自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・北海道 夕張炭田の専用線を訪ねて
254.  最後の夕張炭の真谷地炭坑 ・北炭真谷地専用線

〈0001:31−23−6:北炭(真谷地鉱山の車庫前にて〉
元鹿児島本線であった人吉機関区から北海道で余生御送っていた
深い山々がけむっている。特徴の動輪と、背の高いドッシリした体型がいんしょうてきだった。

〈0002:33−bV2:真谷地炭坑の風景〉、昭和49年7月撮影〉
年産00万トンも運び出した石炭積み込み装

〈0003:31-21-4:夕張線清水沢駅に到着した三菱大夕張鉄道の運炭列車〉
昭和45年に北炭真谷地炭鉱を訪れた帰りのスナップ

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〈紀行文
 憧れの北海道へは何度も出かけていたが炭坑の専用線に近づく余裕がなかった。時が流れて昭和40年代の中頃になると、各地にあった炭坑の専用線が次々と廃線に追い込まれてしまい、気がつくと夕張炭田では夕張鉄道、それに
北炭真谷地専用線と三菱大夕張鉄道などに蒸機の煙が見られるだけとなってしまっていた。確か昭和46年ころだったろうか、北海道の夕張鉄道の鹿ノ谷機関区での冬の夜の情景や、積雪の錦沢駅の三段スイッチバックを行く運炭列車の風景を載せた探訪記事を大判サイズの季刊誌 「SL」で拝見してから、廃止にならないうちに出かけなければと考えていた。やっと思い立って丘珠空港行き夜行便のYS11に乗り込んだ。しかし、時は既に遅く、夕張鉄道はほぼ休止状態であった。むなしく国鉄夕張線をひと跨ぎしている鉄橋と、オメガカーブの辺りを物色してから、向かいの山すそにあったコースス工場の辺りで、時折立ち昇る白い煙を気にしながら引き上げた。
直ぐに、夕張選の沼ノ沢前から北炭の真谷地(まやち)炭坑にバスで向かった。運良く車庫の前で背の高いE型タンクの 5055号機関車が点検中の情景にお目にかかれた。そして、石炭積み込み場の辺りを一巡して、専用線を戻ってくる運炭列車の姿を捕らえようと専用線に沿って沼ノ沢へ向かった。
どうも初期の目的が達せられなかったためか、気分が乗らないまま沼ノ沢駅を素通りして、隣の清水沢駅前でバスを降りた。ここでは、やって来た三菱大夕張鉄道の運炭列車をスナップしたのを最後に、夕張の谷に別れを告げて急行バスで札幌へ戻った。
ここに掲げた三枚目の写真は清水沢駅へ下って来た三菱大夕張鉄道の運炭列車をスナップしたものである。特徴のある大夕張鉄道の9600型のスタイルが良く見て取れる。
 

ここからは、初めての夕張の谷への探訪なので、夕張の石炭のルーツと北炭 真谷地炭坑専用線について受け売りを試みた。この北海道内には石狩、釧路、留萌(るもい)、天北の炭田が数えられ、その中の石狩炭田は北海道の中西部の夕張山地の西側に広がり、その埋蔵量は約30億トンは日本最大である。それは石狩川支流の空知川流域から南北85km、東西30kmの帯状に続いている。その北部は空知(そらち)炭田であり、1857年(安政4年)、開拓初期の行政官であり探検家でもあった松浦武四郎さんが空知川沿岸に石炭の露頭を発見したことを石狩日誌に記していたし、明治6年に開拓使から北海道鉱山検査巡回を命じられた榎本武揚さんも空知川沿岸に石炭露頭ヲ発見、採取して分析シている。その後の明治12年には官営の幌内炭鉱が採炭を開始し、小樽港への石炭輸送の鉄道も開通し、空知炭田の幕開けとなった。
一方の夕張山地と空知山地にまたがる石狩炭田の南部の夕張炭田は1874年にお雇い外国人の地質学者 B.S.ライマンが夕張川の下流の河原で石炭鉱石を発見し、上流に大鉱脈の存在を予言した。明治21年(1888年)にライマン地質調査隊の随員であった坂市太郎さんがアイヌの人たちと共に既に採炭の始まっていた幌内から鉱脈をたどって夕張川資流の志幌加別川の上流の沢づたいに下って来て、石炭大露頭「夕張24尺層」を発見した。ここは今の夕張市北西部に当たっていた。その翌年には北海道炭礦鉄道(株)が創立、夕張炭鉱の開発に着手し、1892年には夕張炭鉱での採炭を開始し、石炭輸送の追分−夕張間に鉄道を開通させている。これが夕張炭田のスタートであった。
同じ明治21年(1888年)に 夕張市南部の二股(今の南夕張)の夕張川の川岸に15尺の石炭の露頭を発見したが、地形がけわしく輸送困難のため開発には至らなかった。その後しばらく経った明治39年になって福山坑が開かれ、二股に貯炭場が設けられ、石炭積み出し用の馬車鉄道の建設が始まった。これが大夕張地区での石炭採掘の始まりであった。
つづいて、南西部の夕張川支流のパンケマヤチ川・ホロカクルキ川の中上流部で明治38年(1905年)から石炭の採掘が始まった。この真谷地は、北炭夕張、三菱大夕張などと並んで、夕張を代表する大規模炭鉱の一つで、年産70万トン級の産出量を誇っていた。ここは最後の強粘結炭を産する密閉式立坑などとして技術的にも勝れていたのだったが、昭和62年(1987年)に閉山した。
 この夕張の石炭層は4〜5千万年前と云う石炭としては最も新しい年代に形勢された新生代古第三紀層の石狩層群の中にあり、この年代の夕張一帯はメタセコイアやニレ、カツラがうっそうと茂る湖沼地帯だったと云われ、15尺(4,5m)の石炭層が出来るためには約90mの厚さの植物遺体が堆積する必要があったであろうと云われている。海外では、この年代の石炭は炭化の進んでいない褐炭などが産出しレイルのに対して、夕張炭田ではより炭化の進んだ瀝青炭(れきせいたん)が産出しているのが特徴で、日本の地質の造山運動が激しいことを物語っていると云うのであった。その炭田の出来るまでのプロセスは、北海道の骨格をなす日高山脈が約5千万年前から起こっている千島列島前弧が北海道に衝突して生まれたた時にできた海洋地殻のしわのような非火山性のものが空知山地や夕張山地であって、その海辺に厚く堆積していた植物遺体をその造山運動によってり石炭かが促進されて、空知山地から夕張山地にまたがる石狩炭田を作り上げたと云うのである。それ故に、夕張山地の主峰の芦別岳(1,727m)、その南方に鉢盛岳(1,450m)、はるか離れて夕張岳(1668m)などを源とする水を集めて空知山地との間に谷を作って流れ下っているのが夕張側であるから、その沿岸で石炭の大露頭が発見されたのもうなずけよう。この石炭が製鉄用コークスの原料炭として優れた性質を発揮すると云う優れ者であったし、また昭和40年10月から2年間を常磐線の平−仙台間を寝台特急「ゆうずる」を牽引して走ったC62SLのための特別な燃料には夕張産の高カロリーで排煙の少ない良質な粉炭とピッチを混合成形した豆炭が威力を発揮したことも有名な語りぐさであると云う。北炭 真谷地炭坑では大正2年(1913年)に国鉄夕張線沼ノ沢駅から、東方へ大きなカーブを描いて真谷地炭鉱までの4.4kmを結ぶ専用鉄道線が開通した。その石炭輸送には昭和41年(1966年)まで国鉄機が乗り入れていた。あわせて、石炭列車に客車を連結し、「便乗扱い」で旅客輸送も実施しており、「沼ノ沢」、「真栄町」(6区)、「清真台」(5区)、「真谷地」の乗降場が設置されていた。その後自前の蒸気機関車をうんようすることになり、私の訪れた昭和45年ころには次のようなラインナップの蒸気機関車であった。
背の高いE型のタンク機関車は次の2両が在籍した。
5055号:三菱砿業美唄炭山専用線が三菱重工業へ自社発注して、1919年に三菱造船所で建造された製車軸配置0-10-0(E)形過熱式タンク機関車であって、国鉄4110形と同形機とされている。昭和40年(1965年)に三菱鉱業美唄鉄道 3号機を譲受けて改番仕手使用した。昭和46年(1971年)に廃車されて、9600形に置き換わった。
5056号:1917年、川崎造船所製車軸配置0-10-0(E)形過熱式タンク機関車で鉄道省4142号で奥羽本線板谷峠で活躍していた。昭和41年(1966年)三菱鉱業美唄鉄道 4142号を譲受けて、改番仕手使用した。昭和44年(1969年)に廃車されて、9600型に置き換わった。
その後に入線したのは夕張鉄道で活躍した旧国鉄の9600型で次の2両が在籍した。22号:1915年、川崎造船所製車軸配置2-8-0(1D)形過熱式テンダー機関車の旧国鉄9682である。昭和44年(1969年)夕張鉄道 22を譲受けて使用した。
1975年廃車。 
24号:1914年、川崎造船所製車軸配置2-8-0(1D)形過熱式テンダー機関車で、旧国鉄9645号である。昭和46年(1971年)夕張鉄道 24を譲り受けて使用した。
 この4110型機関車は奥羽本線板谷峠、鹿児島門線(今の肥薩線)の矢岳越えの急勾配専用の機関車として、ドイツのJ.A.マッファイ社で明治45年(1912年)に製造された4100型を原型にして大正3年(1914年)から川崎造船所で製造増備されたタンク機関車であった。その特徴を列記すると、その軸重が約13tで車体長を最小にして、最大の粘着性能を得るため車軸配置が0-10-0、先従輪を持たず動輪を5軸のE形機であった。そして曲線通過を容易にするため主動輪である第3動輪をフランジレスとし、さらに第1・第5動輪には枕木方向に25〜30mmの横動を許容する「ゲルスドルフ式動輪遊動機構」を採用していた。それに動力を伝達するサイドロッドも第1・第2動輪間と第4・第5動輪間に関節を入れて分割し、第1・第5動輪について大きく横動・上下動が可能とする方式を採用している。
原型の4100形では動輪の間に幅の狭い火室を設けていたから、日本の狭軌では幅が狭くなり、火室の長さが長く投炭に苦労した上、石炭の質がやや低いことから火力の面でやや制約があったことを改善するため、急勾配用機関車は動輪径がさほど大きくないために、ボイラー中心高を上げて動輪上に火室を設ける「広火室」を採用した。これによりボイラー中心高を上げたから車両の重心を上げることにもつながったので、水槽の一部を
ボイラー下部に設けて重心の上昇を防止している。これにより火室を広げ蒸発能力を向上した効果により、動輪周上出力は890馬力となり、同時期の新鋭貨物機であった9600形を上回っていたと云う。
現存公開されているのは、同型機である美唄鉄道 2号機が、美唄市東明 旧美唄鉄道東明駅跡に保存されているのみである。


撮影:昭和45年ころ、昭和49年7月。

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・北海道 夕張炭田の専用線を訪ねて
255. 廃業直前の三菱大夕張炭鉱鉄道・清水沢〜大夕張炭山
256. 運炭列車の通る炭住街・三菱砿業大夕張鉄道線/遠幌駅付近