここは昭和15年に木材積出のための停車場として開かれ、戦後になって北炭遠幌炭坑が発展して、客扱いと石炭積み出し駅となったようだった。踏切を過ぎれば、ダム湖が見えて、右へ折すれば清水沢礦の職員住宅街の住之江町が広がっており、左折すれば坑員住宅の並ぶ岳見町であった。この辺りが撮影ポイントになるだろう。
やがて、昨日撮った遠幌加別川を渡る道路橋が現れた。その右側の下流方向には、のぞき込むような深い谷に遠幌加別川橋梁が架かっていた。また、上流側の左側には下が煉瓦積みで、上の1/3がコンクリートで築かれた専用鉄道時代の立派な橋脚が谷底に二本残されていた。
橋を渡った線路は道道に沿って登って行くが、右手は炭住街、道路に面して商店が散在していた。やがて左手に北菱炭坑の炭住が現れると、側線があって石炭積込のポケット(ホッパー)の脇をすり抜けるように線路と道道が通り過ぎた。夕張川の対岸にはずり山(ボタ山)が見えた。
この先は昭和41年から新礦開発が進められている南大夕張礦の職員住宅や住住街が立ち並んようになるとり南夕張駅は近い。
  私が炭住(炭坑住宅)にこだわっているのには理由がある。その昔から炭坑の街と云えば木造の長屋が並んだ炭住の風情が眼に浮かんでくるからである。その昔、読んだことのある小説家 五木寛之さんの著作である長編小説「青春の門」や、写真家 土門拳の写真集「筑豊の子供たち」の舞台が強く印象に残っていたからであろうか。その懐かしい風景を求めて清水沢から遠幌の沿線を探し回った。
そして道道から坂を下って行くと、そこには炭住のメインストリートらしい所にに迷い込んだようだった。ここに暮らす人々の交流の場と云われる共同浴場の立派な構えの建物が眼に入った。それを中央に木造の長屋がハモニカのように並んでいたのだった。ここを前景にSL列車を狙おうとしたが、なかなか趣のあるアングルが見当たらなかった。そこで遠幌駅先を少し行くと住之江町の職員住宅街が現れた。その軒先(のきさき)をかすめるように線路が走っていたのだった。ここで列車の来るのを反対側から狙うことにした。やがて築堤を灰色の煙を吐いて登って来る下りの列車を捕らえた。一般の炭住とは少し趣を事にしているようで、ちょっと取り済ましたような一見煉瓦造りに見える煙突を従えた二階建ての二軒長屋の炭住が夕張川の河岸段丘の上に並んでいた。これもまた、北欧風の素晴らしい風情で、北海道らしいのではなかろうか。
 この撮影行から5年後のことだが、アメリカに出張するフライトの中で、「幸福の黄いろいハンカチ」(昭和52年・山田洋次監督作品)を鑑賞する機会に巡り会った。そして、清水沢の炭住のたたずまいが目に浮かんで来たことを、この紀行文を書きながら思い出しているのであった。
 撮り終わってから、昭和36年に完成した大夕張ダムにより生まれたシューパロ湖沿いの高台に開業したシューパロ湖駅へ向かった。ここは南夕張駅を出た下り列車が青葉トンネルを抜けでると、青々と水をたたえた細長いシューパロ湖の水面に夕張岳の偉容が映えると云う絶景の沿線なのであるはずなのだが、この夏に農業用水としての放水が多かったのだろうか、美しい湖面は干上がってしまい湖底は緑一色の草原に化けてしまっていたのだった。そこで撮影をあきらめて、午後の列車に乗ってシューパロ湖駅から清水沢駅を往復することにした。何故か、今日は誰もここへは姿を見せなかった。やがて、一両だけの客車に乗り込むと、「ダルマストーブ」の残り香であろうか、夏の終わりなのに石炭の香りがした。思い起こそうとしているのだが、乗った旧型客車が3軸台車を履いた二等食堂車のなれの果てである「スハニ6」だったかどうかは判らない。この時の運賃は初乗り40円、清水沢 - 南大夕張間が60円で日本一安価であった。

撮影:昭和48年九月

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・「北海道 夕張炭田の専用線を訪ねて」へのリンク
254. 最後の夕張炭の真谷地・北炭真谷地専用線
255. 廃業直前の三菱大夕張炭鉱鉄道・清水沢〜大夕張炭山