自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp
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252.  生野峠を登るC57重連 ・播但線 /長谷−生野−新井

〈0001:24-9-7:吹雪模様の市川渓谷を登るC57客レ〉
播但線・長谷→生野:昭和47年1

〈0002:31−27−3:生野峠を目指して力走するC57重連客レ 1〉
前補機は白煙、本務機は黒煙。縦位置。
播但線・新井

〈0005:生野峠への重連旅客:bP123の3:カラースライド〉
前補機が鉄橋の上、白煙+黒煙。縦位置です。


〈0003:31-8−3:生野峠を目指して力走するC57重連 2〉
前補機は白煙、本務来は黒い煙。鉄橋の上。
播但線・新井→生野

〈0004:bQ70711:C57重連客レ力走 3〉
本務機が鉄橋のうえ。



〈撮影メモ:昭和46年1月15日撮影〉
新井−生野間のお立ち台には何度撮りに来てもあきなかった。
その中でも最良の核力シーンといえるだろうか。
「わが国鉄時代」に掲載された。

〈0006:bQ071の6:峠へ向かう重連、杭掛け稲干し。カラースライト〉
縦位置。
重連、杭掛け、カラー。。縦位置。



機関車二台だけ。黒い煙。

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〈紀行文〉
SL撮影にも多少の余裕ができてきたのであろうか、録音にも興味を持つようになっていた。それはアメリカ出張の帰えりの途中で、カリフォルニア州のサンディゴの鉄道模型店に立ち寄った時にサドルタンク式BタンクSLの模型と共に買って来たのが『雷鳴の下の蒸気機関車』の標題が付いた高忠実度録音のLP磐レあった。これを聞いてから私も録音をやってみたくなり機会を手に入れた。そして峠超えを狙ってあちこちに出かけて写真とテレコの「二足のわらじ」を履くはめになった。その手始めが小海線の小淵沢辺りだったり、陸羽東線の中山峠、花輪線の竜が森であって、やがて関西本線の加太峠(かぶととうげ)から播但線(ばんたんせん)の生野峠へへと峠巡りとなってしまった。この“生野”と云えば、は何と云っても戦国時代から知られた生野銀山の華やかなイメージが漂って来るから不思議であった。そこは“生野峠”へ向かう狭い谷間にこだまする旅客列車を牽引するC57のドラフトのサウンドに魅せられて、何度も飽きずに訪ねたのであった。ほどなくして再び「撮り鉄」一本に戻った。 
そう云えば、播但線の走る兵庫県は本州唯一の太平洋(瀬戸内海)と日本海を縦断する珍しい県域を持っていた。その播但線は兵庫県の西半分お走って山陽と山陰を結ぶためには、その中間に存在して、その行く手を阻んでいる中国地方を東西に横たわる中国山地を越えなければならなかった。そこを克服するには、瀬戸内海側の市川水系に沿ってさか登って、大分水界である生野峠の鞍部を越えて、日本海側の丸山川水系沿いを下って行く経路を急な勾配とカーブの連続と、多くの鉄橋を架け、とトンネルを通関させていた。その昔から、この南側の地域は播磨(はりま)、または播州(はしゅう)と呼ばれる国であり、北は但馬(タジマ)の国であったから、この両国名の頭の一字を採って播但線と名付けられているのだった。
先ずこの鉄道を語るには、何としても中国山地の山奥に栄えた生野銀山の話から始めることにしよう。この生野銀山は平安初期に銀が見つかったとの伝承があり、室町時代の天文11年(1542年)に但馬守護職に任じられていた山名祐豊(やまな すけとよ)が僅かながら銀石を生野峠で発見したことが始まりとされている。その20数年後には自然銀を多く含む日本最大の鉱脈の存在を発見し、銀を採掘する(あな)を開いた。それからは生野銀山を巡る激しい争奪戦が繰り返された。時代が下がると、先ず織田信長が手中とし、し次いで豊臣秀吉がこれを受け継ぎ、関ヶ原合戦を経て徳川家康の直轄となり、但馬金銀山奉行(たじまぎんざんぶぎょう)に命じて経営に当たらせた。その最盛期には月産150貫(約562kg)の銀を産出して長らく江戸幕府の財政を支えた。明治になって政府直轄の官営鉱山として、フランスからの技術導入を行い、日本の近代化鉱業の模範鉱山・製鉱所の確立をめざした。やがて、その使命をはたしたことから、明治29年(1896年)に私企業の三菱合資会社に払い下げられ、以後、三菱の経営で国内有数の大鉱山として昭和48年(1973年)まで稼働してきた。開山以来掘り進んだ坑道は350kmの長さにたっし、その深さも約880mの深部にまで発掘が行われた。そこで採掘した鉱物は黄銅鉱・閃亜鉛鉱など約70種におよんでいる。また、2007年には近代化産業遺産、および日本の地質百選に選定されている。
 この生野銀山で採掘・精練された粗銀の延べ棒やその他の精鉱石などは但馬街道(生野街道)を牛馬の背により下って瀬戸内の飾磨(しかま)港から京阪へ積み出されていた。やがて明治9年(1876年)になると、水田より60cm高い土手を作り、一番下に粗い砕石を敷き、その上に細かい石、さらに砂を並べて固めたフランス式道路舗装で築かれた「生野鉱山寮馬車道」(銀の馬車道」が約49kmにわたって開通して、その輸送力は格段と向上し、そのコストは1/8までと節減すると云う経済効果をもたらした。
やがて鉄道の時代が近づいて来て、明治20年(1887年)ころには、軍港の建設が決まった舞鶴を目指す鉄道としての播但鉄道が飾磨港から生野を経て福知山から、舞鶴に至る鉄道敷設免許の申請を行ったが、計画が不充分との理由で却下されてしまっていた。それと同じ頃、別の地元有力者たちが「銀の馬車道」に替わる馬車鉄道を飾磨みなと〜生野 間に敷設する願を知事に提出した。その2年後には、その動力を馬から蒸気機関車に変更する願と、あわせて瀬戸内の人々が日本海岸に面した城崎温泉へ湯治にでかける足となる路線として生野から豊岡をへて城崎に至る路線延長免許の申請も行った。そして飾磨港−姫路−を生野 間の免許を得て播但鉄道を設立した。その翌年春に着工して、明治28年(1895年)には開通させた。その後続いて生野から先の工事に着工したが、この区間は途中に生野トンネルの難工事を乗り越えるのに資金を費やしてしまい、明治34年(1901年)に新井まで開通したところで、ここを終点として、その先の城崎までの敷設免許を返上してしまった。その2年後の明治36年(1903年)には山陽鉄道が全線を譲り受けて播但線とした。次いで新井から先の工事を再開し、明治39年(1906年)には和田山まで延長開通したのだったが、その年の内に山陽鉄道が国有化されてしまった。しかし、国鉄ではまもなく
播但線を和田山から西へ豊岡を経て城崎まで明治42年(1909年)に延長開業した。その後も播但線の支線として西へ香住まで、東に福知山まで開通させて、豊岡に機関区を設けた。やがて山陰本線が編成されると、播但線は再び飾磨港−和田山 間に短縮されて、名実共に陰陽連絡線となった。この時に豊岡機関区の和田山機関支区が設けられて播但線を担当することになった。
この播但線のような山越えの急勾配線区ではD51に代表されるD形機が用いられるのだが、路線規格の低いことから、止むを得ずC型の旅客用機関車が昭和47年(1972年)10月の無煙化まではC51→C54→C55→C57が使用されてきたそれに、生野峠を越えるための25‰の急勾配区間での貨物列車にはC57を補機として使っていた。
その昔、昭和34年(1959年)4月6日に、福知山区のC54が7輌編成の団体臨時旅客列車(換算:21輌)を回送するため逆向き牽引で福知山を出発し、和田山経由で運行中、停車予定の生野駅をそのまま通過し、下り勾配で加速しながら真名谷トンネル付近で脱線し、機関車は転覆大破、客車も4両が転覆し、1両が脱線して、機関士と機関助士が殉難した事故が発生し、真名谷トンネル列車脱線転覆事故として知られている。この時通過した生野トンネルの断面が比較的小さいことが蒸気機関車の運転の際の煙害を助長していたことが指摘され、旅客列車でも一定両数以上の列車については補機を付けた重連運転が行なわれるようになった。この事故が、その後に開発中であったデイーゼル機関車を優先的に配属させようとする要因になったようだ。実際に、昭和35年(1960年)には国鉄発の量産であるDF50型ディーゼル機関車(軸配置B−B−Bの電気式)が導入されていたが、まもなく昭和44年(1969年)からは赤いDD54型DL(軸配置B-1-B の液体変速機式)に置き換わったが、複雑な機構のため故障が多く不評であったようだ。
このシリーズでは沿線を、「生野峠」、「和田山機関支区と二つの城痕」、「C57三重連」の3回に分けてお目に掛けたい。
 先ず、ここでは生野峠の下を抜ける生野トンネルを挟んで15.2〜25.0‰の急勾配が14.6kmも続く長谷(はせ(−生野−新井の間で撮った写真に添えて、その沿線の風物詩の素描を試みた。
 この播但線の走るルートは、昔の播磨から但馬に至る播但街道(今の国道312号線)に並行していた。それは播州平(姫路平野)を流れ下る市川に沿ってさかのぼり、中国山地を生野峠で越えて、丸山川の谷を下って播但平野へ出て、姫路と和田山を結んでいる。
その 起点の姫路からは右手に姫路城を望みながら、かつて京都へ向かう西国街道(山陽道)の入り口だった京口を過ぎても街並みはしばらく続いていた。やがて、野里からは田園風景となり、溝口を過ぎると列車は上り勾配を進みつつ、ゆるやかに左カーブすると福崎の町が見えてきた。ここには「遠野物語」の著者で知られる民俗学者の柳田国男の記念館があった。そして甘地、鶴居と過ぎると寺前(てらまえ)駅に到着した。ここからは朝夕の通勤列車がC11の引く6輛編成の客車で姫路へ通っている。ここを出ると市川沿いとなり、しばらく平坦な直線を進むが、すぐに山間に入り勾配も、15.2〜18.5‰となり、急カーブが続くようになってきた。この中国山地が近くなったので、日本海側から雪雲が流れ込んでくるため、冬の季節は曇天が多く、今までの雨の少ない明るい瀬戸内の天気とはお別れとなる。登ること10分ほどで山の中腹に位置する長谷(はせ)駅に到着した。ここは県立自然公園となった砥峰高原(とのみねこうげん)への最寄り駅であった。この高原は標高800〜900mほどの緩やかな起伏が連続する草原であって、周氷河地形の一種の化石周氷河斜面と呼ばれる地形として知られており、野草の宝庫であり、日本有数の「ススキの大群生地」であり、それに砥峰高原湿地が広がっている。当時は、大阪から直通の臨時列車が春の山焼き、秋の銀色ススキ原、冬のスキーなどの頃に運転されるほどであった。
長谷駅を出ると、線路は左右にカーブしながら山間の市川の渓谷をさかのぼって走って行くのだが、ここは明治時代の中頃の建設だから、その工事はさぞかし難工事にであったことが容易に見て取れるほどのけわしい地形なのであった。列車は多くの鉄橋を渡り、三つのトンネルを抜けて、やがて広い構内の生野駅に到着した。古い建物が並ぶ生野往来に沿った街には近代化産業遺産である生野銀山を訪ねる人々で活気づいていた。
この先も急勾配が続きカーブを曲がりきると、まもなく狭くて全長が 614mもある生野トンネルで生野峠を抜けることになる。この上にある生野峠は南流して瀬戸内の播磨灘に注ぐ市川水系と、北へ流れ下って谷底平野から豊岡盆地を蛇行して日本海に注ぐ円山川水系とを分ける大分水嶺で、標高 350mの峠である。ここを通り過ぎると、狭い谷間を25.0‰の急勾配で西側の山すそに沿いながら急カーブを連続させて下っていく。やがて集落が見えてくると新井駅である。新井からは広々とした円山川の谷底平野の水田地帯となり下り勾配もゆるくなって、車窓も再び田園風景となってくる。次の青倉えきから先ではDD54の前補機が突かないので撮影には好ましかった。そして古い文字通りの城下町である竹田を過ぎると、やがて右手に和田山の町が見え、国道とオーバークロスして列車が左にカーブすると終着和田山駅に到着した。ここは山陰本線と播但線が交わり、国道9号と国道312号が交わる交通の要所であった。昔の話題だが、昭和27年(1952年)に 大阪駅〜城崎駅(現:城崎温泉駅)間を播但線経由で運転する臨時快速列車「たじま」が設定され、3年後「定期の準急列車となって、C57の牽引であったが、私の訪ねた頃は既にDCとなっていた。

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・播但線アラカルトのリンク
144. 和田山機関車庫と二つの歴史的城跡・播但線/京口&和田山
(姫路城遠望と竹田城跡からの俯瞰)
251. 生野峠のC57三重連・播但線/新井→生野 間