自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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・北海道 夕張炭田の専用線を訪ねて
255.  廃業直前の 三菱大夕張炭鉱鉄道 ・清水沢〜大夕張炭山

〈0003:bQ489:遠幌加別川橋梁を行く(カラー)〉
大夕張炭鉱の閉山後もかろうじて運行されていた旅客列車のスナッ

〈0004:3048:遠幌加別川鉄橋を渡る8号機関車〉
鉄橋の橋脚と橋桁の構造に注目してください。テッ

〈0005:31-12-2:閉山2ヶ月後の大夕張炭山駅構内:昭和48年9月撮影〉
戻って来た八号機は脇の方にある機関区で駐泊の体制に入っていた

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〈紀行文〉
 毎年のように北海道へSL撮影に出かけていたのだったが、一向に石炭鉱山の専用線を訪ねようとする機会が訪れなかった。随分たってから、三菱大夕張炭坑の閉山が近いとのニュースを耳にして、これは遅れてはならじと、昭和48年の初秋にあわてて北海道へ飛んだ。空港で買った「道内時刻表」の索引地図をめくって、私鉄を表す青色のラインの存在を確かめて一安心した。そこには「三菱大夕張炭鉱鉄道線」ならぬ“三菱石炭鉱業大夕張鉄道線”と名が変わっていたのには驚いた。すぐレンタカーを駆って、北海道で最長の国道である国道274号(札幌−標茶)で長沼町へ出て、ここから北海道道116号夕張長沼線で清水沢駅前に付いた。早速、三菱石炭鉱業大夕張鉄道線の時刻表を確かめると、今日の最終の大夕張炭山へ戻る列車が撮れそうだった。そこで、手っ取り早く列車が狙えそうな道道沿いの遠幌加別川橋梁でショットを試みた。これが一枚目のしゃしんである。このてっきょうについての説明は末尾に述べてあります。
そして、昭和37年になってやっと大夕張まで開通したと云う開拓道路である北海道道739号鹿島清水沢停車場線で夕張川の谷をさかのぼって大夕張の町を目指した。このの終点である大夕張炭山駅は閉山してしまった大夕張工業所の入り口にひっそりと建っていた。先ほど撮ったばかりの列車は駅には姿はなかった。その奥に広がるヤードには群がるようにたむろしているはずの石炭車セキや、この駅常備のメタノール輸送用タンク車タキ5200形などの姿もなく、ただ錆び付いた何本かの側線と、石炭積み込み線が石炭積み込みポケットの収まっている堂堂とした石炭積み込み場の建物の中へと吸い込まれていた。この物音の全く消えた側線の一角に放心したようにしばらく立ちつくしでいたが、気を取り直してやっと閉山直後の風景を一枚だけ撮り収めた。
この積み込み場の右手に鉄道課事務所と、機関車庫、転車台などが揃っており、残って稼働していたのは先に撮った8号機だけで、既に事務所の脇の側線に頭を突っ込むようにして憩っていた。そのカマのぬくもりを確かめてから別れを告げて引き上げた。ここの大夕張炭鉱は閉山したが、れっきとした地方鉄道である三菱石炭鉱業大夕張府鉄道線は最小限の旅客サービスとしての二往復の旅客列車を運行しながら、鉄道営業廃止許可の出るのを待っているところであった。
大夕張の閉山後に採炭の拠点となった新開発の南夕張炭坑からの石炭の積み出しと、旅客列車は新鋭のDLが担当していたようであった。
  山奥の秋の日暮れは早く、明日は旅客列車に乗ってみようと考えながら、大夕張駅前の旅館に泊めてもらった。泊まっている人は私だけで、街は死んだように人気のざわめきが感じられなかった。
ここは夕張市の中心から東、夕張岳の麓に分け入った夕張川の最上流部の右岸に広がる河岸段丘の上に出来た炭鉱街であった。昭和4年からの三菱大夕張炭鉱の発展と共に歩んで来た街なのであった。その一時期には、人口が二万人を越え、山間にありながらも学校、商店、銀行、生協、炭鉱病院や映画館などの立ち並ぶ活気にあふれた街だったのだった。当所は外部に通じる道路がなく、昭和37年に開発道路が通じてバスが運行されるまでの間、三菱大夕張鉄道が唯一の交通手段と云う陸の孤島であったればこそ、何でも揃っていた楽しい町であったようだ。今や炭鉱閉山に続いて、巨大な夕張シューパロダムの完成が近づいており、やがてダムの底に沈み、地図から街が消えてしまうことだろう。
ここでお目に掛けた写真は閉山2ヶ月後の大夕張炭山駅構内の風景である。
★以下は真谷地へ移した。
二枚目は、その昔、昭和45年ころに夕張鉄道と北炭 真谷地専用線を訪ねた時、国鉄清水沢駅へ下って来た三菱大夕張鉄道の運炭列車をスナップした時のものである。特徴のある大夕張鉄道の9600型のスタイルが良く見て取れる。

 さてここからは大夕張での炭坑の発展の経緯を述べておこう。大炭田地帯である夕張川の谷の中でも、東側の大夕張地区に有望な鉱床が見つかったのは明治21年(1888年)と遅かった。それは二股(今の南夕張)の夕張川の川岸に15尺の石炭の露頭を発見したのだったが、地形がけわしくて輸送困難のため開発には至らなかった。しばらく経った明治39年になって、京都合資会社が福山坑を開いて、二股に貯炭場を設けた。
実は、それまでに夕張の谷では、明治7年(1874年)にお雇い外国人の地質学者である B.S.ライマンが夕張川の下流の河原で石炭鉱石を発見し、上流に大鉱脈の存在を予言していた。次いで明治21年(1888年)にライマン地質調査隊の随員であった坂市太郎さんがアイヌの人たちと共に、既に採炭の始まっていた幌内から鉱脈をたどって夕張川資流の志幌加別川の上流の沢づたいに下って来たそして石炭の大露頭「夕張24尺層」を発見した。ここは今の夕張市北西部に当たっていた。その翌年には北海道炭礦鉄道(株)が創立され、夕張炭鉱の開発に着手し、明治25年(1892年)には夕張炭鉱での採炭を開始した。その産出した石炭を室蘭に輸送するため同社の室蘭線の通っていた追分駅まで夕張から清水沢を経て夕張線が開通していたのであった。そこで、直ちに二股−清水沢 間の馬車鉄道の建設が始められた。けわしい地形のための難工事の末に早くも明治40年8月に開通した。この路線は延長5哩40鎖の軌間 2呎6吋の単線で、途中の遠幌加別川には吊橋が架けられ、葡萄山(ぶどうやま)の断崖には片橋で難所を通過していた。掘り出された石炭はトロッコ5輛に石炭 22トンを積んで搬送されていた。そして、この馬車鉄道に替わる専用鉄道線の敷設免許を得て、建設工事が進められていた。その後、明治42年9月に社名が大夕張炭砿(株)となり、明治44年(1911年)6月に 大夕張炭礦(株)専用鉄道の 清水沢-二股(後の南大夕張)間 7.6kmが開通し、国有化された夕張線に接続して鉄道院運転管理の下で開業した。
この専用線建設には二つの難工事があった。その第1は、延長 137mの葡萄山トンネの掘削と煉瓦積み工事であった。これは曲線トンネルとして東西両側から掘り進めたものの、測量の不手際から中央結合部での中心が一致しなかったので、無理に工事を進めたので線形がSカーブとなってしまったと云うのであった。その第2の難工事は、私が列車を撮った遠幌加別川の深い谷間への架橋工事であった。それは架橋地点として予定していた馬車鉄道の吊橋が撤去寸前に急遽、人道として残すことに決まった。そのため、
吊り橋の上流に並行して架けることに変更したから、橋梁の前後の線路はカーブとせざるを得なくなると云う不足の事態が起こったことであった。
やがて、大正7年4月になると、採炭事業の一切の権利を譲り受けて、三菱鉱業(株)が設立された。新会社はすぐに北部開発のための調査に踏み出した。その一環として、北部からの鉄道ルートの立案が進められた。その第一次案には北部から万字へ抜ける鉄道であったが、急勾配のため廃案となってしまった。次の第二次案である「通洞ルート」が大正8年に提案された。これは既に開業している終点の二股駅から夕張川本流をさかのぼり、通洞を経て北部坑に至るものであったが、工事着手には至らなかった。その後、大正10年ころに第三次案としての新ルートが提案された。それは、現在の遠幌駅附近から遠幌加別川をさかのぼって、北部坑の鹿島沢附近に達するルートであったが、全線が25‰の急勾配であり、それに全長 800mのトンネルを初めとする多くのトンネルを掘らねばならなかったことから懸案となっていた。やがて大正12年になると、再び第二次案の「通洞ルート」の実地測量が再開されたのであったが、関東大震災の発生のため中断させられてしまった。そして大正15年8月に北部開発計画が再開された。次いで昭和4年(1929年)になると会社名が三菱大夕張炭鉱(株となり、北部に採炭事業の拠点を移すことが決定した。そして専用線の延伸が第2次案で着工した。その年の1月22日には 今までの二股駅を南大夕張駅に、北部駅を大夕張駅に改称している。そして6月1日には南大夕張〜通洞間 9.6kmが開業すると云うスピード振りであった。
この間の主な構築物としては、
トンネルでは吉野沢とんねる(明石町−農場前)、青葉トンネル(南夕張−シュウパロ湖)があった。それに橋梁は右岸から夕張側に流れ下る多くの沢があって8箇所に鉄橋が架けられた。この建設工期を短縮するために、鋼トレッスル橋脚を持ったトラスド・ガーダー形式(上弦材の華奢なIビームをトラスのパネルが補強する)を比較的長い6箇所の橋梁に採用した。詳しく云えば、プレートガーターをトラスで補強したスパン 48フィート(14.6m)の上路プラットトラスと、19.6フィート(6.0m)のプレートガーターとの組み合わせの桁で構成していた。
特にこの中で唯一現存(2010年)している旭沢橋梁(明石町−千歳 間)は目もくらむような深い谷間に架かる全長  72.3mの6連のうち4連がトラスド・ガーター桁で、弦材のIビームをトラスのパネルが補強しているのが目立っていた。それに山陰本線の餘部鉄橋で知られる鋼トレッスル橋脚を採用しているのが特徴と云えるだろう。この製作は横河橋梁製作所が行っていた。
それに、大夕張より更に奥地まで、また遠幌加別川沿いにも支線が計画されていたようだが実現には至らなかった。
そして、北部開発が順調に進み、輸送力増強が求められるようになった。そこで葡萄山トンネル前後の急勾配を解決する目的でトンネルの廃止することになり、昭和8年10月から工事に掛かった。その最中に、軟弱な土質を切土のためとんねる中央部約49mの煉瓦積みがが崩壊して不通となってしまった。急遽、夕張川岸の断崖に枕木桟道を作り迂回線を完成させて復旧した。この間は出炭は抗外貯炭として操業を継続けたと伝えられている。その後、昭和9年になって
前身である大夕張炭砿(株)専用鉄道が清水沢−二股(今の南夕張)間を開通させた明治45ねんに遠幌加別川に架けた鉄橋の橋台に亀裂が発見されたのであった。特急で架け替えお行うことになった。そこで昔馬車鉄道の吊橋が架かっていた下流の地点に昭和9年に着工し、その翌年に開通させると云う超スピード振りであったこの架け替え工事のため、従来の鉄橋の前後にあったカーブが取り除かれたのは幸いであったようだ。この件に付いては次のサイトに詳しく述べています。このように昔開通した専用線の鉄道建設には多くの技術的な未熟さが潜んでいたようである。
そして、昭和13年(1938年)に通洞駅を大夕張炭山駅に改称し、翌年の4月には清水沢〜大夕張炭山間17.2kmを専用鉄道から地方鉄道に変更した。これにより、沿線他社の炭坑群の石炭の他、副産品のコークス、メタノール、そして夕張岳山麓の森林鉄道から運び出される丸太材などの輸送、それに加えて沿線住民のための旅客サービスなどの営業を行うことになった。ただ、大夕張−大夕張炭山間は貨物営業のみであった。
この大夕張炭坑では優良な製鉄用コークス原料炭を産出していて、最盛期には年間90万トンの瀝青炭を産出した。その他に、現地でのコークス製造、それに炭坑坑内ガスに含まれるメタンガスを原料としてメタノールを合成する工場が昭和34年に完成し製造を開始した。それに合わせて私有貨車としてメタノール専用のタンク車タキ14両が大夕張炭山常備となった。そして
自営運行、地方鉄道化後は、9200形、9600形、C11形SLが混合列車や貨物列車の牽引に活躍したが1973年(昭和48年)には、国鉄DD13形に相当する社形DL55形が導入された。これにより日本の私鉄で旅客営業に蒸気機関車を用いた路線はここが最後となった
そして、昭和65年(1990年)南大夕張炭鉱閉山となってしまい大夕張の歴史に幕をおろしたのであった。
 さて、最初にお目に掛けた遠幌〜南大夕張間の遠幌加別川橋梁を渡る8号機の牽く旅客列車の写真についてです。
本来なら、長く連結した空車のホッパー車の最後尾に二輛か3輛の客車を連結した混合列車であったはずなのだが、いまはそれも消えてしまっていた。この8号SLは力をもてあまして安全弁から蒸気を噴き出していた。
対岸の丘には牧場の小屋のような建物が遠望された。この頃の秋の陽は早く低くなるようで、ヘッドランプのガラスが鈍く陽を反射しているようだった。
私の撮ったアングルでは大変判別が難しいようだが、鉄骨製のトレッスル橋脚が2本くらい見えており、その上に架けられた橋桁はいささか異様に見えるのが特徴であるとのことであった。実はこの鉄橋は3台目なのであった。その一代目は馬車鉄道の吊り橋であり、その二代目は上流側に立派な橋脚を残している前身の大夕張炭砿専用線の鉄橋である。
この鉄橋は馬車鉄道に替わって専用鉄道が清水沢−二股(今の南夕張)間に開通した明治45年に架けられた古強者(ふるつわもの)であった。
そして時代がくだって、専用線が北部の通洞(今の大夕張炭山)へ延伸して、運ばれる石炭の量も益々増加の一途をたどりつつあった昭和9年になって、この橋脚に亀裂が発見されると云う不測の事態が起こった。
そこで急遽(きゅうきょ)、新たに3代目の鉄橋に架け替えお実施することとなったのである。その架橋の地点は、かって馬車鉄道の吊り橋が架かっていた下流の場所が選ばれて、昭和9年に着工して翌年には完成させると云う突貫工事振りであった。
この単軌落成を目指すため、橋梁の形式には、昭和4年に専用線が大夕張炭山へと延伸する際に6箇所の深いたにに架けられた鉄橋に共通仕様として使われた方式が踏襲された。それはこの延伸工事も突貫工事であったからである。
それは「トラスド・ガーダー桁」と呼ばれる、上弦材の立派なIビームをトラスのパネルが補強すると云う構造の桁であった。この桁をスパン長さ 14.6mの上路桁として、鋼トレッスル橋脚の上に架けた形式であった。この橋脚は山陰本線の餘部鉄橋で使われていることで有名だが、工期を短縮するには都合の良い方式として採用されていたのであった。ともかくこのような組み合わせの橋梁は大夕張だけの珍しい鉄橋なのである。
 さて、ここで大夕張鉄道の沿線には、この他にも、世界でも希な貴重な橋梁が意向として残っているのを付け加えたい。残念ながら私は現地を訪ねる機械を失ってしまったので、全くの受け売りに終始している。
この南夕張駅を起点にする下夕張森林鉄道が接続して夕張川左岸の豊富な丸太材の積み出しを昭和39年ころまで活発に行っていた。その支線である夕張岳線には日本で唯一の貴重な鉄道橋が二箇所にあった。その第1は1号橋梁で、下弦材二本に対し上弦材を一本しか持たず、四角錐を連結したような独特な構造であることから“三弦橋”とも呼ばれている下路ワーレンとらす橋である。戦後の鋼材不足の時期に工夫された形式であって、運材レッキャだからこと可能なのであろう。世界にもドイツに例があるだけとの珍しい構造である。
その第2は5号と6号の両橋梁に使われている軍用可搬組立式重構桁(じょうかまえけた)”の上路ワーレントラス橋であって、旧陸軍鉄道聯隊の制式 JKT(重構桁鉄道橋)である。これは電気溶接構造の長さ3mの二等辺三角形のトラス部材をピン結合で連続的に組み合わせて作るるトラス橋であった。
この形式の材料が利用されているのが、大夕張炭山より林道を更に奥に進み、分水嶺近くの夕張川に掛かる小巻沢林道橋として現役の道路橋が現存している。
これらは将来完成するシューパロダムの湖底に沈んでしまう運命にあるようだ。詳細については次のwebをご覧下さい。
・「重構桁鉄道橋の最期」
〈http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/library/others/jyukama.html〉
・歴史的鋼橋: T5-164 第六号橋梁  
〈http://library.jsce.or.jp/jscelib/committee/2003/bridge/T5-164.htm〉
・三弦橋に付いては多数のHPが検索出来ますので省きました。
 最後に、現在は南夕張駅跡にに三菱大夕張鉄道保存会が貴重な鉄道遺産の保全に努力されている。
 末尾ながら、このシリーズのサイトに掲げた写真についてのご示唆を同保存会の会長であられる奥山道紀さまから頂いたことを申し添えて感謝を表します。
・三菱大夕張鉄道保存会(会長 奥山道紀さま)
〈http://www.geocities.jp/ooyubari_rps/〉

撮影:昭和45年&昭和48年9月

参考文献:
・「三菱大夕張鉄道(山史、
山史年表)」
〈http://club.pep.ne.jp/~shuparo/〉

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・「北海道 夕張炭田の専用線を訪ねて」へのリンク
254. 最後の夕張炭の真谷地・北炭真谷地専用線
256. 運炭列車の通る炭住街・三菱砿業大夕張鉄道線/遠幌駅付近